タグ:道元禅師

寺号標
鏑射寺の北西方向、バイクで約10分の距離に
欣勝寺(きんしょうじ)があります。
山号を「太宋山」と号する曹洞宗の寺院です。
山門
山門は安永5年(1776)に建立され、その前に風神と雷神が描かれています。
天禄年間(970~973)に源満仲(みなもと の みつなか:912~997)により開基され、
真言宗の道場で、「桑原山欣浄寺」と称されていました。
満仲の一派は、花山天皇退位事件に際し、
第65代・花山天皇(在位:984~986)を宮中から連れ出した
藤原道兼(961~995)を警護したと伝わります。
安貞2年(1228)に当時28歳であった曹洞宗の開祖・道元禅師(1200~1253)が
留学していた宋から戻り、保養のため有馬温泉へ向かわれた際に桑原の地に
立ち寄り、欣勝寺の背後の山が宋の不老山に似ていることから
「太宋山欣勝寺」と命名し、曹洞宗に改宗されました。
本堂
本堂
本尊は虚空蔵菩薩で、元亀4年(1573)に安房国(現・千葉県)の清澄寺から、
遷されました。
聖観世音菩薩像は欣勝寺の末寺・自休庵の本尊で
平安時代(794~1185)の作とされています。
天正3年(1575)、明智光秀(1516~1582)による丹波攻めに際し、
背後の山中のお堂に遷されていましたが、近代にそのお堂が廃され、
当寺に安置されました。
井戸
山門の内側に古井戸があり、この井戸にまつわる民話が残されています。
『戦国時代の弘治2年(1556)、済用禅師がこの寺で隠居して暮らしていた時、
雷の子供が井戸に落ちてしまいました。
「助けてくれ~!!」と大きな叫び声に気が付いた和尚が井戸を覗き込むと、
中に雷の子供を見つけ、あわててふたをして閉じ込めました。
雷の子供は「助けておくれ。桑原には二度と落ちません!!」と約束したので、
和尚は逃がしてやりました。
村の人たちは、雷が鳴ると「ここは桑原・欣勝寺、くわばら、くわばら欣勝寺、
くわばら、くわばら欣勝寺」と唱えるようになりました。』
それ以来、桑原の地には雷が落ちないと言い伝えられています。
尤も、大阪府和泉市桑原町の西福寺(さいふくじ)にも、同じように雷に
まつわる民話が残り、更に「桑原」と名の付く他の土地にも
同じような話が伝わっています。
現在では、欣勝寺や西福寺は「雷が落ちない」が転じて、
受験に落ちないとの御利益があるそうです。

清涼山心月院へ向かいます。
続く
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墨染寺-山門
京阪「墨染」駅から西へ3分程歩いた南側に墨染寺(ぼくせんじ)があります。
山号を「深草山」と号する日蓮宗の寺院で、
貞観16年(874)に第56代・清和天皇(在位:858~876)の勅願により
摂政・藤原良房(804~872)が建立した貞観寺を前身とします。
墨染寺-本堂
本堂
貞観寺が建立された貞観16年が正確ならば良房の死後となり、
良房の娘で清和天皇の母である明子(あきらけいこ/めいし:829~900)が、
父の菩提を弔うために創建したのかもしれません。
京都御苑内には良房の屋敷跡とされる所に染殿井が残され、屋敷は「染殿」、
明子は染殿后(そめどの の きさき)と呼ばれていました。
屋敷は桜の名所として知られ、良房は明子の美貌を
「年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」と詠んで
桜の美しさに例えました。
また、染殿井は御所三名水の一つに数えられ、染物に適し、
清和天皇の産湯にも使われたと伝わります。
以上のことから、「墨染桜」は元は良房の屋敷に咲いていた桜ではないか..?
と想像されます。
墨染寺-日蓮聖人像
本堂前の日蓮聖人像
一方で、「墨染桜」の起源は、良房の養子となった藤原基経(836~891)の死を悼み、
友人であった上野峯雄(かみつけのみねお)が
「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだところ、
墨染色に咲いたという説があります。
「墨染」と聞くと真っ黒をイメージしますが、平安時代では喪服の染色や
訃報を知らせる手紙などに墨を薄めたようなやや薄い灰色である「薄墨色」の
色名がありますので、そのような色かと思われます。
墨染寺-本堂-扁額
現在の本堂には「桜寺」の扁額が掲げられています。
本堂前の駒札には「天正年間(1573~1593)に増長院日秀上人が、
豊臣秀吉の知遇を得、また秀吉の姉・瑞龍尼(ずいりゅうに)の
篤い帰依を受けたことにより、この地を日蓮宗の寺として再興することを許され、
「墨染桜寺(ぼくせんおうじ)」として再興させた」と記されています。

秀吉の姉・智(とも:1534~1625)は、後に秀吉の養子となった
秀次・秀勝・秀保らの生母です。
しかし、文禄元年(1592)に秀勝、文禄4年(1595)に秀保が病死し、秀次も同年、
高野山の青巌寺で切腹して果てました。
秀次の一族も秀吉により処刑され、智の夫・三好吉房(1534~1612)も
四国・讃岐へ配流されました。
智は文禄5年(1596)に、日蓮宗の大本山・本圀寺(ほんこくじ)で出家し、
法名は「日秀尼」で院号を「瑞龍院」と号し、
同年、京都の村雲の地(現・上京区村雲町)に瑞龍寺を建立しました。
第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)から1000石の寺領を寄進され、
後には皇女や公家の娘が門跡となる比丘尼御所(俗にいう尼門跡)として、
「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院となりました。
墨染寺-鬼子母神
本堂の右側には鬼子母神が祀られています。
墨染寺-庭園
庭園内の後方には三代目の墨染桜が植栽されています。
欣浄寺-本堂
墨染寺から東へ進み、次の四つ角を右折して南へ進んだ西側に
欣浄寺(ごんじょうじ)があります。
鉄の扉は閉じられていましたが、その横のガレージから境内へ入れます。
欣浄寺は山号を「清凉山」と号する曹洞宗の寺院です。
かって、この地には小野小町のもとへ通ったとされる
深草少将の屋敷があったと伝わります。
世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説『百夜通い(ももよがよい)』では、
深草少将が小町の邸宅があったとされる山科の随身院へ九十九日まで通い続け、
最後の一日は雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとされています。
その後、小町も乞食となって落ちぶれ、かって生家があったと伝わる
市原の補陀落寺を訪れ、一生を終えたとされています。
しかし、誰も葬る人が無く、風雨にさらされ、やがて白骨化し、その髑髏からは
ススキが生えていたとも伝わり、
少将が小町を恨み、小町の成仏を阻んだ結果ともされています。

『欣浄寺略記』には第50代・桓武天皇(在位:781~806)が深草少将義宣へ邸宅を贈り、
弘仁4年(813)に深草少将が亡くなると、この地に葬られたと記されているそうです。
しかし、少将は能作者たちによる想像上の人物であり、
僧の遍昭や大納言義平の子・義宣がそのモデルともされています。
欣浄寺-池
本堂前の池は「深草少将姿見の池」と称されています。
欣浄寺-井戸
石橋を渡った先の井戸は「墨染井」と称され、その水は「涙の水」とも呼ばれます。
欣浄寺-供養塔
その先に小野小町と深草少将との供養塔が建立されています。
欣浄寺-道元詩碑
本堂前には道元禅師の詩碑が建っています。
「生死可憐雲変更 迷途覚路夢中行 唯留一筆醒猶記 深草閑居夜雨声」

この地にはその後、安養院が創建されました。
貞応2年(1223)に南宋に渡り、中国の曹洞禅を学んだ道元は、
安貞元年(1227)に帰国して安養院に閑居し、
観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)を
開いて、ここで『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を執筆しました。
しかし、比叡山からの弾圧を受け、寛元元年(1243)7月に越前志比荘へ移りました。
その後、観音導利院興聖宝林禅寺は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失して断絶し、
慶安元年(1648)に当時の淀城主・永井尚政(ながい なおまさ)により、
宇治七名園の一つの朝日茶園があった地で「興聖寺」として再興されました。

安養院は天正年間(1573~1592)に真言宗の清凉山欣浄寺へと改められたそうです。
その後、天正~文禄年間(1573~1595)に僧・告厭(こくえん)により中興され、
浄土宗へ改宗されましたが、文化年間(1804~1818)に曹洞宗へ戻されました。

昭和49年(1974)に現在の本堂が、鉄筋コンクリート造で再建されました。
堂内に安置されている毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、像高5.3mで、
木像としては日本一の大きさだそうで、「伏見大仏」とよばれています。
胎内銘により、頭部は安永3年~6年(1774~1776)、胴部は寛政3年~8年(1791~1796)に
造立されたことが判明しました。
また、堂内に安置されている阿弥陀如来像は第54代・仁明天皇(在位:833~850)の
念持仏であったと伝わり、道元禅師石像は自らが刻んだものとされています。
深草少将張文像は、小野小町の恋文を灰にしたものを固めて造られたとされています。
但し、本堂の参拝は予約が必要のようです。

藤森神社へ向かいます。
続く
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誕生の碑
羽束師坐高御産日神社からバイクで5分余り北へ進んだ、
桂川に架かる久我橋の西側付近に誕生寺があります。
誕生寺は正式には明覚山誕生寺と号する曹洞宗の寺院です。
駐車場へは桂川の堤防沿いから入ります。

かって、この地には源 師房(みなもと の もろふさ)が営んだ
別業(なりどころ/べつぎょう=古代貴族の別荘)がありました。
師房は第62代・村上天皇の皇子・具平親王(ともひら しんのう)の子で、
寛仁4年(1020)に源朝臣の姓を賜わり、その孫の太政大臣・源雅実
(みなもと の まさざね)が久我家の祖となりました。
久我家4代目の久我通親(こが みちちか)の子が道元とされていますが、
諸説あり定かではありません。
しかし、上級貴族、公卿の家の生まれであることは変わり無いようです。
曹洞宗祖の碑
誕生寺は当時の曹洞宗大本山・永平寺の第66世・日置黙仙禅師
(ひおきもくせんぜんし)により、大正5年(1916)に寺院の建立が発願されました。
現在の福井県越前市小松町にあって永平寺の末寺であった華厳山明覚寺の寺籍が
引き継がれ、「誕生山明覚寺」と号し、道元禅師自作の禅師の木造が遷されました。
大正8年(1919)に仮堂が建立され、翌年に禅師像の入仏遷座式が営まれました。
しかし、大正9年(1920)に日置黙仙禅師が入寂され、その後の計画は頓挫しました。
山門
平成12年(2000)に道元禅師・生誕八百年を迎えるに当たり、
昭和57年(1982)から復興が開始されました。
16年の歳月をかけて本堂、山門、庫裡などが建立されました。
山門-扁額
山門には山号「明覚山」の扁額が掲げられています。
銀杏-2
山門前の銀杏の木は「区民の誇りの木」に選定されています。
鐘楼
銀杏の木の右側に鐘楼があります。
本堂
本堂
本尊は千手観音菩薩です。
本堂-扁額
本堂には寺号の「誕生寺」の扁額が掲げられています。
道元像
本堂前の向かって右側には道元禅師の幼少像が祀られています。
道元禅師は正治2年1月2日(1200年1月19日)に誕生したのですが、3歳の時に
父・通親、8歳の時に母・藤原伊子(ふじわら の いし)を亡くし、異母兄である
堀川通具(みちとも)の養子になりました。
建保2年(1214)、14歳で天台座主・公円のもとで出家しました。
建保5年(1217)に建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事し、
貞応2年(1223)明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡りました。
嘉禄元年(1225)、天童如浄(てんどう にょじょう)に師事して中国曹洞禅の
只管打坐(しかんたざ)の禅を受け継ぎ、翌嘉禄2年(1226)に帰国しました。

天福元年(1233)に京都深草に興聖寺を開き、『正法眼蔵』の最初の巻である
「現成公案」を、執筆しました。

文暦元年(1234)、日本達磨宗を修行していた孤雲懐奘(こうん えじょう)が
道元禅師を師事するようになると、達磨宗からの入門が相次ぎました。
比叡山から弾圧を受けるようになり、寛元元年(1243)7月に越前国の
地頭・波多野義重の招きで越前志比荘に逃れました。
波多野義重が土地を寄進して寛元2年(1244)に大佛寺が開かれ、
寛元4年(1246)に大佛寺は永平寺と改められました。
建長5年(1253)に病により永平寺の住職を孤雲懐奘に譲り、京都高辻西洞院の
俗弟子覚念の屋敷で入寂されました。
享年54歳
仏足跡
本堂前の左側にはブッダガヤの仏足跡が祀られています。
仏教の八大聖地の1つ・ブッダガヤは、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた所とされています。
両親の供養塔
本堂の左側に道元禅師の両親の供養塔が建立されています。
平成12年(2000)に道元禅師・生誕八百年を迎えるに当たり、
平成9年(1997)に建立されました。
向かって右側の宝篋印塔は母・伊子のための供養塔で「鶴の塔」と呼ばれていました。
久我の地にあった「鶴の塔」は、現在は市内上京区の北村家庭園で保存され、
国の重要文化財に指定されています。
その「鶴の塔」を忠実に再現し、欠けた部分は補われて復元されました。
井戸の碑
「鶴の塔」の裏側に「道元禅師産湯の井戸」の石碑が建っています。
井戸
石碑の裏側にその井戸があります。
願力の碑
供養塔の西側には「願力」と刻字された石碑が建立されています。
豊川稲荷
境内の西側に豊川稲荷が勧請され、荼枳尼天(だきにてん)が祀られています。
昭和16年(1941)に愛知県の曹洞宗の寺院・円福山妙巌寺から豊川稲荷が勧請されました。
寺の復興が祈願され、「明覚山誕生寺」と改称されました。
観音像
向かい側には慈母観音像が祀られています。
西門
西門

城南宮へ向かいます。
続く

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石門
恵心院から5分余り宇治川の上流へと歩いた所に、慶安元年(1648)に建立された
興聖寺の総門(石門)があります。
道元の碑
総門の脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻字された石碑が建っています。
道元禅師は建保2年(1214)に延暦寺で出家し、園城寺(三井寺)の
公胤(こういん)の元で天台教学を修めました。
貞応2年(1223)に南宋に渡り、中国の曹洞禅を学びました。
安貞元年(1227)に帰国し、天福元年(1233)に京都深草で
観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)をを開き、
『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を執筆しました。
しかし、比叡山からの弾圧を受け、寛元元年(1243)7月に越前志比荘へ移りました。
寛元2年(1244)に傘松に大佛寺を開き、寛元4年(1246)に大佛寺は永平寺に改められました。
道元禅師は日本での曹洞宗の開祖ですが、宗旨で「高祖」と尊称されています。

断絶していた興聖寺は、慶安元年(1648)に当時の淀城主、永井尚政(ながい なおまさ)
によって、宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興されました。
尚政は、道元禅を志していた高僧・万安英種(ばんなんえいじゅ)を招いて中興開山とし、
本堂、開山堂、僧堂、庫院、鐘楼、山門などの諸堂を建立整備しました。
ほうきょう-1
ほうきょう
山門までの緩い登り坂は「琴坂」と呼ばれています。
参道の両側のせせらぎが琴の音のように聞こえることから「琴坂」と呼ばれ、
その水は総門の左側に築かれた「宝栬鏡池(ほうせいきょうち)」へと注がれています。
石門-裏側
総門をくぐって振り返ると紅葉が鮮やかで、琴坂は紅葉の名所でもあります。
茶筅塚-1
山門の手前、左側に茶筅塚があります。
茶筅塚-2
毎年10月の第1日曜日に開催されている「茶まつり」では、興聖寺で「茶壺口切の儀」
「献茶式」「茶筅塚供養」が行われます。
山門
山門は江戸時代の弘化元年(1844)に改築され、明朝の建築様式、
竜宮造となっていることから竜宮門とも呼ばれています。
楼上には釈迦三尊と十六羅漢が安置されています。
山門-紅葉
山門前の紅葉
鐘楼
門をくぐった右側に慶安4年(1651)に建立された鐘楼があります。
午前4時と10時に撞かれ、午前4時に撞かれる鐘は、振鈴(しんれい・起床の合図)と呼ばれ、
暁天坐禅、朝課(ちょうか=朝のお勤め)、回廊掃除・作務と続く
修行の一日が始まる合図になります。
この鐘楼は「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つに数えられています。
鐘楼の背後に浴司(よくす=浴室)がありますが非公開です。
庫裡
浴室の左側には庫裏があります。
秋葉大権現
門をくぐった左側には鎮守社の秋葉大権現が祀られています。
不動明王
秋葉大権現の斜め向かいには不動明王の石仏が祀られています。

秋葉大権現の左の建物は衆寮で、研修道場とされ、修行僧が修行を深める
自習用の建物であり一般には公開されていません。
本堂
画像はありませんが、山門をくぐった正面に薬医門があります。
薬医門をくぐった正面に法堂(本堂)があります。
興聖寺は正式には、山号を「仏徳山」、寺号を「興聖宝林禅寺」と号します。
「宝林禅寺」は中国の曹渓山にあって、道元禅師が敬慕した中国禅宗の
六祖・慧能(えのう)が住した「宝林寺」に因むとされています。
現在の本堂は慶安元年(1648)に伏見城の遺構を用いて建立されました。
本尊は釈迦牟尼仏で、攝津の国、自笑庵にあったものを永井尚政が譲り受けたとされ、
寺伝では道元禅師が自ら刻んだとされています。
書院-玄関
本堂の右側には大書院の玄関があります。
本堂前庭-庫裡側
参道の右側には庫裏の建物が続いています。
本堂前庭-僧堂側
参道の左側には僧堂があります。
十三重石塔塔頂部
本堂、庫裏、僧堂、薬医門に囲われた所には庭園が築かれ、その一角に浮島に
建っていた十三重石塔の九重目の笠石と頂の九輪石があります。
十三重石塔は宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間川中に埋没し、
明治40年(1907)になって発掘に着手されたのですが、
九重目の笠石と頂の九輪石は見つかりませんでした。
石川五右衛門に盗まれ、伏見区の藤森神社の境内の手水鉢の台石に流用されたとの
噂が流れましたが、その後見つかり興聖寺へ運ばれました。
魚板
興聖寺は「開かれた禅寺」として堂内の拝観が許されています。
庫裡には大きな大きな二つの魚板(魚鼓)が吊るされています。
木魚の原型とされ、魚の形をしているのは、魚は日夜を問わず目を閉じないことから、
寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味が込められています。
口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背をたたくことで煩悩を吐き出させようとするものです。
ここの魚板は、よほど叩かれ続けられたのかお腹がすり減り、
もう一方は穴が開いています。
庫裡-竈
お昼前なので、大きな竈で昼食の準備が行われていました。
大書院-内部
庫裡から廊下を進んだ先に大書院があり、「宇治八景展」が催されていました。
大書院は明治45年(1912)に新築された興聖寺の「貴賓室」で、
大正8年(1919)には貞明皇后(ていめいこうごう)の行幸がありました。
大書院
大書院の東側
方丈
大書院の向かい側には方丈があり、その間には小滝が流れ落ちる内庭が築かれています。
方丈は住職の居室とされ、非公開です。

方丈の南側に次書院がありますが、非公開です。
井戸
大書院から方丈への廊下の南側には井戸があります。
宝物殿
大書院の西側には手習観音が安置されている宝物殿と
その上部に天竺殿の屋根が望めます。
引き戸-右
引き戸-左
順路に従い本堂へと進むと引き戸があり、左に鶴、右に孔雀の図が描かれています。
本堂-木魚
引き戸から本堂へ入ると大きな木魚があります。
これは「一願木魚」と呼ばれ、「静かな心で木魚を摩り、
一つだけ願い事を念じてください」と記されています。
本堂-天井
本堂は、慶安元年(1648)伏見城の遺材を用いて建立されました。
伏見城は、以前に築かれた指月伏見城が完成直後に慶長伏見地震によって
倒壊したため、慶長2年(1597)に指月から北東約1kmの木幡山に築かれました。
豊臣秀吉は完成した城に入りましたが、1年後の慶長3年(1598)に城内で亡くなりました。
城には徳川家康とその家臣が入ったのですが、家康が上杉景勝を討つために
出陣した間隙を縫って反家康を掲げる豊臣派の武将により攻撃されました。
伏見城は落城し、徳川軍は自刃して果てました。
その時の廊下の板を供養のため天井に張ったとされ、「血染めの天井板」と呼ばれ、
印内に当時の血痕が残されています。
また、前縁の廊下は鴬張りとなっています。
本堂-扁額
本堂前中央には、第87代・四条天皇(在位:1232~1242)の勅額
「興聖實林禅寺」が掲げられています。
本尊
法堂(本堂)には釈迦三尊像が安置されていますが脇侍はの詳細は不明です。
釈迦三尊の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩、梵天と帝釈天などと一定でなく、
曹洞宗などの禅宗では羅漢が配される場合もあります。
開山堂
本堂から左側の廊下を進むと、開山堂が見えますが、
順路は先に上部の天竺殿へ向かうように指示されています。
聖観音菩薩像
天竺殿の手前、右側に宝物殿があります。
以前は「知祠(ちし)堂(位牌堂)」と称されていましたが、
今回の新しいパンフレットには「宝物殿」と記されています。
堂内には檀信徒の先祖の位牌が祀られ、聖観音菩薩立像が安置されています。
像高1.6mで、平安時代の小野 篁(おの の たかむら)作と伝わり、
宇治市の文化財に指定されています。
現在は廃寺となった塔頭の大悲院に安置され、『源氏物語』「宇治十帖」
第9帖「手習」に記されている観音像として「手習観音」と称されています。
『源氏物語』ではこの観音像は「手習の杜」に祀られていたとされ、宇治川に身を投げた
浮舟が死にきれず、横川の僧都に助けられますが、
その場所が手習の杜付近だったとされています。
聖観音菩薩像-親指
この観音像は左足を前に出し、親指を上げています。
これは衆生の困苦を救うために、すぐに駆けつけるということを表しています。
天竺殿
天竺殿の須弥壇中央の厨子内には聖観音像が安置されています。
この像は東福門院が先だって崩御された第110代・後光明天皇の手紙を張り合わせて
作らせた内の一躯です。
東福門院(徳川和子:とくがわ まさこ)は第2代将軍・徳川秀忠の娘で、
徳川家康の内孫にあたり、第108代・後水尾天皇の中宮となりました。
後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子で、東福門院が養母となっていました。
承応3年(1654)9月20日に後光明天皇は病で崩御され、明暦3年(1657)に
永井尚政がこの尊像を拝領し、興聖寺に安置されるようになりました。

左奥に永井尚政、右奥に父・直勝の像が祀られています。
永井尚政は、曹洞宗に帰依していたとされる両親の菩提を弔うと共に、
自らの菩提寺とするため興聖寺を再興しました。
また、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いで、直勝が相手側の
武将・池田恒興(いけだ つねおき)を討ち取ったことにより、
その菩提を弔うためであったともされています。
直勝は供養のため、一宇の建立を願っていたのですが、果たせませんでした。
堂内には永井家の位牌が祀られています。
開山堂‐扁額
天竺殿から下り開山堂へ向かいます。
開山堂は寛延3年(1750)の道元禅師500回大遠忌に塔頭・東禅院の大悲殿が移築されました。
道元禅師が梅の花を好まれた事から「老梅庵」と名付けられ、扁額が掲げられています。
堂内には鎌倉時代作で、竹椅子に座る等身大の道元禅師像が安置されています。
胎内には遺骨が納められています。
両脇には歴代住職の像や位牌が祀られています。
三面大黒天
本堂左側の廊下から僧堂への回廊に三面大黒天像が安置されています。
正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三つの顔を持っています。
僧堂-文殊菩薩
僧堂は慶安元年(1648)の永井尚政による再興時に建立され、
元禄15年(1702)に改修されました。
堂内には文殊菩薩坐像が「聖僧」として安置されています。
文殊菩薩は獅子の上に坐していますが、
興聖寺の獅子は開山堂の方へ尻を向けないように、右側に顔があります。
聖僧を囲むように、建物の壁に沿って僧侶個人の坐禅・生活の場である
1人1畳の大きさの「単」が連続して設けられています。
修行僧は「単」で参禅の他、食事や就寝もここで行われます。
僧堂と東司(トイレ)及び浴司(浴室)は「三黙道場」と呼ばれています。
僧堂-通路
興聖寺は「開かれた道場」として毎月第1及び第3日曜の午前9時から、
参加費無料で日曜参禅会が行われています。
経堂
堂内の拝観を終え、衆寮の方へ向かうと北側に経堂があります。
墓地の石段
経堂の先は墓地で石段が一直線上に続いています。
道元の墓
墓地の最上部に道元禅師の墓があります。
道元禅師は建長5年(1253)に病にて54歳で入寂され、廟は永平寺にありますが、
この地にも霊骨が改納されました。
嘉永7年(1854)に第121代・孝明天皇から「仏性伝燈国師」、
明治12年(1879)には第122代・明治天皇より「承陽大師」の諡号(しごう)が贈られました。
墓地からの伽藍
墓地からの伽藍です。
東禅院
琴坂を下り、途中で左に入ると塔頭の東禅院の境内となります。
東禅院は一般には公開されていないようですが、白壁と対比して紅葉が美しく感じます。
東禅院からの下り
東禅院から下ると興聖寺の石門のすぐ横に出ます。
亀石
下った所の上流側に旅館の亀石楼があり、
その駐車場前付近の宇治川に「亀石」があります。
江戸時代の地誌に「宇治川一の名石」と紹介され、
古くは第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう在位:BC29~70)の逸話が残されています。
天皇は山背の大国不遅(現在の伏見区醍醐付近)に綺戸辺(かにはたとべ)と称する
美人が住んでいると聞き、山背へ行幸されました。
途中、川から大亀が出現し、これを矛で刺すと石になったと伝わります。
天皇は霊験があるのに違いないと喜び、綺戸辺を妃としました。
また、豊臣秀吉が伏見城へ通ずる水路を開いた際に蓋にしたとも語り継がれてきましたが、
今はこの石を見るためにここまで来る人はほとんど見かけません。

京阪宇治駅の方へ戻ります。
続く

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