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山門
賣布神社の北西方向、バイクで10分足らずの距離に清荒神清澄寺があります。
駐車場からの参道を進むと山門があります。
現在の山門は明治40年(1907)頃に再建されたと伝わります。
清荒神清澄寺は山号を「蓬莱山」と号する真言三宝宗の大本山で、
摂津国八十八所巡礼・第72番、西国七福神・布袋尊などの札所です。
三門には山号「蓬莱山」の扁額が掲げられています。
蓬莱山は滋賀県にある山ではなく、古代中国に伝わる想像上の神山で、
不老長寿の仙人が住み、現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶとされていました。
山容が仙境に相応しいとして、開創時よりこの名があります。
宇多天皇の石碑
山門の右手前には第59代・宇多天皇(うだてんのう・在位:887年~897年)から賜った
称号「日本第一清三寳大荒神王」の石標が立っています。
清荒神清澄寺は、平安時代初期の寛平8年(896)に宇多天皇の創意による
勅願寺として創建されました。
当時、猪名の平野や武庫の裏が一望に見下ろせる山の尾根に清澄寺を、
そして西の谷に荒神社が創建されました。
大日如来を本尊とし、延暦寺の高僧・増命(ぞうみょう=死後、静観僧正の号を
下賜される)を開山の祖とし、真言宗東寺の長者、益信僧都(やくしんそうず)を
導師として開創されました。
益信僧都は、この聖地に荒神尊を祀り、仏法守護、三宝の加護を祈ったところ
社前にあった榊の木に、荒神尊の御影がありありと現出されました。
これが「荒神影向の榊」と伝わります。
宇多天皇は、この霊験の報告を受けると大変感銘され
「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。
大界外相の石碑
左手前には、ここからは聖域であると意味する
「大界外相(たいかいげそう)」と刻まれた石碑が立っています。

山門の内側には「薝蔔林中不嗅餘香(せんぷくりんちゅう よこうをかがず)」の
扁額が掲げられています。
この語は維摩経より採られており、薝蔔(くちなし)の花の強い香りが他の香りを
打ち消すところから、一旦山門をくぐれば俗界の煩悩も打ち消され、
清浄な気持ちになり身も心も洗われる思いであるという意味です。
講堂
山門をくぐった右側に講堂があり、その前に二本の大銀杏が聳えています。
樹齢約500年と推定され、宝塚市の天然記念物に指定されています。
修行大師像
左側には売店と無料休憩所があり、
その先、通路を挟んだ向かい側に修行大師像が祀られています。
護牛神堂-1
修行大師像の左側に護牛神堂があり、本尊の牛頭天王(ごずてんのう)に、
弘法大師、不動明王が合祀されています。
牛頭天王はインドにあった祇園精舎の守護神で、平安時代では
御霊(ごりょう)を鎮めるために祀られていました。
因みに祇園精舎は、釈迦が説法を行ったとされる寺院で、
「身寄りのない者に施しをする」という意味を持っています。
布袋像
鳥居の手前の両側には布袋像が祀られていますが、袋は背負わず宝珠を持っています。
天堂
鳥居をくぐった正面に天堂(拝殿)があります。
天堂には、三宝荒神王、大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩他、
福徳を授ける諸神諸仏が祀られています。
棟続きの浴油堂では、三宝荒神・歓喜天尊の
合行如法浴油供(ごうぎょうにょほうよくゆく)の秘法が毎日行われています。
眷属堂
天堂の左側に眷属堂(けんぞくどう)があり、三宝荒神王の眷属(従者)である
「布袋尊」が祀られています。
毎年12月23日から翌年2月5日まで布袋尊の伏見人形が授与されます。
小さいものから大きいものまで7体あり、一番小さい人形から7年かけて
順番に神棚に祀り、もし途中で不幸事があれば、
それまでの布袋さまをすべてお返しして、
翌年また1年目から再スタートするという習わしがあります。
また、御祈祷の受付、三宝荒神王御尊影、御守、厄除開運火箸などの
授与が行われています。
鐘楼
眷属堂の向かって左側に鐘楼があります。
護法堂
眷属堂の前を奥へ進むと護法堂(本社)があり、正面に大勝金剛転輪王(如来荒神)、
右に歓喜童子、左に弁才天が祀られています。
影向の榊
護法堂の背後に荒神影向(こうじんようごう)の榊があります。
いつの頃からかそこに供えられた賽銭を持ち帰り、次回参詣した時、
倍にして返すという風習が伝えられています。
その賽銭を紙に包んで財布に入れておくと小遣銭に不自由しない、
またそれを「御守り」として持っていると吉事があるなど伝わります。
眼神祠
護法堂の北側に眼神祠(がんじんし)があります。
かっては、護法堂のちょうど裏にあり、当時は清水が湧き出していて、
その水で眼を洗うと眼病に御利益があったとの伝承が残されています。
龍王堂
眼神祠の右側に龍王堂があり、本尊として「善女龍王(ぜんにょりゅうおう)」が
祀られています。
天長元年(824)、長引く干ばつに対して
第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう/在位:823~833)は
空海に祈雨の修法を命じました。
空海は神泉苑で請雨経(しょうきょう)の法を執り行い、祈祷が7日間に及んだ時、
祭壇の上に五尺ほどの蛇が出現しました。
その蛇は頭に五寸ほどの金色の蛇を載せており、すぐに池に入ると、
まもなく空が曇って雨となり、国中が潤ったと伝えられています。
空海は善如龍王が請雨経の法の霊力を顕すために現れたと説き、
霊験あらたかとされています。
納札所
天堂の北側に納札所があります。
火箸納所
納札所の右側に火箸納所があります。
火箸-1
多数の火箸が奉納され、左側には中位の、背後には大きくて重そうな火箸もあります。
火箸-2
厄年の人が火箸で厄をつまみ出すとされ、男性41~43歳、女性32~34歳の大厄には、
各々前厄から3年間、小厄のときは1年間、厄が明けるまで自宅で祀り、
厄が明けた年の節分以降に火箸納所に納めます。
行者洞
火箸納所の右側に行者洞があり、神変大菩薩が祀られています。
神変大菩薩像
役小角(えん の おづの:634~701)は修験道の開祖とされ、寛政11年(1799)には
役行者御遠忌(没後)1100年を迎え、第119代・光格天皇(在位:1780~1817)から
「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡(おくりな)が贈られました。
宝蔵
行者洞から参道を挟んだ右側に宝蔵があります。
宝稲荷社-1
行者洞と宝蔵の間には山腹を削るようにして造られた参道があり、
参道を進むと左側に宝稲荷社があります。
明治時代(1868~1912)に祀られるようになりました。
本堂
参道を進んだ先に本堂があります。
安政年間(1855~1860年)に山の尾根から現在地に移築され、開創千百年記念事業として
平成元年(1989)から5年間をかけて平成の大改修が行われました。
本堂-堂内
本尊は像高118.7cmの大日如来坐像で、
室町時代(1336~1573)初期の作と推定されています。
両脇には阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が安置されています。
また、向かって左に不動明王、右に弘法大師が祀られています。
一願地蔵尊
本堂前の石段を下った東側に明治24年(1891)に信者の方々の寄進により造立された
一願地蔵尊が祀られています。
頭上にまで水を掛けて一つの願いを念ずれば、ご利益があると言われています。
庭園-1
西側には池泉回遊式の庭園が築かれています。
庭園-2
その2
史料館
庭園の南側に史料館があります。
鉄斎美術館が資料整理で休館中のため、史料館で展示されているそうですが、
史料館の開館は10時からですの入館は断念しました。
宗務所-1
史料館から参道を挟んだ向かい側に本坊があります。
龍王滝への参道
本坊前を北へ進むと鉄斎美術館や龍王滝への参道があり、門扉が閉じられていました。
他の参拝者から開閉できると聞き、龍王滝へ向かいました。
本堂-裏側
本堂の裏側には霊牌堂と練行堂があります。
仏足石
参道の正面には仏足石が祀られています。
辰馬悦叟の碑
仏足石の右側には辰馬悦叟(たつうまえっそう)君頌徳碑が建立されています。
清荒神清澄寺の信者で西宮の酒造家・辰馬悦叟(1835~1920)は、
富岡鉄斎(1836~1924)と親交が深く、鉄斎作品を蒐集していました。
第37世法主・坂本光浄(1875~1969)は、辰馬悦叟の没後、
境内に頌徳碑を建碑することになり、
石碑の篆額(てんがく=一番上に刻まれた題字)を依頼するために、
初めて京都の鉄斎を訪ねました。
このときの縁が、鉄斎と光浄の交流に繋がり、
1,200余点の鉄斎作品を収蔵する緒となりました。
鉄斎美術館
休館中の鉄斎美術館「聖光殿」。
昭和50年(1975)4月に開館し、絵画や書をはじめ、鉄斎が絵付けを施した器物や
手造りの陶器など、晩年の傑作を中心に現在では2,000余点が収蔵されています。
龍王滝
鉄斎美術館の東側を北へ進んだ先に龍王滝があります。
滝の左側の岸壁が刳り抜かれ、不動明王が祀られていますが、
見ることはできませんでした。
十三重石塔
滝の左側には十三重石塔が建立されています。

伊和志津神社へ向かいます。
続く
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山門
自宅を午前6時に出発し、ほぼ予定通り午前7時半過ぎに清荒神清澄寺に到着しました。
駐車場からの参道を進むと山門があります。
現在の山門は明治40年(1907)頃に再建されたと伝わります。
清荒神清澄寺は山号を蓬莱山と号する真言三宝宗の大本山で、神仏霊場・第79番、
言宗十八本山・第3番、役行者霊蹟札所などの札所となっています。
三門には山号「蓬莱山」の扁額が掲げられています。
蓬莱山は滋賀県にある山ではなく、古代中国に伝わる想像上の神山で、不老長寿の仙人が住み、
現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶとされていました。
山容が仙境に相応しいとして、開創時よりこの名があります。
宇多天皇の石碑
山門の右手前には第59代・宇多天皇(うだてんのう・在位:887年~897年)から賜った
称号「日本第一清三寳大荒神王」の石標が立っています。
清荒神清澄寺は、平安時代初期の寛平8年(896)に宇多天皇の創意による勅願寺として創建されました。
当時、猪名の平野や武庫の裏が一望に見下ろせる山の尾根に清澄寺を、
そして西の谷に荒神社が創建されました。
大日如来を本尊とし、延暦寺の高僧・増命(ぞうみょう=死後、静観僧正の号を下賜される)を
開山の祖とし、真言宗東寺の長者、益信僧都(やくしんそうず)を導師として開創されました。
益信僧都は、この聖地に荒神尊を祀り、仏法守護、三宝の加護を祈ったところ社前にあった
榊の木に、荒神尊の御影がありありと現出されました。
これが「荒神影向の榊」と伝わります。
宇多天皇は、この霊験の報告を受けると大変感銘され「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。
大界外相の石碑
左手前には、ここからは聖域であると意味する「大界外相(たいかいげそう)」と刻まれた
石碑が立っています。

山門の内側には「薝蔔林中不嗅餘香(せんぷくりんちゅう よこうをかがず)」の扁額が掲げられています。
この語は維摩経より採られており、薝蔔(くちなし)の花の強い香りが他の香りを打ち消すところから、
一旦山門をくぐれば俗界の煩悩も打ち消され、
清浄な気持ちになり身も心も洗われる思いであるという意味です。
講堂
山門をくぐった右側に講堂があり、その前に二本の大銀杏が聳えています。
樹齢約500年と推定され、宝塚市の天然記念物に指定されています。

左側には売店と無料休憩所があります。
修行大師像
無料休憩所の先、通路を挟んだ向かい側に修行大師像が祀られています。
護牛神堂-1
修行大師像の左側に護牛神堂があり、本尊の牛頭天王(ごずてんのう)に、
弘法大師、不動明王が合祀されています。
牛頭天王はインドにあった祇園精舎の守護神で、平安時代では
御霊(ごりょう)を鎮めるために祀られていました。
因みに祇園精舎は、釈迦が説法を行ったとされる寺院で、
「身寄りのない者に施しをする」という意味を持っています。
天堂への参道
無料休憩所と護牛神堂の間の参道を西へ進むと鳥居が建っています。
布袋像
鳥居の手前の両側には布袋像が祀られていますが、袋は背負わず宝珠を持っています。
天堂
鳥居をくぐった正面に天堂(拝殿)があります。
天堂には、三宝荒神王、大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩他、
福徳を授ける諸神諸仏が祀られています。
棟続きの浴油堂では、三宝荒神・歓喜天尊の合行如法浴油供(ごうぎょうにょほうよくゆく)の
秘法が毎日行われています。
眷属堂
天堂の左側に眷属堂(けんぞくどう)があり、三宝荒神王の眷属(従者)である
「布袋尊」が祀られています。
毎年12月23日から翌年2月5日まで布袋尊の伏見人形が授与されます。
小さいものから大きいものまで7体あり、一番小さい人形から7年かけて順番に神棚に祀り、
もし途中で不幸事があれば、それまでの布袋さまをすべてお返しして、
翌年また1年目から再スタートするという習わしがあります。
また、御祈祷の受付、三宝荒神王御尊影、御守、厄除開運火箸などの授与が行われています。
鐘楼
眷属堂の向かって左側に鐘楼があります。
護法堂
眷属堂の前を奥へ進むと護法堂(本社)があり、正面に大勝金剛転輪王(如来荒神)、
右に歓喜童子、左に弁才天が祀られています。
影向の榊
護法堂の背後に荒神影向(こうじんようごう)の榊があります。
いつの頃からかそこに供えられた賽銭を持ち帰り、次回参詣した時、
倍にして返すという風習が伝えられています。
その賽銭を紙に包んで財布に入れておくと小遣銭に不自由しない、
またそれを「御守り」として持っていると吉事があるなど伝わります。
眼神祠
護法堂の北側に眼神祠(がんじんし)があります。
かっては、護法堂のちょうど裏にあり、当時は清水が湧き出していて、
その水で眼を洗うと眼病に御利益があったとの伝承が残されています。
龍王堂
眼神祠の右側に龍王堂があり、本尊として「善女龍王(ぜんにょりゅうおう)」が祀られています。
天長元年(824)、長引く干ばつに対して淳和天皇は空海に祈雨の修法を命じました。
空海は神泉苑で請雨経(しょうきょう)の法を執り行い、祈祷が7日間に及んだ時、
祭壇の上に五尺ほどの蛇が出現しました。
その蛇は頭に五寸ほどの金色の蛇を載せており、すぐに池に入ると、まもなく空が曇って雨となり
、国中が潤ったと伝えられています。
空海は善如龍王が請雨経の法の霊力を顕すために現れたと説き、霊験あらたかとされています。
納札所
天堂の北側に納札所があります。
火箸納所
納札所の右側に火箸納所があります。
火箸-1
火箸-2
多数の火箸が奉納され、左側には中位の、背後には大きくて重そうな火箸もあります。
厄年の人が火箸で厄をつまみ出すとされ、男性41~43歳、女性32~34歳の大厄には、
各々前厄から3年間、小厄のときは1年間、厄が明けるまで自宅で祀り、
厄が明けた年の節分以降に火箸納所に納めます。
行者洞
火箸納所の右側に行者洞があり、神変大菩薩が祀られています。
神変大菩薩像
役 小角(えん の おづの)は修験道の開祖とされ、寛政11年(1799)には
役行者御遠忌(没後)1100年を迎え、第119代・光格天皇から
神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡(おくりな)が贈られました。
宝蔵
行者洞から参道を挟んだ右側に宝蔵があります。
宝稲荷社-1
宝稲荷社-2
行者洞と宝蔵の間には山腹を削るようにして造られた参道があり、参道を進むと
左側に宝稲荷社があります。
明治時代に祀られるようになりました。
本堂
参道を進んだ先に本堂があります。
安政年間(1855~1860年)に山の尾根から現在地に移築され、開創千百年記念事業として
平成元年(1989)から5年間をかけて平成の大改修が行われました。
本堂-堂内
本尊は像高118.7cmの大日如来坐像で、室町時代初期の作と推定されています。
両脇には阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が安置されています。
また、向かって左に不動明王、右に弘法大師が祀られています。
一願地蔵尊
本堂前の石段を下った東側に明治24年(1891)に信者の方々の寄進により造立された
一願地蔵尊が祀られています。
頭上にまで水を掛けて一つの願いを念ずれば、ご利益があると言われています。
庭園-1
庭園-2
西側には池泉回遊式の庭園が築かれています。
史料館
庭園の南側に史料館があります。
鉄斎美術館が資料整理で休館中のため、史料館で展示されているそうですが、
史料館の開館は10時からですの入館は断念しました。
宗務所-1
宗務所-2
史料館から参道を挟んだ向かい側に本坊があります。
龍王滝への参道
本坊前を北へ進むと鉄斎美術館や龍王滝への参道があり、門扉が閉じられていました。
他の参拝者から開閉できると聞き、龍王滝へ向かいました。
本堂-裏側
本堂の裏側には霊牌堂と練行堂があります。
仏足石
参道の正面には仏足石が祀られています。
辰馬悦叟の碑
仏足石の右側には辰馬悦叟(たつうまえっそう)君頌徳碑が建立されています。
清荒神清澄寺の信者で西宮の酒造家・辰馬悦叟(1835~1920)は、
富岡鉄斎(1836~1924)と親交が深く、鉄斎作品を蒐集していました。
第37世法主・坂本光浄(1875~1969)は、辰馬悦叟の没後、境内に頌徳碑を建碑することになり、
石碑の篆額(てんがく=一番上に刻まれた題字)を依頼するために、初めて京都の鉄斎を訪ねました。
このときの縁が、鉄斎と光浄の交流に繋がり、現在1,200余点の鉄斎作品を収蔵する緒となりました。
鯉のぼり
前の広場には無料休憩所があり、鯉のぼりが風を受けて勢いよく泳いでいました。
鉄斎美術館
休館中の鉄斎美術館。
龍王滝
鉄斎美術館の東側を北へ進んだ先に龍王滝があります。
滝の左側の岸壁が刳り抜かれ、不動明王が祀られていますが、見ることはできませんでした。
十三重石塔
滝の左側には十三重石塔が建立されています。

本堂の横にある納経所まで戻り、納経を済ませて中山寺へ向かいます。
続く

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