崇道神社の参道から少し東へ進むと、水路に橋が架かり、
この辺りは水車町で、三宅八幡宮の記事で紹介したように、
かって、水路には多数の水車が稼働していたと思われます。
橋を渡ると直ぐ民家ですが、民家に沿って細い路地を東から北へ進むと
枝折戸(しおりど)の門があります。
「拝観寺院では無い」と記されています。
本堂
栖賢寺は山号を「朝崇山」と号する臨済宗大徳寺派の寺院で、
天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変で織田信長が自害して果てると、
中国攻めを行っていた羽柴秀吉は、毛利輝元と講和し、
備中から京都に軍を返しました。(中国大返し)
『絵本太閤記』にはこの時、明智光秀勢の待ち伏せにあった秀吉が、
剃髪し僧形になって栖賢寺に身を隠し難を逃れた逸話が記されています。
また、秀吉は山崎合戦を前に諸侯を栖賢寺に招き、
松に腰を掛けて軍令を定めたと伝わります。
江戸時代(1603~1868)初期、尼崎城が旧地から移されて築城されるのに伴い、
元和年間(1615~1624)に栖賢寺は現在の尼崎市寺町へ移転しましたが、
その後荒廃しました。
昭和7年(1932)、実業家・山口玄洞(やまぐち げんどう:1863~1937)の寄進により
京都市左京区上高野の現在地で再建されました。
山口玄洞は「大正・昭和の寄付金王」とまで称され、
多くの公共事業や慈善事業に寄付しました。
また、由緒正しい寺である事、景勝の地にある事、住職の人品が優れている事を条件に
寺の再建にも尽力しました。
枝折戸の門まで戻ると、門に志納金を納める筒が設置され、
入山参拝はできるようです。
門をくぐった右側に本堂の裏側が見えますが、ガラス障子がはめられています。
門をくぐった右側に本堂の裏側が見えますが、ガラス障子がはめられています。
境内には北東方向から南東方向へ流れる小川があり、
対岸には十三重石塔が建立されています。
その上流
更にその先には茶室・残照亭があります。
参道の右側は広い苔庭で、その奥に観音像が祀られています。
観音像の左側に滝組があります。
滝から流れ落ちた小川を、茶室前の飛び石で渡り、その先の石段を登ります。
滝上部の左側の石塔
その上流
更にその先には茶室・残照亭があります。
参道の右側は広い苔庭で、その奥に観音像が祀られています。
観音像の左側に滝組があります。
滝から流れ落ちた小川を、茶室前の飛び石で渡り、その先の石段を登ります。
滝上部の左側の石塔
参道の上部には金鳳閣があり、開山堂のようです。
その手前には鎮守社があります。
金鳳閣の屋根には鳳凰が冠せられ、その名の由来となっています。
観音堂の前から、美しい姿の全容を見ることが出来ます。
右側奥に鐘楼があります。
金鳳閣の屋根には鳳凰が冠せられ、その名の由来となっています。
観音堂の前から、美しい姿の全容を見ることが出来ます。
右側奥に鐘楼があります。
梵鐘は昭和6年(1931)に、1164名の寄進により鋳造されたので
「千人鐘」と名付けられました。
東側には観音堂があります。
東側には観音堂があります。
観音堂への渡り廊下の右側に数本の木が倒れた跡が見えます。
平成30年(2018)9月4日の台風21号で、栖賢寺も倒木により被災しました。
檀家を持たない栖賢寺では修復費等の捻出が大変だったそうで、
現在でも募金が行われています。
堂内には如意輪観音像が安置されています。
如意輪観音は、片膝を立てて座る六臂の像で、右第1手は頬に当てて思惟相を示し、
右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持っています。
左第1手は掌を広げて地に触れ、左第2手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、
左第3手は指先で法輪を支え、如意輪は如意宝珠と
法輪を指しています。
如意宝珠は、意のままに智慧や財宝、福徳もたらし、
法輪は煩悩を打ち砕くとされています。
如意輪観音は、人々を苦悩から救い、あらゆる願いを叶える観音菩薩とされています。
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