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石垣
東山七条から七条通を西へ進み、国立博物館沿いに北へ進んだ先に
豊国神社(とよくにじんじゃ)の巨大な石組が続き、国の史跡に指定されています。
旧大仏殿の石塁で「太閤石垣」とも呼ばれ、南北約260m、東西約210mの
伽藍を囲い、石塁上には回廊が建立されていました。
かってこの地には仏光寺がありましたが、秀吉の別荘があった五条坊門の龍臥城
(現・下京区高倉通仏光寺)へ移転させられました。

豊国神社もまた、かっては豊国廟がある阿弥陀ヶ峰の麓で創建されました。
豊臣秀吉(1537~1598)は、没後翌年の慶長4年(1599)4月13日に、
遺命により東山大仏(方広寺)東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、
その麓に高野山の木食応其(もくじきおうご)によって廟所が建立されました。
秀吉は、東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として
祀るように遺言したと伝わりますが、第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)
からは「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号と正一位の神階が
与えられたため、廟所は豊国神社(とよくにじんじゃ)と命名されました。
日本の古名である「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」を由来とし、
豊臣の姓をも意識したものとされています。
境内域30万坪、社領一万石を誇る壮大・壮麗なものでしたが、豊臣家が滅ぶと
徳川家康(1543~1616)の意向により「豊国乃大明神」の神号は剥奪され、
豊国神社の廃祀を命じました。
北政所の嘆願により社殿は残されたものの、以後朽ち果てるままに放置され、
旧参道内には新日吉神宮(いまひえじんぐう)が移設され、
旧社殿に参拝するための通路も閉鎖されました。
鳥居
石垣沿いに北へと進んだ所に鳥居が建立されています。
慶応4年(1868)、第122代・明治天皇(在位:1867~1912)が大阪へ行幸された際、
秀吉の偉勲を賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書を下し、
新日吉神社の神楽殿を仮社殿として再興されました。
明治8年(1875)に方広寺の境内を割いて社地が与えられ、仮社殿が建立され、
明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が竣工し、
翌年遷座が行われました。

かっては現在地に方広寺の仁王門があり、西への通りは大仏殿の正面に当たることから
「正面通」と呼ばれています。
大仏殿は、当初は東福寺南方にある遣迎院(けんこういん)付近に造立する予定で、
遣迎院は移転を余儀なくされたのですが、途中で中止され、
遣迎院は南北に分断されることになりました。
手水舎
鳥居をくぐった左側に手水舎があります。
社務所
右側に社務所があります。
唐門
参道を進んだ先に唐門があり、国宝に指定されています。
元は伏見城で建立されたと伝わり、その後二条城に移築され、
寛永4年(1627)に江戸幕府から南禅寺塔頭の金地院が譲り受け、
その後廻り回って豊国神社に移築されました。
唐門-扁額
唐門には「豊国大明神」の扁額が掲げられています。
秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなり、死因は病死とされていますが、
諸説あり定かではありません。
辞世の句として、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」
が残されています。
秀吉の死は秘密とされ、遺骸は伏見城中に置かれて9月7日から「方広寺の鎮守社」と
称して廟所の建設が始まり、翌慶長4年(1599)4月13日に
遺骸が阿弥陀ヶ峰山頂へ運ばれ、埋葬されました。
神として祀られたため、葬儀は行われませんでした。
拝殿
唐門の先は立ち入りはできず、唐門の先に拝殿があり、
その奥に拝所がありますが、本殿を見ることはできません。
槇本稲荷神社-1
唐門から北側に進んだ所に槇本稲荷神社があります。
槇本稲荷神社-2
慶応4年(1868)に左京区の熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)から
勧請されました。
鐘楼
槇本稲荷神社から北へ進むと方広寺の鐘楼があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は慶長19年(1614)に豊臣秀頼(1593~1615)により再鋳され、高さ4.2m、外形2.8m、
厚さ0.27m、重さ82.7tあり、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は三条釜座で延べ3100人が従事して製作され、銅や錫と金も1t含まれ、
ほぼ同じ大きさの知恩院の鐘より10t重くなっています。
梵鐘の銘文「「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の「家」と「康」を
分断し、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、
大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされています。
梵鐘は家康により破壊されることはありませんでしたが、長らく現在の
国立博物館付近に雨ざらしで放置されていました。
明治になって現在地に鐘楼が再建され、梵鐘が移されました。
鐘楼の天井には天女図が描かれています。
東大寺、知恩院とともに日本三大名鐘の一つに数えられています。
方広寺-本堂
現在の本堂は明治11年(1878)に再建されました。
豊臣秀吉は天正16年(1588)に高野山の木食応其(もくじきおうご)を
任に当たらせ、大仏殿の造営を開始しました。
小田原征伐を挟んで天正19年(1591)5月に立柱式が行われ、
文禄2年(1593)9月に上棟、文禄4年(1595)にようやく完成しました。
完成した大仏殿は、高さ約49m、南北約88m、東西約54mという
壮大なものでした。
東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の、木造金漆塗りの
大仏坐像が安置されましたが、翌年の文禄5年(1596)に発生した
慶長伏見地震により倒壊しました。
大仏殿は倒壊を免れ、慶長2年(1597)に善光寺如来(阿弥陀三尊)を安置し、
大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれるようになりました。
しかし、翌慶長3年(1598)、秀吉は病に倒れ、善光寺如来の祟りとされ、
像は善光寺へ戻されました。
同年秀吉は息を引き取り、豊臣秀頼が父の遺志を継ぎ慶長4年(1599)に
大仏の復興を開始します。
秀吉が当初計画していた銅造での復興を目指したのですが、慶長7年(1602)に
流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、大仏殿とともに焼失しました。

慶長13年(1608)より再建が開始され、慶長15年(1610)6月に地鎮祭、
同年8月に立柱式が行われ、慶長17年(1612)には大仏に金箔を
押すところまで完成しました。
慶長19年(1614)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を
待つばかりとなったのですが、家康からは中止の求めがありました。
「方広寺鐘銘事件」は徳川・豊臣の争いに発展し、
「大坂の陣」で豊臣家は滅亡しました。
残された大仏は寛文2年(1662)の地震で大破し、
木造で造り直されることになりました。
寛政10年(1798)、大仏殿に雷が落ち、大仏もろとも焼失し、
本堂まで延焼しました。

天保年間(1831~1845)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より
上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進したのですが、
昭和48年(1973)3月28日の深夜の火災により焼失しました。
現在の本堂には本尊の盧舎那仏坐像が安置されています。
2回目に造られた大仏を模し、1/10サイズに縮小し、木造で金箔が張られています。
大黒堂
本堂の東側は大国堂になっています。
最澄(766もしくは767~822)が、第50代・桓武天皇(在位:781~806)の勅命により
延暦寺を建立するため比叡登山中、大黒天を感得し、
自ら像を刻んだとされている像が安置されています。
さらにその像を秀吉が気に入り、1/10サイズで造らせ手元に置いていたと
伝わる像も安置されています。
大仏殿跡緑地-礎石
豊国神社沿いの細い通路を東へ進んだ所に「大仏殿跡緑地」があります。
明治維新後、上地令により方広寺境内の多くが没収され、豊国神社の背後のみ
「大仏殿跡緑地」として宅地化されずに残されています。
遺構が板石によって示されていますが、今は巨大だった大仏殿を
想像することさえできません。
本殿-1
緑地から豊国神社の本殿を背後から見ることができます。
主祭神は豊臣秀吉で、旧社格は別格官幣社でした。
現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
本殿-2
本殿の南側には大正14年(1925)に建立され、北政所が祀られている摂社の
「貞照神社(さだてるじんじゃ)」が見えます。
耳塚-1
豊国神社の鳥居まで戻り、正面通を西へと進んだ所に「耳塚(鼻塚)」があり、
方広寺石塁とともに石塔として史跡に指定されています。
耳塚-2
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役:1592年~1598年)のうち、
慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ
持ち帰ったものを葬った塚です。
慶長2年(1597)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われました。
寛永2年(1643)の古絵図には、既に石塔が描かれ、
塚の築造後間もなく建てられたとみられています。
正面橋
更に西へと進むと鴨川に正面橋が架けられています。
秀吉が大仏殿を創建した際に五條大橋を六条へと移しましたが、
当時はまだ正面通は鴨川の西に無く、架橋されませんでした。
江戸時代の天保2年(1831)頃に鴨川以西の正面通が開かれ、
これ以降に橋が開通したとみられています。
昭和10年(1935)の鴨川大洪水で橋が流され、現在の橋は昭和27年(1952)に
架けられましたが、正面通にはやや斜めに架けられています。

次回は京阪電車「清水五条」駅から六波羅蜜寺や清水寺、高台寺、
八坂神社などを経て、知恩院、青蓮院などを巡ります。
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鳥居
智積院の墓地を東へと抜け、京都女子大の学舎に沿って北へと進み、
その先の四つ角で東へ進んだ石段の上に鳥居が建っています。
揺拝所
鳥居の先には遥拝所があります。
秀吉の廟所は、阿弥陀ヶ峰の麓に高野山の木食応其(もくじきおうご:1536~1608)
によって、死後間もなく「大仏の鎮守社」と称して着工されました。

豊臣秀吉(1537~1598)は、東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、
自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれ、
北野神社に倣った八棟造りだったと伝わります。
しかし、慶長4年(1599)に秀吉の望みに反し第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)
からは「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号と
正一位の神階が与えられました。

廟所は、豊国神社(とよくにじんじゃ)と命名され、境内域30万坪、
社領一万石を誇る壮大・壮麗なものでした。
祥雲寺(現在の智積院)と大仏殿御殿(現在の妙法院)の間に参道を設け、
鳥居と二層の楼門(豊国極楽門)が建立され、参道の両側にはや石田三成(1560~1600)や
前田玄以(まえだ げんい:1539~1602)など、豊臣家家臣の屋敷が並んでいました。
毎年4月と8月の18日には、勅使や北政所(きたのまんどころ:?~1624)を迎え、
盛大な豊国祭が執り行われました。
豊臣秀頼(1593~1615)は、豊国神社を大坂城内に分祀し、秀頼自身は本社創建の際には
参列せず、慶長16年(1611)の二条城訪問の際に最初で最後となる参拝を行っています。

慶長20年(1615)、豊臣家が滅ぶと徳川家康(1543~1616)の意向により
「豊国乃大明神」の神号は剥奪され、豊国神社の廃祀を命じました。
北政所の嘆願により社殿は残されたものの、以後朽ち果てるままに放置され、
旧参道内には新日吉神宮(いまひえじんぐう)が移設され、
旧社殿に参拝するための通路も閉鎖されました。
豊国廟-入口
遥拝所の手前に受付があり、廟所への参拝は有料となります。
正面には489段の石段が一直線に続いています。
唐門
石段を登って行くと唐門があります。
唐門から先の石段
唐門から先の石段はより急傾斜となります。
豊国廟-1
標高196mの阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太氏(1867~1954)の設計による、
壇上に高さ約10mの巨大な五輪塔が建立されています。

豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)に伏見城で生涯を閉じたのですが、
その死は伏せられ、1年間城内に安置されていました。
翌年、秀吉の遺命により方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。

方広寺は、秀吉によって発願された東大寺の大仏より大きい
6丈3尺(約19m)の大仏を安置する寺で、その敷地は現在の豊国神社、
京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含む広大なものでした。
豊国廟-2
明治31年(1898)の豊太閣300年記念事業で、ようやく現在の廟が整備され、
この巨大な五輪塔が建立されました。
しかし、山全体を墓と見立てた秀吉の野望からすれば、
小さな塔にすぎないのかもしれません。

下って新日吉神社へ向かいます。
続く
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舟廊下
都久夫須麻神社と宝厳寺の観音堂を結ぶ渡り廊下は「宝厳寺渡廊」と称され、
国の重要文化財に指定されています。
慶長8年(1603)に豊臣秀吉の御座船「日本丸」の用材を用いて建てたという
伝承から「舟廊下」とも呼ばれています。
観音堂
観音堂は現在、工事中で国宝の唐門や重要文化財の観音堂など、
全容を見ることはできませんでした。
戦国時代の永禄元年(1558)の大火で、都久夫須麻神社の本殿や観音堂が被災し、
現在の観音堂は慶長7年~8年(1602~1603)に、豊臣秀頼の命を受けた
片桐且元によって再建されました。
観音堂は傾城地に建てられた懸造(かけづくり)で、京都から移築された痕跡が残されています。
平面構造は、桁行五間、梁間四間でその外回りに縁が巡っています。
琵琶湖側の正面一間通りが外陣、奥四間通りが内陣で、
内陣の右手奥に本尊が安置されています。
折上格子天井には牡丹、菊、桐が描かれています。
賓頭盧尊者
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像は「なで仏」とも呼ばれ、まず像をなで、
その手で自身の患部を撫でると治癒するとの伝承があります。
宝厳寺の像は古いので、優しく撫でるようにと注意書きがしてあります。
極楽橋
唐門は豊国廟の唐門が移築され、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
平成18年(2006)、オーストリアのエッゲンベルク城で豊臣期大坂図屏風が発見されました。
大坂城の本丸北側に極楽橋が描かれています。
唐門が付いたこの橋は慶長元年(1596)に建設されましたが、
唐門は慶長5年(1600)に豊国廟へ、慶長7年(1602)に現在地に移築されました。
本尊
書写山圓教寺の参道に祀られている宝厳寺の札所本尊
参拝する仏間は2階にあたり、西国三十三所観音霊場の本尊である鎌倉時代の
千手千眼観世音菩薩像が安置されていますが、秘仏とされ原則として
60年に一度開扉されます。(次回の御開扉は2037年)
像高約1.8mで等身大とされています。
千手にはそれぞれ一眼を持ち、全てを見渡し、どのような衆生をも漏らさず
救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表しています。
修行大師像
唐門を出た左側には修行大師像が祀られています。
観音像
観音堂前の石段を上った左側にぼけ封じ、諸病封じの
「薬寿・観世音菩薩」像が祀られています。
三十三所堂
更に石段を上って進むと西国三十三所観世音奉安殿があります。
三十三所堂-堂内
堂内には霊場の各本尊が祀られています。
天狗堂
奉安殿の先、左側に行尋坊天狗堂があります。
行尋坊とは天狗の名前だったのでしょうか?
何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。
妙音天堂
また、妙音天堂の小さな祠もあります。
妙音天女は、天界に住んで空中を飛翔し、妙なる楽器を奏て仏の功徳を讃える
菩薩形の天女だそうで、中国では弁才天、或いは同一視されているようです。
手水舎
奉安殿から進んだ先の右側に手水舎があります。
五重石塔
手水舎の左側に高さ247cmで鎌倉時代作の五重石塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
全国で重文指定を受けている五重石塔は七基しか無く、その内の一基となります。
石材は比叡山中から採掘される小松石が使用され、
初重塔身の四方には四仏が配されています。
相輪は、豪雨による土砂崩れで埋没し、発見できなかったために
相輪の下部のみが後補となっています。
本堂
古来、都久夫須麻神社(竹生島神社)の本殿が、宝厳寺の本堂とされてきました。
しかし、明治の神仏分離令の際、弁財天社は平安時代の『延喜式』に見える
「都久夫須麻神社」という社名に変更することなりました。
宝厳寺は廃寺の危機を迎えましたが、寺側の「弁才天は仏教の仏である」との主張が通り、
寺と神社が分離することになりました。
本堂の建物のみが神社側に引き渡されたため、昭和17年(1974)に
平安時代様式で本堂が新築されました。
邪鬼
軒の四隅は邪鬼によって支えられています。

寺伝では、神亀元年(724)、聖武天皇の勅命を受け、僧・行基によって創建され、
弁才天を祀ったとされています。
第45代・聖武天皇は夢枕に立った天照大神より「江州の湖中に小島がある。
その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、
万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、
堂塔を開基させたと伝わります。
一方、承平元年(931)成立の『竹生島縁起』によれば、行基の来島は天平10年(738)で、
小堂を建て四天王を祀ったのが始まりとされています。
天平勝宝5年(753)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、
千手観音を造立して安置したとの記録が残されています。
当初は本業寺(ほんごうじ)、後に竹生島大神宮寺と称し、東大寺の支配下にありました。
平安時代前期に延暦寺の傘下に入り、天台寺院となりました。
以降、島は天台宗の僧の修行の場となり、また、平安時代末期頃からは
観音と弁才天信仰の島として栄えたと記されています。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長は比叡山を焼き討ちし、ルイス・フロイスの
書簡には約1500人、『信長公記』には数千人の僧侶や僧兵、
坂本周辺に住んでいた住民たちまで殺害されました。
信長は宝厳寺には手を下さずに竹生島を安堵し、『信長公記』には
竹生島に参詣した記録が残されています。
現在は真言宗豊山派の寺院で、山号を巌金山(がんこんさん)と称します。

本尊の弁天像は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一尊で、
その中でも最も古い弁才天とされ、宝厳寺では「大弁才天」と称しています。
宝厳寺の創建時に行基が開眼したと伝わりますが、60年に一回開帳される秘仏で、
次回の開帳は西暦2037年になります。
内陣の厨子前には御前立の弁財天像が安置されています。
内陣には荒井寛方画伯により、正面には「諸天神の図」、
側面には「飛天の図」と呼ばれる壁画が描かれています。
弁才天像-右
弁才天像-左
また、堂内外陣の左右にも慶長10年(1605)作の夫婦の弁才天像が安置されています。
現在は毎年8月15日に、「蓮華会(れんげえ)」と呼ばれる
竹生島最大の行事が行われています。
昔は籤(くじ)で選ばれた二人の頭役(とうやく)が弁才天像を新造して、
それぞれの自宅で夫婦で祀り、8月15日に竹生島に奉納していました。
この夫婦の像はそのようにして奉納されたものと思われます。
現在は新造ではなく、宝厳寺から像を預かる方式に変更されているようです。

弁財天は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名で、
七福神で唯一の女神です。
女神にも拘らず、竹生島は明治までは女人禁制でした。
原語の「サラスヴァティー」はインドの聖なる河の名であったのですが、
河の守護神とされるようになりました。
水を神格化し、言語や音楽の神とされています。
経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」ですが、「才」が「財」の音に通じることから
「弁財天」と表記し、金運・財運の神としての性格が付与されました。
お願いだるま
奉納されている多数の達磨像は「お願いだるま」と呼ばれ、願い事を書いた紙を
達磨の中に封入して祀られています。

本殿の左手前に納経所があります。
宝厳寺は西国三十三所観音霊場・第30番及び神仏霊場・第138番他札所となっています。
三龍善神
納経所の奥、本殿の左側の奥に三龍善神が祀られた社殿があります。
「潤徳護法善神」、「福壽白如善神」、「徳澤惟馨善神」の三神が祀られていますが、
詳細は不明です。
不動三尊像
本殿の右前に不動明王と矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を
両脇に従えた三尊像が祀られています。
その右横には「竹生島棒術発祥の地」が建っています。
平安時代末期、大坂の難波平治光閑(なんば へいじみつのり)は、源平合戦に出陣しましたが、
戦いの最中に長刀の刃が折れ、棒の部分のみで戦いました。
光閑は更に創意工夫を重ね棒術の技を編み出し、
竹生島の弁才天にあやかり「竹生島流棒術」と名付けまし た。
蔵
三尊像の右側にある石段を上った所に土蔵があります。
経蔵でしょうか?
モチの木
蔵の右側にに片桐且元(かたぎり かつもと)が手植えしたとされている「モチの木」が
大きく枝を伸ばしています。
宝厳寺は中世以降、貞永元年(1232)、享徳3年(1454)、永禄元年(1558)などに大火が
ありましたが、その都度復興されてきました。
 永禄元年の大火後、慶長7年~8年(1602~1603)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて
伽藍を復興し、その記念樹として植えられました。
三重塔
モチの木の先に建つ三重塔は6年の歳月をかけて平成12年(2000)5月に再建されました。
正中3年(1326)の『竹生島勧進帳』などからその存在が確認できますが、
江戸時代初期に焼失したそうです。
雨宝童子堂
三重塔の奥に雨宝童子(うほうどうじ)堂がありますが、工事中だったため
平成29年(2017)10月8日参拝時の画像を使用します。
雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに日向に降臨されたときの姿とされています。
また、天照大神の本地仏とされる大日如来の化身とする説もあります。
頭上に五輪塔を頂き、右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝珠を持つ童子形の神像で表されています。
宝物殿
三重塔の右側に宝物殿がありますが、船を一便遅らせたため、
昼食時間を取る必要から今回も入館を控えました。
鐘楼
三重塔前の石段は手水舎の横へと下り、そこからは港までの石段が続いています。
石段を下った左側に鐘楼があります。
護摩堂
右側の石段上には護摩堂があります。
月定院
護摩堂の左側に月定院があります。
本坊
鐘楼から石段を下った右側に本坊の玄関があります。
瑞祥水
玄関の南側に地下水「瑞祥水」の井戸があります。
深さ230m(湖底130m)より汲み上げられています。
宝厳寺鳥居
「瑞祥水」から下る石段には、神仏習合時代を思わせる宝厳寺の鳥居が建ち、
山号「巌金山(がんこんさん)」の扁額が掲げられています。
竹生島神社鳥居
更に石段を下ると都久夫須麻神社への参道と分かれる所に
都久夫須麻神社の鳥居が建っています。
しかし、都久夫須麻神社へ向かうには、鳥居をくぐらず、手前を右に進みます。
直正
港に到着すると、彦根港から出航した近江マリンの「直正」が入港していました。
インターラーケン
コンビニ弁当で昼食を済ませると、12:30発今津港行が入港し、
今津港まで戻って長命寺へ向かいます。
続く

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