安楽寺の直ぐ南側に霊鑑寺の妙見堂があります。
霊鑑寺は洛陽十二支妙見めぐり・卯(東)の札所ですが、霊鑑寺は春と秋に
のみにしか開門されません。
のみにしか開門されません。
妙見堂は門の外にありますので、閉門時でも参拝は出来ますが、
御朱印の授与は不明です。
霊鑑寺は山号を「円成山」と号する臨済宗南禅寺派の尼門跡(あまもんぜき)寺院です。
慶長7年(1602)に持明院基子(?~1644)は、第107代・後陽成天皇の第六皇子・
堯然法親王(ぎょうねん ほっしんのう:1602~1661)を出産しました。
慶長17年(1612)、後に堯然法親王が門跡となる東山にある妙法院の領地であった
鹿ケ谷(ししがたに)の渓流沿いに屋敷を構え、寛永21年(1644)に薨去されました。
屋敷は第108代・後水尾天皇の皇女・谷宮(1639~1678=宗澄女王)に譲られ、
基子が薨去される前年の寛永20年(1643)に基子の希望により寺院が建立されました。
谷宮を開基として後水尾上皇により創建され、「谷御所」とも
「鹿ケ谷比丘尼御所」とも呼ばれました。
承応3年(1654)に東方山中にあった荒廃していた如意寺の本尊・如意輪観音と
霊鏡が遷され、「霊鑑寺」と改められました。
延宝6年(1678)に谷宮が薨去され、第111代・後西天皇の第3皇女・宗栄女王
(1658~1721)が霊鑑寺に入り2世となりました。
貞享4年(1687)、後西天皇の旧殿が下賜され、現在地へ移築されて、宗栄女王により
寺観が整えられました。
その後、代々皇女、皇孫女が住職となり、明治23年(1890)までは伏見宮の尼僧が
門跡として在院しました。
北側の書院は延宝3年(1675)に建立された後西天皇の御休息所で、
貞享2年(1685)に天皇が崩御された後、貞享4年(1687)に下賜され移築されました。
書院・居間には狩野永徳(1543~1590)、狩野元信(1476?~1559)、
円山応挙(1733~1795)により描かれた襖絵がありますが、
今年は書院の公開はありませんでした。
書院前を通り過ぎると本堂への石段があり、それを登った所に本堂があります。
現在の本堂は、享和3年(1803)に第11代将軍・徳川家斉(いえなり)から
寄進されました。
本尊は如意寺から遷された像高7寸(約21.2cm)で、手に霊鏡を持つ如意輪観音像で、
恵心僧都(942~1017)の作と伝わります。
2尺8寸(84.8cm)の厨子内に納められ、厨子は黒塗りで内側には金箔が張られています。
台座に立つ像高1尺6寸(50cm)の地蔵菩薩像も恵心僧都伝の作と伝わります。
不動明王像は智証大師円珍(814~891)の作とされ、以上が智証大師円珍が創建した
とされる如意寺から遷されました。
現在は臨済宗ですが、創建当初の霊鑑寺は天台宗でした。
弁財天は宗栄女王が夢に見た仏を、厳島神社の大鳥居の朽木で
仏師に刻ませたと伝わります。
普賢菩薩は第119代・光格天皇の皇后・欣子内親王
(よしこないしんのう:1779~1846)の念持仏でした。
天保11年(1840)に光格天皇が崩御され、翌年に出家して女院号宣下を受け、
「新清和院」と号しました。
釈迦如来は第117代・後桜町天皇(1740~1813)の念持仏であったとされています。
阿弥陀如来は第11代将軍・徳川家斉の正室・広大院(篤姫:1773~1844)の
自作とされています。
その他、源頼朝(1147~1199)が兜に入れていたと伝わる念持仏などが
安置されています。
にほんブログ村