谷汲駅
自宅から谷汲山華厳寺をスマホのナビで検索しても国道1号線を
経由するルートは選ばれません。
早朝5時過ぎに自宅を出発しますので、国道も空いているだろうと判断し、
1号線を行ったのは失敗でした。
信号が多く、信号待ちに時間を取られ、3時間45分を要し、
谷汲山華厳寺に着いたのは9時前となりました。
県道40号線から左折して谷汲山華厳寺への参道に入りますが、
左折せずに直進した左側に旧谷汲鉄道の谷汲駅があります。
谷汲鉄道は美濃電気軌道の北方線(忠節/ちゅうせつ駅~本揖斐/ほんいび駅)の
黒野駅とを結び、大正15年(1926)に開業しました。
昭和19年(1944)に名古屋鉄道に吸収されましたが、
平成13年(2001)に全線が廃線となりました。
谷汲駅の駅舎はその5年前、平成8年(1996)に村の援助を受けて
新しく建て替えられたばかりでした。
モ510型
駅から先のレールは撤去され、もう動くことは無いモ510型が留め置かれています。
モ750型
また、モ750型には、除雪装置らしきものが取り付けられ、現役時代の活躍が偲ばれます。
総門
参道へ戻ると総門があり、参道が北方向へ一直線に伸びています。
総門からの参道
参道の左右には桜とカエデが交互に植えられ、桜と紅葉の並木道となりますが、
冬は葉を落とした枝越しに背後の山並みが望めます。
(ここまでは平成29年(2017)12月15日参拝時の画像を使用しました)
仁王門
今回は仁王門先にある無料駐車場まで入りましたが、乗用車だとその手前で止められ、
有料駐車場に停めなければなりません。
仁王門まで戻ります。
仁王門は入母屋造、三間の二重門で、江戸時代の宝暦年間(1751~1764)に再建されました。
仁王門-扁額
門には「谷汲山」の扁額が掲げられています。
平安時代の延暦20年(801)、第50代・桓武天皇の勅願寺となり、
延喜17年(917)には第60代・醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を
下賜したとの記録が残されています。
山号の「谷汲山」は、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が
汲めども尽きなかったことに由来しています。
約270年間途絶えていた西国観音霊場を再興した花山法皇は、
華厳寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺=おいずる)、杖、及び
三首の御詠歌を奉納したと伝わります。
仁王像-右
仁王像-左
左右には運慶作と伝わる仁王像が安置されています。
草鞋
それぞれの仁王像の手前には巨大な草鞋が奉納されています。
仁王門からの参道
門をくぐってからも参道は一直線上に伸び、先には三十三度石が見えます。
地蔵堂
門をくぐった右側には放生池があり、その中に地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
地蔵堂には金色に輝く地蔵菩薩像が安置されています。
茶所
放生池の北側に茶所があります。
一乗院
茶所の北側に塔頭の一乗院がありますが、門は閉じられています。
地蔵院
一乗院の北側には地蔵菩薩が祀られています。
十王堂
地蔵菩薩の北側に十王堂があります。
十王堂-堂内
堂内には初七日から三十三回忌まで、地獄において亡者の審判を行う
十三王の像が安置されています。
しかし、人形のようなかわいい姿をしています。
閻魔大王の背後には、極楽浄土に往生の叶わなかった衆生を地獄の責め苦からの
救済するとされる地蔵菩薩像が光り輝いています。
羅漢堂
十王堂の北側に羅漢堂があります。
明王院-稲荷社
羅漢堂の向かいに塔頭の明王院があり、豊川稲荷分霊の荼枳尼天(だきにてん)が祀られ、
「荼枳尼真天」(だきにしんてん)と称されています。
荼枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神ですが、
日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるようになりました。
明王院-本堂
明王院-本尊
明王院の本堂には阿弥陀如来が祀られています。
明王院-象
境内には何故か象が...
表門
明王院の北側に本門があります。
焼香堂
本門から参道へ戻ると、参道の中央に焼香堂があります。
百度石
焼香堂の手前には百度石が建っています。
手水舎
参道の右側には手水舎があります。
手水舎-2
水は観音像が持つ水瓶から流れ落ちています。
魚籃観音
手水舎から奥へ進むと、大きな魚の上に立つ魚籃観音(ぎょらんかんのん)が祀られています。
中国で生まれた三十三観音の一尊で、馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体ともされています。
法華経を広めるために現れた観音とされ、この観音を念ずれば、
羅刹(らせつ=邪悪な力)・毒龍・悪鬼の害を除くことを得ると信仰されています。
羅漢像
魚籃観音の北側には羅漢像が祀られています。
経堂
参道に戻ると左側に一切経堂があり、堂内には転輪蔵が納められています。
英霊堂
経堂の向かい側に英霊堂があります。
英霊堂前の地蔵像
英霊堂の右手前に勢至菩薩像が祀られています。
三十三所堂
英霊堂前の石段を上った右側に三十三所堂があります。
観音菩薩像
三十三所堂の向かいに観音菩薩と勢至菩薩像が祀られています。
踊地蔵尊
菩薩像の右側には踊地蔵尊が祀られています。
本堂
石段を登った正面に本堂(観音堂)があります。
阿佐ヶ谷姉妹
当日は阿佐ヶ谷姉妹が撮影に訪れていましたが、関西では放送されないようです。
本堂-鯉
本堂の正面向拝の左右の柱に「精進落としの鯉」が打ち付けられ、
本尊と結縁を結ぶ結縁綱が下がっています。
谷汲山華厳寺は天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第三十三番、
満願・結願札所となっています。
徳道上人によって開創された観音霊場を270年ぶりに再興した花山法皇は、
華厳寺に三首の御詠歌を残しました。
「世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり 」は現世、
「万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲」は過去、
「今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲」は未来を意味するとされ、
本堂・笈摺堂(おいずるどう)・満願堂を指し、三種の宝印が授けられます。
本尊
書写山圓教寺の参道に祀られている華厳寺の本尊
華厳寺の本尊は十一面観世音菩薩で秘仏とされています。
十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っていた奥州会津黒河郷の
豪族・大口大領が、手に入れた霊木を持って京の都へ上り、尊像を完成させました。
大領が像を会津へ持ち帰ろうとしたのですが、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で
観音像が動かなくなりました。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大領は谷汲の地へと
たどり着き、そこで修行をしていた豊然上人(ぶぜんしょうにん)と出会いました。
延暦17年(798)に二人が力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて
尊像を安置したのが華厳寺の始まりとされています。

建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、幾度となく諸堂伽藍が
焼失しましたが、本尊等は山中に遷し難を逃れました。
文明11年(1479)、観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職・
道破拾穀(どうはじっこく)により、再興されたと伝えられています。
現在の本堂は明治12年(1879)に再建されました。

当日は大日如来像が特別開帳されていました。
また、本堂には「戒壇めぐり」の入口がありますが、時間の都合で断念しました。
本堂-愛染明王
本堂の左側の縁側を進むと突き当りに愛染明王が祀られた祠があります。
本堂-持経観音
本堂-持経観音-2
祠から左に曲がって階段を登り、進んだ先に持経観音(じきょうかんのん)が祀られた祠があります。
持経観音は三十三観音の一尊で、岩に坐り右手に経巻を持ち、
左手は膝の上に置く姿で現されています。
経巻には釈迦の説く説法の内容がすべて込められており、声聞を教化する姿を現します。
『観音経』に「まさに声聞のみをもって得度すべきものには、
すなわち声聞の身を現じて、ために法を説く」とあります。
苔の水観音-2
本堂の裏側には中央に苔の水観音、右側に大黒天、左側に道破拾穀の像が祀られています。
苔の水観音
苔の水観音は、花山法皇が奉納した三首のご詠歌のうち、「万世の 願いをここに
納めおく 水は苔より 出る谷汲」にちなむとされています。
観音像には病の治癒を祈願したお札が張られています。
本堂-裏側
本堂の背面には十一面観音と四天王像が安置されています。
おいずる堂-1
おいずる堂-2
本堂の裏側の縁側を西へ進むと笈摺堂へとつながります。
西国三十三所を巡礼した人が着用してきた笈摺を奉納するお堂で、かっての巡礼は、
必要な物を背負って歩いたので、着物の背が摺り破れないよう、着物の上へ笈摺を着けました。
現在、笈摺は御宝印をいただき、死後の旅路に着けるものとされています。
おいずる堂-千羽鶴
現在の笈摺堂には多数の千羽鶴などが奉納されています。
千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納されているようです。
子安堂
子安堂-本尊
笈摺堂の前から左の石段を上った所に子安観音堂があります。
子安堂-仏像
子安堂-観音像
子安堂-大黒天
堂内には本尊の子安観音の他に、多数の仏像が安置されています。
子安堂-堂内
また、願い事を記した多くのよだれかけが奉納されています。
満願堂への石段
子安堂から左側へ進むと満願堂への三十三段の石段があります。
満願堂
巡礼者は満願堂へ納め札を納めます。
満願堂-狸像-1
満願堂-狸像-2
満願堂付近には狸の像が多数祀られていますが、なぜ狸なのかは不明です。
見ざる狸
「見狸・言わ狸・聞か狸」の像から右方向へと進んだ所に奥之院がありますが、
現在はスズメバチが活発に活動しているため奥之院のへの参道は閉鎖されていました。
阿弥陀堂
満願堂から東方向へ進むと、本堂の裏側に当る所に阿弥陀堂があり、
納骨堂になっているようです。
観音堂-地蔵像
阿弥陀堂の手前には地蔵菩薩が祀られています。
観音堂からの境内
阿弥陀堂前からの境内です。
納経書納め所
阿弥陀堂の斜め向かいの建物には多数の納経帳が奉納されています。
不動堂
建物から東側へ進むと下りの石段があり、石段を下った所に不動堂があります。
不動堂への石段
不動堂前の石段を下ります。
鐘楼
石段を下った所に鐘楼があります。
本堂-横
鐘楼は本堂の東横にあり、鐘楼前からの本堂です。
元三大師堂
本堂の前を西へ進むと、元三大師堂があります。
第18代天台座主・良源は承平5年(935)の大規模火災で荒廃した延暦寺を中興し、
比叡山の伽藍の基礎を築きました。
正月3日に亡くなったことから、通称で元三大師(がんざんだいし)と呼ばれ、
「おみくじ」や「たくあん漬け(比叡山では
定心房漬(じょうしんぼうづけ)という)」の考案者でもあります。
護符
また、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」などの魔除けの護符は
良源をかたどったものとされています。
画像は角大師
内仏客殿と庫裏
元三大師堂の西側に内仏客殿、その奥に庫裡があります。
表門先の池
内仏客殿前の石段を下ると右側に池がありますが、水は枯れています。
池から西側に進み本門を出て参道へ戻ります。

滋賀県長浜市の総持寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村