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欣勝寺
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羽束師坐高御産日神社からバイクで5分余り北へ進んだ、
桂川に架かる久我橋の西側付近に誕生寺があります。
誕生寺は正式には明覚山誕生寺と号する曹洞宗の寺院です。
駐車場へは桂川の堤防沿いから入ります。
かって、この地には源 師房(みなもと の もろふさ)が営んだ
別業(なりどころ/べつぎょう=古代貴族の別荘)がありました。
師房は第62代・村上天皇の皇子・具平親王(ともひら しんのう)の子で、
寛仁4年(1020)に源朝臣の姓を賜わり、その孫の太政大臣・源雅実
(みなもと の まさざね)が久我家の祖となりました。
久我家4代目の久我通親(こが みちちか)の子が道元とされていますが、
諸説あり定かではありません。
しかし、上級貴族、公卿の家の生まれであることは変わり無いようです。
誕生寺は当時の曹洞宗大本山・永平寺の第66世・日置黙仙禅師
(ひおきもくせんぜんし)により、大正5年(1916)に寺院の建立が発願されました。
現在の福井県越前市小松町にあって永平寺の末寺であった華厳山明覚寺の寺籍が
引き継がれ、「誕生山明覚寺」と号し、道元禅師自作の禅師の木造が遷されました。
大正8年(1919)に仮堂が建立され、翌年に禅師像の入仏遷座式が営まれました。
しかし、大正9年(1920)に日置黙仙禅師が入寂され、その後の計画は頓挫しました。
平成12年(2000)に道元禅師・生誕八百年を迎えるに当たり、
昭和57年(1982)から復興が開始されました。
16年の歳月をかけて本堂、山門、庫裡などが建立されました。
山門には山号「明覚山」の扁額が掲げられています。
山門前の銀杏の木は「区民の誇りの木」に選定されています。
銀杏の木の右側に鐘楼があります。
本堂
本尊は千手観音菩薩です。
本堂には寺号の「誕生寺」の扁額が掲げられています。
本堂前の向かって右側には道元禅師の幼少像が祀られています。
道元禅師は正治2年1月2日(1200年1月19日)に誕生したのですが、3歳の時に
父・通親、8歳の時に母・藤原伊子(ふじわら の いし)を亡くし、異母兄である
堀川通具(みちとも)の養子になりました。
建保2年(1214)、14歳で天台座主・公円のもとで出家しました。
建保5年(1217)に建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事し、
貞応2年(1223)明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡りました。
嘉禄元年(1225)、天童如浄(てんどう にょじょう)に師事して中国曹洞禅の
只管打坐(しかんたざ)の禅を受け継ぎ、翌嘉禄2年(1226)に帰国しました。
天福元年(1233)に京都深草に興聖寺を開き、『正法眼蔵』の最初の巻である
「現成公案」を、執筆しました。
文暦元年(1234)、日本達磨宗を修行していた孤雲懐奘(こうん えじょう)が
道元禅師を師事するようになると、達磨宗からの入門が相次ぎました。
比叡山から弾圧を受けるようになり、寛元元年(1243)7月に越前国の
地頭・波多野義重の招きで越前志比荘に逃れました。
波多野義重が土地を寄進して寛元2年(1244)に大佛寺が開かれ、
寛元4年(1246)に大佛寺は永平寺と改められました。
建長5年(1253)に病により永平寺の住職を孤雲懐奘に譲り、京都高辻西洞院の
俗弟子覚念の屋敷で入寂されました。
享年54歳
本堂前の左側にはブッダガヤの仏足跡が祀られています。
仏教の八大聖地の1つ・ブッダガヤは、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた所とされています。
本堂の左側に道元禅師の両親の供養塔が建立されています。
平成12年(2000)に道元禅師・生誕八百年を迎えるに当たり、
平成9年(1997)に建立されました。
向かって右側の宝篋印塔は母・伊子のための供養塔で「鶴の塔」と呼ばれていました。
久我の地にあった「鶴の塔」は、現在は市内上京区の北村家庭園で保存され、
国の重要文化財に指定されています。
その「鶴の塔」を忠実に再現し、欠けた部分は補われて復元されました。
「鶴の塔」の裏側に「道元禅師産湯の井戸」の石碑が建っています。
石碑の裏側にその井戸があります。
供養塔の西側には「願力」と刻字された石碑が建立されています。
境内の西側に豊川稲荷が勧請され、荼枳尼天(だきにてん)が祀られています。
昭和16年(1941)に愛知県の曹洞宗の寺院・円福山妙巌寺から豊川稲荷が勧請されました。
寺の復興が祈願され、「明覚山誕生寺」と改称されました。
向かい側には慈母観音像が祀られています。
西門
城南宮へ向かいます。
続く
恵心院から5分余り宇治川の上流へと歩いた所に、慶安元年(1648)に建立された
興聖寺の総門(石門)があります。
総門の脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻字された石碑が建っています。
道元禅師は建保2年(1214)に延暦寺で出家し、園城寺(三井寺)の
公胤(こういん)の元で天台教学を修めました。
貞応2年(1223)に南宋に渡り、中国の曹洞禅を学びました。
安貞元年(1227)に帰国し、天福元年(1233)に京都深草で
観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)をを開き、
『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を執筆しました。
しかし、比叡山からの弾圧を受け、寛元元年(1243)7月に越前志比荘へ移りました。
寛元2年(1244)に傘松に大佛寺を開き、寛元4年(1246)に大佛寺は永平寺に改められました。
道元禅師は日本での曹洞宗の開祖ですが、宗旨で「高祖」と尊称されています。
断絶していた興聖寺は、慶安元年(1648)に当時の淀城主、永井尚政(ながい なおまさ)
によって、宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興されました。
尚政は、道元禅を志していた高僧・万安英種(ばんなんえいじゅ)を招いて中興開山とし、
本堂、開山堂、僧堂、庫院、鐘楼、山門などの諸堂を建立整備しました。
山門までの緩い登り坂は「琴坂」と呼ばれています。
参道の両側のせせらぎが琴の音のように聞こえることから「琴坂」と呼ばれ、
その水は総門の左側に築かれた「宝栬鏡池(ほうせいきょうち)」へと注がれています。
総門をくぐって振り返ると紅葉が鮮やかで、琴坂は紅葉の名所でもあります。
山門の手前、左側に茶筅塚があります。
毎年10月の第1日曜日に開催されている「茶まつり」では、興聖寺で「茶壺口切の儀」
「献茶式」「茶筅塚供養」が行われます。
山門は江戸時代の弘化元年(1844)に改築され、明朝の建築様式、
竜宮造となっていることから竜宮門とも呼ばれています。
楼上には釈迦三尊と十六羅漢が安置されています。
山門前の紅葉
門をくぐった右側に慶安4年(1651)に建立された鐘楼があります。
午前4時と10時に撞かれ、午前4時に撞かれる鐘は、振鈴(しんれい・起床の合図)と呼ばれ、
暁天坐禅、朝課(ちょうか=朝のお勤め)、回廊掃除・作務と続く
修行の一日が始まる合図になります。
この鐘楼は「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つに数えられています。
鐘楼の背後に浴司(よくす=浴室)がありますが非公開です。
浴室の左側には庫裏があります。
門をくぐった左側には鎮守社の秋葉大権現が祀られています。
秋葉大権現の斜め向かいには不動明王の石仏が祀られています。
秋葉大権現の左の建物は衆寮で、研修道場とされ、修行僧が修行を深める
自習用の建物であり一般には公開されていません。
画像はありませんが、山門をくぐった正面に薬医門があります。
薬医門をくぐった正面に法堂(本堂)があります。
興聖寺は正式には、山号を「仏徳山」、寺号を「興聖宝林禅寺」と号します。
「宝林禅寺」は中国の曹渓山にあって、道元禅師が敬慕した中国禅宗の
六祖・慧能(えのう)が住した「宝林寺」に因むとされています。
現在の本堂は慶安元年(1648)に伏見城の遺構を用いて建立されました。
本尊は釈迦牟尼仏で、攝津の国、自笑庵にあったものを永井尚政が譲り受けたとされ、
寺伝では道元禅師が自ら刻んだとされています。
本堂の右側には大書院の玄関があります。
参道の右側には庫裏の建物が続いています。
参道の左側には僧堂があります。
本堂、庫裏、僧堂、薬医門に囲われた所には庭園が築かれ、その一角に浮島に
建っていた十三重石塔の九重目の笠石と頂の九輪石があります。
十三重石塔は宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間川中に埋没し、
明治40年(1907)になって発掘に着手されたのですが、
九重目の笠石と頂の九輪石は見つかりませんでした。
石川五右衛門に盗まれ、伏見区の藤森神社の境内の手水鉢の台石に流用されたとの
噂が流れましたが、その後見つかり興聖寺へ運ばれました。
興聖寺は「開かれた禅寺」として堂内の拝観が許されています。
庫裡には大きな大きな二つの魚板(魚鼓)が吊るされています。
木魚の原型とされ、魚の形をしているのは、魚は日夜を問わず目を閉じないことから、
寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味が込められています。
口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背をたたくことで煩悩を吐き出させようとするものです。
ここの魚板は、よほど叩かれ続けられたのかお腹がすり減り、
もう一方は穴が開いています。
お昼前なので、大きな竈で昼食の準備が行われていました。
庫裡から廊下を進んだ先に大書院があり、「宇治八景展」が催されていました。
大書院は明治45年(1912)に新築された興聖寺の「貴賓室」で、
大正8年(1919)には貞明皇后(ていめいこうごう)の行幸がありました。
大書院の東側
大書院の向かい側には方丈があり、その間には小滝が流れ落ちる内庭が築かれています。
方丈は住職の居室とされ、非公開です。
方丈の南側に次書院がありますが、非公開です。
大書院から方丈への廊下の南側には井戸があります。
大書院の西側には手習観音が安置されている宝物殿と
その上部に天竺殿の屋根が望めます。
順路に従い本堂へと進むと引き戸があり、左に鶴、右に孔雀の図が描かれています。
引き戸から本堂へ入ると大きな木魚があります。
これは「一願木魚」と呼ばれ、「静かな心で木魚を摩り、
一つだけ願い事を念じてください」と記されています。
本堂は、慶安元年(1648)伏見城の遺材を用いて建立されました。
伏見城は、以前に築かれた指月伏見城が完成直後に慶長伏見地震によって
倒壊したため、慶長2年(1597)に指月から北東約1kmの木幡山に築かれました。
豊臣秀吉は完成した城に入りましたが、1年後の慶長3年(1598)に城内で亡くなりました。
城には徳川家康とその家臣が入ったのですが、家康が上杉景勝を討つために
出陣した間隙を縫って反家康を掲げる豊臣派の武将により攻撃されました。
伏見城は落城し、徳川軍は自刃して果てました。
その時の廊下の板を供養のため天井に張ったとされ、「血染めの天井板」と呼ばれ、
印内に当時の血痕が残されています。
また、前縁の廊下は鴬張りとなっています。
本堂前中央には、第87代・四条天皇(在位:1232~1242)の勅額
「興聖實林禅寺」が掲げられています。
法堂(本堂)には釈迦三尊像が安置されていますが脇侍はの詳細は不明です。
釈迦三尊の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩、梵天と帝釈天などと一定でなく、
曹洞宗などの禅宗では羅漢が配される場合もあります。
本堂から左側の廊下を進むと、開山堂が見えますが、
順路は先に上部の天竺殿へ向かうように指示されています。
天竺殿の手前、右側に宝物殿があります。
以前は「知祠(ちし)堂(位牌堂)」と称されていましたが、
今回の新しいパンフレットには「宝物殿」と記されています。
堂内には檀信徒の先祖の位牌が祀られ、聖観音菩薩立像が安置されています。
像高1.6mで、平安時代の小野 篁(おの の たかむら)作と伝わり、
宇治市の文化財に指定されています。
現在は廃寺となった塔頭の大悲院に安置され、『源氏物語』「宇治十帖」
第9帖「手習」に記されている観音像として「手習観音」と称されています。
『源氏物語』ではこの観音像は「手習の杜」に祀られていたとされ、宇治川に身を投げた
浮舟が死にきれず、横川の僧都に助けられますが、
その場所が手習の杜付近だったとされています。
この観音像は左足を前に出し、親指を上げています。
これは衆生の困苦を救うために、すぐに駆けつけるということを表しています。
天竺殿の須弥壇中央の厨子内には聖観音像が安置されています。
この像は東福門院が先だって崩御された第110代・後光明天皇の手紙を張り合わせて
作らせた内の一躯です。
東福門院(徳川和子:とくがわ まさこ)は第2代将軍・徳川秀忠の娘で、
徳川家康の内孫にあたり、第108代・後水尾天皇の中宮となりました。
後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子で、東福門院が養母となっていました。
承応3年(1654)9月20日に後光明天皇は病で崩御され、明暦3年(1657)に
永井尚政がこの尊像を拝領し、興聖寺に安置されるようになりました。
左奥に永井尚政、右奥に父・直勝の像が祀られています。
永井尚政は、曹洞宗に帰依していたとされる両親の菩提を弔うと共に、
自らの菩提寺とするため興聖寺を再興しました。
また、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いで、直勝が相手側の
武将・池田恒興(いけだ つねおき)を討ち取ったことにより、
その菩提を弔うためであったともされています。
直勝は供養のため、一宇の建立を願っていたのですが、果たせませんでした。
堂内には永井家の位牌が祀られています。
天竺殿から下り開山堂へ向かいます。
開山堂は寛延3年(1750)の道元禅師500回大遠忌に塔頭・東禅院の大悲殿が移築されました。
道元禅師が梅の花を好まれた事から「老梅庵」と名付けられ、扁額が掲げられています。
堂内には鎌倉時代作で、竹椅子に座る等身大の道元禅師像が安置されています。
胎内には遺骨が納められています。
両脇には歴代住職の像や位牌が祀られています。
本堂左側の廊下から僧堂への回廊に三面大黒天像が安置されています。
正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三つの顔を持っています。
僧堂は慶安元年(1648)の永井尚政による再興時に建立され、
元禄15年(1702)に改修されました。
堂内には文殊菩薩坐像が「聖僧」として安置されています。
文殊菩薩は獅子の上に坐していますが、
興聖寺の獅子は開山堂の方へ尻を向けないように、右側に顔があります。
聖僧を囲むように、建物の壁に沿って僧侶個人の坐禅・生活の場である
1人1畳の大きさの「単」が連続して設けられています。
修行僧は「単」で参禅の他、食事や就寝もここで行われます。
僧堂と東司(トイレ)及び浴司(浴室)は「三黙道場」と呼ばれています。
興聖寺は「開かれた道場」として毎月第1及び第3日曜の午前9時から、
参加費無料で日曜参禅会が行われています。
堂内の拝観を終え、衆寮の方へ向かうと北側に経堂があります。
経堂の先は墓地で石段が一直線上に続いています。
墓地の最上部に道元禅師の墓があります。
道元禅師は建長5年(1253)に病にて54歳で入寂され、廟は永平寺にありますが、
この地にも霊骨が改納されました。
嘉永7年(1854)に第121代・孝明天皇から「仏性伝燈国師」、
明治12年(1879)には第122代・明治天皇より「承陽大師」の諡号(しごう)が贈られました。
墓地からの伽藍です。
琴坂を下り、途中で左に入ると塔頭の東禅院の境内となります。
東禅院は一般には公開されていないようですが、白壁と対比して紅葉が美しく感じます。
東禅院から下ると興聖寺の石門のすぐ横に出ます。
下った所の上流側に旅館の亀石楼があり、
その駐車場前付近の宇治川に「亀石」があります。
江戸時代の地誌に「宇治川一の名石」と紹介され、
古くは第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう在位:BC29~70)の逸話が残されています。
天皇は山背の大国不遅(現在の伏見区醍醐付近)に綺戸辺(かにはたとべ)と称する
美人が住んでいると聞き、山背へ行幸されました。
途中、川から大亀が出現し、これを矛で刺すと石になったと伝わります。
天皇は霊験があるのに違いないと喜び、綺戸辺を妃としました。
また、豊臣秀吉が伏見城へ通ずる水路を開いた際に蓋にしたとも語り継がれてきましたが、
今はこの石を見るためにここまで来る人はほとんど見かけません。
京阪宇治駅の方へ戻ります。
続く