鎮守社は元禄5年(1692)に建立され、手前から護法尊・毘沙門天・弁財天・十三仏が
善峯寺を守護するために祀られています。
経堂の背後の石段
鎮守社の前で経堂の背後から登って来た石段と合流します。
その先には門があり、門に掛かる額には桂昌院の略歴が記されています。
門をくぐった左側に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っています。
鎌倉時代に慈鎮和尚により伝教大師筆の法華経が納められています。
石段を登った上部に桂昌院の遺髪を納めた廟所があります。
桂昌院が亡くなった宝永2年(1705)に建立されました。
桂昌院は寛永4年(1627)に京都・大徳寺付近で本庄宗正(ほんじょう むねまさ)の娘として
誕生したとされていますが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂がありました。
西陣織屋、畳屋、八百屋の娘と諸説あり、6歳の時に善峯寺成就坊の義兄・賢海の許で
母親と共に暮らしていたとされています。
寛永16年(1639)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕えるようになり、
幼名「お吉」を「お玉」と改めました。
後に春日局から指導を受けるようになり、徳川第3代将軍・家光に見初められて側室となり、
正保3年(1646)1月に綱吉を出産しました。
慶安4年(1651)に家光の亡き後、落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入寺し、
「桂昌院」と号しました。
延宝8年(1680)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入りました。
元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位を賜りましたが、
宝永2年(1705)6月に79歳で生涯を閉じられました。
「玉の輿」の語源となったもと伝わり、実家の本庄氏は桂昌院の威光により、
その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの
小藩ながら大名として立身出世しました。
桂昌院は、善峯寺以外にも多くの社寺に寄進し、再建・再興に尽力されました。
鎮守社から西へ進み、石段を登った所に明治18年(1885)に建立された釈迦堂があります。
堂内には源算上人作の釈迦如来坐像が安置されていますが、
合掌姿をされた石仏で、国内では他に例が見られません。
かって南西2kmほど離れた釈迦岳(標高650m)の山上に安置され、
「釈迦岳」の由来にもなっています。
明治時代になり、当時の住職が夢告を受けて明治11年(1878)に、
現在地にあった薬師堂に釈迦如来坐像が遷され合祀されました。
その際、釈迦如来から玉の汗が流れ出たと伝わります。
住職は布で汗を拭い、その布を体の病んでいる所に当てると、病が癒えたとされ、
傷病治癒に霊験あらたかとして信仰が集まりました。
明治18年(1885)に信徒の寄進より釈迦堂が建立され、
同20年に釈迦如来坐像が安置されました。
釈迦堂では神経痛・腰痛守りの「お守り」が授与されていますが、
阪神大震災で高速道路落下を免れた運転手が釈迦堂のお守りを持っていたことから
「落ちないお守り」として、受験生がお守りを求めるようになりました。
現在では「息災安穏」のお守りが新たに授与され、受験生等の願いに応じています。
釈迦堂の北側に浴場があります。
釈迦如来の汗を霊液として薬湯と合わせ、神経痛・腰痛に薬効があるとして
5月~10月の第二日曜日に参拝者に供されています。
釈迦堂の左側を西へ進むと「奥之院 出世薬師如来」の石碑が建っていますが、
その手前を左側に下った所に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂は、寛文13年(1673)に建立され、常行三昧の道場でもあることから
「常行三昧堂」とも呼ばれています。
本尊として宝冠阿弥陀如来坐像が安置され、徳川家累代や信者の位牌が祀られています。
阿弥陀堂の南側に書院がありますが、通常は非公開のようです。
奥之院の参道へ戻った所に稲荷社があり、正一位稲荷大明神が祀られています。
参道の坂道を登って行くと薬師堂への石段がありますが、
石段の左側を進んだ所に「けいしょう殿」があります。
昭和62年(1987)に花山法皇西国札所中興一千年を記念して、
見晴らしの良いこの地に建立されました。
無料休憩所で、中央に桂昌院の像が祀られていますが、
景勝地の意味も含まれているようです。
薬師堂へ戻ります。
薬師堂は元禄14年(1701)に建立されましたが、昭和63年(1988)に現在地に移築されました。
堂内には本尊として薬師如来像と日光・月光の両菩薩像が安置されています。
桂昌院の父である本庄宗正が本尊の薬師如来に、
我が子が無事に誕生するように祈願したとされています。
生まれた子は成長して徳川第5代将軍・綱吉の生母となりました。
以来、開運出世のご利益を授ける「出世薬師如来」として信仰されるようになりました。
薬師堂の前には桂昌院の歌碑が建立されています。
「たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」
「たらちを」とは実父のことで、元禄11年(1698)に桂昌院が薬師如来に献じたとされています。
蓮華寿院の庭園-背後の建物は薬師堂
薬師堂の奥へと進むと、かって蓮華寿院があり、その庭園が残されています。
源算上人は『妙法蓮華経』を一字三礼と6ヶ年無言の行によって写経され、
その地に蓮華寿院を建立されました。
応保元年(1161)、観性(かんしょう)は往生院(後の三鈷寺)に入り、
仏眼曼荼羅、釈迦・阿弥陀如来像を安置し同寺を再興しました。
また、善峯寺の常行堂や蓮華寿院の付近に法華堂を建立し、称名念仏、
法華経読誦を定め、中興の功績により二世と仰がれています。
文治5年(1189)には源頼朝の願いにより鶴岡八幡宮大塔供養の導師を勤め、
その報恩として頼朝から仁王像と二十八部衆の像が寄進されました。
蓮華寿院の庭園-その2
歴史書『愚管抄』を記し、天台座主を4度就任した慈円は、観性法橋(かんしょうほっきょう)
から仏法を受けたことにより、観性法橋を訪ねて度々善峯寺へ訪れました。
慈円は、知恩院隣りの吉水粟田の青蓮院門跡に住したことで「吉水の僧正」とも呼ばれ、
諡号(しごう)を慈鎮和尚(じちん かしょう)と称します。
建久3年(1192)には後鳥羽天皇より「良峯寺」を改め「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。
慈円は、源算上人より始められた法華八講を、末代まで広めようと如法経堂を建立して、
伝教大師の写された法華経一部を納めました。
慈円は、善峯寺興隆の功績多く、当山三世と仰がれます。
法然上人の弟子であった証空は、建暦2年(1212)に法然上人が亡くなった後、
蓮華寿院に入りました。
やがて、蓮華寿院を後鳥羽天皇皇子・道覚法親王に譲り、慈円に譲られて
往生院(三鈷寺)に移りました。
証空は、西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖となり、
西山国師(せいざんこくし)とも呼ばれ、没後は鑑知国師の諡号(しごう)が贈られています。
道覚法親王は、承久3年(1221)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討伐の兵を挙げた
承久の乱(じょうきゅうのらん)の後に善峯寺に逃れてきました。
寛元元年(1243)に水無瀬離宮にあった上皇の御願寺・蓮華寿院の
本尊や堂宇を善峯寺へ遷しました。
その後、宝治元年(1247)に天台座主に就き、翌宝治2年(1248)には
青蓮院門跡を引き継ぎましたが、没後は善峯寺に葬られました。
道覚法親王以降、青蓮院門跡を継がれた亀山天皇の皇子・慈道法親王、
伏見天皇の皇子・尊圓法親王、後伏見天皇の皇子・尊道法親王が蓮華寿院に入り
「御所屋敷」と呼ばれました。
庭園から南へ進み、その先で山側に入って行くと観音菩薩像が祀られています。
その先に青蓮院宮墓地があり、手前から道覚法親王、覚快法親王、尊圓法親王、
慈道法親王、尊道法親王の墓があります。
覚快法親王(かくかいほっしんのう)は、鳥羽天皇の皇子で治承元年(1177)に
天台座主に就任後、治承4年(1180)に青蓮院に入りました。
青蓮院宮墓地の左側には、観性法橋、証空善恵上人、宇都宮蓮生房の墓があります。
宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は謀反の嫌疑をかけられ出家し、
実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号しました。
出家後は証空に師事し、嘉禄3年(1227)に発生した嘉禄の法難の際には、
延暦寺の僧兵から法然上人の遺骸を守るために、東山の法然廟所から二尊院までの
遺骸移送の護衛を行いました。
青蓮院宮墓地から下った所に本庄氏一族の墓があります。
桂昌院の実弟・因幡守宗資(むねすけ)等、天正10年(1582)~宝暦2年(1752)間の
一族が葬られています。
墓地を出るとライオンが守護をしていました。
墓地から下って行くと青蓮の滝があります。
かってはここで滝行が行われていたのかもしれません。
滝から釈迦堂へと下り、釈迦堂から石段を下って北へ進むと白山権現が祀られています。
その先に十三重石塔が建ち、三鈷寺へのゲートがあります。
ゲートにはインターホンが設置され、それで通話すれば善峯寺へ戻ることもできます。
三鈷寺へ向かいます。
続く
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