タグ:説法石

寺号標
慈眼院から府道248号線を「土丸」の信号まで戻り、左折して府道62号線を
北上して「大久保東」の信号で右折して国道170号に入り、
進んだ先に水間寺があります。
慈眼院からは約30分の距離で、駐車場から龍谷橋を渡り、厄除橋へ向かうと
「天台宗 別格本山」「水間寺」の石標が建っています。
水間寺は山号を「龍谷山」、院号を「観音院」と号し、
通称で「水間観音」の名で親しまれています。
神仏霊場の第53番、新西国霊場の第4番の他、和泉西国三十三箇所や
南海沿線七福神の各札所となっています。
厄除橋
厄除橋を渡ります。
水間の寺号は、蕎原川(そぶらがわ)と秬谷川(きびたにがわ)の
合流地点に位置することによります。
聖観世音菩薩立像
橋を渡った左側に「聖観世音菩薩立像」(平和観音)が建ち
その右側が写経場になっています。
写経場には西国三十三霊場全ての本尊が安置されています。
説法石
「説法石」は元禄7年(1694)に描かれた絵図にも記されていますが、
残念ながら付近には由来を記した説明板等が無く詳細は不明です。
千日隔夜宝篋印塔
「千日隔夜宝篋印塔」は、享保12年(1727)に建てられ、
基礎の一面に隔夜僧が浮き彫りにされています。
隔夜僧
隔夜(かくや)は「よまぜ」とも読み、一日交替に特定の神社・仏閣に
往復参詣することを「隔夜修行」と言いました。
平安時代の僧・円成法師は、春日社と長谷寺との間を往復した
隔夜僧の先駆けとされています。
このコースは一般的となり、奈良の神仏に念仏を唱えてお詣りして泊まり、
翌日は歩いて長谷寺へ詣で、そこで泊まるを千日以上続けるという修行が
明治まで続いたと伝わります。
前かがみに歩く僧の姿は、その苛酷さを偲ばせます。
本堂
現在の本堂は、岸和田藩主・岡部長備(おかべ ながとも:1763~1803)とその
息子・岡部長愼(ながちか:1787~1859)の二代にわたる尽力により、
文政10年(1827)に再建されました。
平面が約23m四方に及ぶ、大阪府下で最大級の本堂で、
貝塚市の文化財に指定されています。
以前の本堂は、天正13年(1585)に羽柴秀吉(1537~1598)の根来攻めで、
根来側についたため、堀秀政の軍勢により焼き討ちに遭い、
七堂伽藍をはじめ坊舎等は灰燼に帰してしまいました。
その後復興するも、天明4年(1784)に本堂より出火し、
食堂や三重塔も類焼しました。
本尊は、身丈1寸8分(約6cm)の聖観世音菩薩で、秘仏とされ、
本堂正面には御前立聖観音菩薩立像が安置されています。
経蔵
本堂の前に経蔵があります。
聖武天皇の妙典、光明皇后の般若経、慈覚大師妙法経等が納められていましたが、
兵火に遭い全て焼失しました。
現在は、大般若波羅密多経600巻と大蔵経等が納められています。
経蔵-蔵内
蔵内には傅大師(ふだいし:497~569)とその長男・普建、
及び次男の普成(ふしょう)の像が安置されています。
傅大師は中国の南北朝時代の在俗仏教者で、
大蔵経閲覧の便を図って転輪蔵を考案し、その像が経蔵などに安置され、
微笑の相を現していることから俗に「笑い仏」と称されています。
布袋尊像
布袋尊像
鐘楼
鐘楼
常寂光堂
常寂光堂
先祖供養や水子供養のための回向が毎日行われています。
水子地蔵尊
水子地蔵尊
鎮守権現宮
鎮守権現宮は、行基(668~749)が熊野・蔵王・白山の三社権現を勧請したもので、
水間寺創建時より祀られています。
降臨の滝
降臨の滝
第45代・聖武天皇(在位:724~749)が42歳の厄年の年に病を患い、
なかなか平癒しませんでした。
ある日、天皇は夢告を受けます。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。
よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」
行基は、天皇の勅命を受け、尊像を求めて水間に来た時、
16人の童子が現れて行基をこの谷間へと導きました。
谷間にある巨岩の上に白髪の老人が現れ、一体の仏像を行基に手渡すと、
龍に姿を変え天へと昇って行ったと伝わります。
この仏像が、身丈1寸8分(約6cm)の聖観世音菩薩で、天皇に捧げた所、
病は全快し、現地に祀るようにとの勅命を受けた行基によって水間寺が創建されました。
この谷間にある滝は「降臨の滝」と呼ばれ、
聖観世音出現の地として聖地とされています。
三重塔
現在の三重塔は、天保5年(1834)に再建されたもので、明治以前に建てられた
大阪府内唯一の三重塔であり、貝塚市の文化財に指定されています。
井原西鶴が記した『日本永代蔵』第一巻「初午は乗って来る幸せ」では、
「利生の銭」としてこの三重塔が取り上げられています。
利生(りしょう)とは、「仏・菩薩が衆生に利益を与えること」の意味になります。
内容は以下のようになります。
江戸時代、水間寺では、その年1文借りれば、翌年2文にして返し、
100文借りれば200文返すという風習がありました。
或る年江戸の名も知れない廻船問屋が、一貫の利生の銭を借りて帰りました。
その廻船問屋は、漁師が出漁するときに、銭の由来を語って100文ずつ
貸し付けたところ、借りた人は自然と幸運に恵まれました。
その評判は遠い漁村にまでにも伝わり、借りては返す銭が次々と、
1年2倍の計算で、13年目にはもとの一貫文の銭が8192貫文となりました。
廻船問屋は、江戸から東海道を通し馬で8192貫文の銭を運んで寺に返済し、
寺はその銭で三重塔を建立したと伝わります。
三重塔-かえる股
三重塔の第一層の軒下のかえる股に十二支の彫刻が施されています。
愛染堂
愛染堂は「恋人の聖地」に選定されています。
お夏清十郎
愛染堂の境内に「お夏清十郎」の墓があります。
約700年前、伏見天皇(1265~1317)の勅使として当寺を訪れた山名清十郎と
その接待役となった水間の豪農・楠右衛門の娘・お夏は互いに惹かれあうように
なりましたが、清十郎の任務が終わり二人は離れ離れになりました。
お夏は愛染明王に清十郎との再会を毎夜祈り、願掛け椿の木の枝に
縁結びの紙を結んだと伝わります。
やがて、南北朝の戦が始まり、清十郎は南朝方として出陣し、
住吉渡辺橋の戦で幸い命は取り留めたものの敗者の身となってしまいました。
お夏は清十郎の姿を求め戦場へ駆けつけ、住吉の松原で巡り会うことができ、
手に手を取り合って水間に帰ってきました。
しかし、北朝方に知れ、水間に追手が差し向けられ、清十郎の家来の
山名忠平が身代わりとなり、首を討たれました。
岸和田・淨円寺門前に清十郎の首塚として今も残されているそうですが、
山名忠平のものになります。
お夏と清十郎は、水間の里に隠れ住み、仲睦まじく暮らして、
死後椿の木の根元に葬られたと伝えられています。
護摩堂
護摩堂は、平成25年(2013)に新しく建て替えられたもので、
堂内には鎌倉時代作と推定される不動明王立像が安置されています。
護摩堂-大念珠
護摩堂の前に大念珠が吊るされていて、「心静かに念じ、ゆっくりと
8個の数珠玉を落とし、自分の煩悩を取り除きましょう」と記されています。
行基堂
護摩堂の奥から秬谷川(きびたにがわ)に架かる通天橋を渡り、
国道170号線を横断した所に「西山」への登り口があります。
石段を少し登ると左側に貝塚市の文化財に指定されている
行基堂(開山堂)があります。
天平年間(729~749)に水間寺を開山した行基菩薩は、
自身の姿をすぐ横の鏡池に写し、霊椿木で自作の像を刻まれ
行基堂に安置されました。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、水間寺は紀州勢に
加担したため、堀秀政の軍勢に攻められて焼失しました。
行基堂も焼失し、現在の建物は江戸時代に再建されたもので、
境内の諸堂中最古の建物となっています。
堂内には作者不明の行基菩薩座像が安置されています。
瑞泉堂
鏡池の中には瑞泉堂があり、聖観音菩薩が本尊として祀られています。
弁天堂
鏡池の向かいの高台には弁天堂があり、弁財天が祀られています。
閼伽井-1
参道を先ほどの石段まで戻り、右側に進んだ所に閼伽井があります。
行基菩薩がこの先にある薬師堂の薬師如来に供える水を汲んだ霊泉とされています。
閼伽井-2
閼伽井には現在も霊水が湧き出ています。
白衣観音像
右側には、中国産の大理石で造られた白衣観音像が祀られています。
第二次大戦で旧満州に侵攻したソ連軍及び現地の一部暴徒により犠牲となった
開拓民とその家族を慰霊するために建立されました。
薬師堂
薬師堂は行基菩薩が当地を訪れたとき、聖観音の出現を願い薬師如来像を
祀ったと伝えられています。
現在の建物はコンクリート造りで近代になって再建されたと思われます。
水間観音駅
水間鉄道の終着駅・水間観音駅です。
貝塚駅~水間観音駅間(5.5km)を結び、貝塚駅で南海本線と連絡しています。
水間鉄道-古い電車
古い電車が展示されています。
水間鉄道-車庫
車庫
施福寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

説法石
向日神社前に説法石があります。
日蓮宗の開祖・日蓮聖人の孫弟子にあたる日像は、
布教のため永仁2年(1294)に京都へ訪れました。
他の宗派からの迫害を受け、度々京都から追放されました。
西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄り、この説法石に腰を下ろして
村人に日蓮聖人の教えを説いたと伝わります。
題目石塔
また、日像はこの地に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔を建てました。
五辻
向日神社から南へ進むと五辻の交差点があります。
平成24年(2012)、五辻に常夜灯が復活されました。
五辻の常夜灯は慶応元年(1865)に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の一つである
京都の千眼講によって建てられた石灯籠です。
江戸時代の終わり頃からは、眼病によく効く水があることで
楊谷寺へ参詣する人が増えていきました。
京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に
一対の大きな石灯籠が建てられました。
当時、この地は、向日神社の境内地でしたので、
その過程が神社の古文書に残されていました。
昭和初期の新道建設時に、南側に有った1基は移設され現在は長岡京市梅が丘に、
北側の1基も昭和44年(1969)頃の歩道工事の時に楊谷寺の表参道にある
大阪府島本町と長岡京市の境付近に移設されました。
山門
五辻から細くはなりますが、直進するのが西国街道で、
南へ進んだ東側に石塔寺があります。
石塔寺は山号を法性山と号する本化日蓮宗本山の単立寺院です。
鎌倉時代末の延慶3年(1310)に、日像は京都の七口に題目石塔の建立を目指し、
向日神社前に題目石塔を建立しました。
室町時代の文明年中(1469~87)に、日成は向日神社にあった題目石塔を現在地に移し、
石塔の傍らに本堂を建立したのが石塔寺の始まりとされています。
現在は山門前に題目石塔が残されています。
江戸時代の寛文年間(1661~72)には独立本山に成長し、
末寺は近畿一円に総数33ヶ寺に達しました。
明治9年(1876)、興隆寺を吸収合併し、翌年に本堂など伽藍の整備が行われました。
付近には石塔寺にちなんだ地名が残されていることから、
伽藍の壮大さをうかがうことができます。
また、この付近は、長岡京の時代に藤原種継が暗殺された場所や、
平安時代に紀貫之が京に入る前に休息した「島坂」など
歴史が偲ばれる場所でもあります。
日像菩薩御石像
寺号標石の裏側に「日像菩薩御石像」と刻まれた石碑が建っています。
日像は文永6年(1269)に下総(現在の千葉県)で生まれ、7歳の時に出家し、
日蓮聖人の六大弟子であった兄・日朗の弟子となりました。
25歳の時、日蓮聖人から「帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)」の
遺命を託され、京都での布教活動を行いました。
しかし、他の宗派からの迫害を受け、三度の追放と赦免という
「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けました。
三度目の京都追放から赦免された後、弘通の勅許を得、妙顕寺を開きました。
建武元年(1334)、妙顕寺は後醍醐天皇の勅願寺となり、足利将軍家の祈祷所にもなりました。
興国3年/康永元年(1342)に入滅され、深草の宝塔寺で荼毘に付され葬られました。
没後、日蓮聖人、日朗上人、日像上人は天皇から菩薩号を賜わりました。

石塔寺では、毎年5月3日に「鶏冠井題目踊」が奉納されます。
日蓮宗に改宗した鶏冠木(かいで)の村人の家に日像が立ち寄った時、炊事場の湯気に
「南無妙法蓮華経」の題目が浮かび、それを見た村人が歓喜のあまり踊りだしたのが
「鶏冠井題目踊」の始まりとされています。
当初は、北真経寺と南真経寺で交互に奉納されていたのですが、
廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
鶏冠井題目踊は京都府無形民俗文化財に指定されています。
松の切り株
本堂前の松の木は伐採されていました。
伐採前の松
伐採前の松。
枯れてしまったのかもしれません。
本堂
本堂は鉄筋コンクリート造りです。
本尊は三宝尊で、仏の第一を釈迦如来、法の第一を法華宗、僧の第一を日蓮聖人とし、
仏・法・僧の三宝の各第一を一つの本尊にまとめたものが三宝尊とされています。
妙見堂
妙見菩薩が祀られた妙見堂だと思われます。
日蓮宗の檀越であった下総の豪族・千葉氏が妙見菩薩を守護神としていたことから、
日蓮宗の寺院妙見菩薩が祀られるようになったとされています。
七面堂と迹殿
手前の七面堂には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が祀られていると思われます。
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ
日蓮宗系において法華経を守護する女神とされています。
その本地は、山梨県の七面山山頂にある敬慎院に祀られている神で、
吉祥天とも弁財天ともいわれています。

身延に隠棲していた日蓮聖人は、説法をしていた時に美しい女性に気付きました。
実はその正体は紅龍で、「私は七面山に住む七面大明神です。
身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。
末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き
心の安らぎと満足を与えます」と述べ、七面山山頂の方へと飛び去りました。
日蓮聖人は、「いつか七面山に登って七面大明神をお祀りしよう」と考えていたのですが、
生きている間に叶わず、弟子の日朗と南部實長(なんぶさねなが)が登山して、
七面大明神を勧請し、身延山久遠寺の守護神としたと伝わります。

奥の迹殿(じゃくでん)の詳細は不明ですが、
石塔寺に合併された興隆寺と関係があるようです。
鐘楼
鐘楼
庫裏
庫裏

南真経寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ