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佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)
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西明寺から下り、清滝川に沿って下流側へ進むと高雄橋が架かっています。
橋を渡ると右側に神護寺への石段の参道があります。
参道の石段は続き、ちょっと一休みしたくなるように、
「もみじ餅」の甘い言葉がささやきます。
更に「みたらし団子」は?と投げかけられますが、
新型コロナの影響で全て閉店中でした。
茶店・硯石亭前の参道の脇に硯石があり、対岸には額立石が残されています。
第52代・嵯峨天皇は、「金剛定寺」の勅額を空海に依頼しました。
前日の五月雨で清滝川が増水し、橋が流され勅使は神護寺側へ
渡ることができませんでした。
そこで空海はこの石を硯とし、対岸に額を立てさせ、墨を含んだ筆を
額をめがけて投げました。
墨は霧となって額に「金剛定寺」と記されたと伝わります。
残念ながら金剛定寺は現存しません。
硯石を超えても尚、石段は続きます。
清滝川から楼門までの石段は350段です。
楼門は修復工事中でした。
元和9年(1629)の建立と伝わり、持国天・増長天の二天像が安置されていましたが、
工事期間中二天像は引っ越されているようです。
神護寺は山号を高雄山と号する高野山真言宗の寺院で、
正式な寺号は「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称します。
また、仏塔古寺十八尊霊場の第7番、西国薬師四十九霊場の第44番、
及び神仏霊場の第90番札所です。
楼門の右側に本坊があります。
本坊は一般公開されていないようなので、門から除きました。
書院でしょうか?
入山料600円を納め、楼門をくぐると右側に書院への
勅使門と思われる門がありますが、閉じられています。
門の西側には白壁の宝蔵があります。
宝蔵の西側に和気清麻呂霊廟があります。
和気清麻呂(わけ の きよまろ:733~799)は、奈良時代末期から
平安時代初期にかけての貴族で、第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)の御代
(749~758)に道鏡を巡る事件で天皇の意にそぐわず、大隅国へ配流されました。
神護景雲4年(770)に称徳天皇が崩御され、道鏡も失脚すると
清麻呂は大隅国から呼び戻されました。
天応元年(781)に第50代・桓武天皇が即位すると、清麻呂は実務官僚として
重用され、高官へと昇進しました。
この頃、清麻呂は国家安泰を祈願し河内に神願寺を創建しました。
また、ほぼ同じ頃に私寺として高雄山寺を建立しました。
亀岡にある愛宕神社の分霊が鷹ヶ峰へ勧請され、
その後、天応元年(781)に慶俊僧都が和気清麻呂と協力して鷹ヶ峰で
祀られていた愛宕権現を愛宕山上へと遷座しました。
そして、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を開いたとされ、
その一ヶ寺が高雄山の高雄山寺で、他には大鷲峰の月輪寺が現存しています。
清麻呂は、延暦3年(784)の長岡京遷都の際、神崎川と淀川を直結させる工事を行い、
大阪湾から長岡京方面への物流路を確保しました。
一方、遷都後10年を経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付け、
平安京への遷都を進言しました。
延暦18年(799)に67歳で薨去され、高雄山寺の境内に葬られました。
嘉永4年(1851)に第121代・孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて
神階正一位と護王大明神の神号を贈りました。
明治7年(1874)には境内にあった和気清麻呂霊廟は護王神社と改称され、
別格官幣社に列せられました。
明治19年(1886)、第122代・明治天皇の勅命により護王神社は、
神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座されました。
現在の霊廟は昭和9年(1934)に、実業家・山口玄洞
(やまぐち げんどう:1863~1937)の寄進により、跡地に復興されたものです。
霊廟の西側に鐘楼への石段があり、
その下に「和気公墓道」の石標が建っています。
石段を登らないとその先に、明王堂があり、
かって、空海作の不動明王像が安置されていました。
天慶2年(940)、平将門の乱の際、遍照寺の寛朝大僧正は、
この不動明王像を奉じて関東へ下向し祈祷をしました。
将門は戦死し、寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしなかったため、
寛朝を開山として不動明王を本尊とする成田山新勝寺が創建されました。
現在、明王堂には鎌倉時代の作とされる、制吒迦(せいたか)と
矜羯羅(こんがら)の二童子像を従えた不動明王像が安置されています。
明王堂では毎月第2日曜日と1/2及び8/16に護摩供が修せられています。
明王堂の先で参道は南に折れ、
その先に元和9年(1623)に再建された五大堂があります。
当初は平安時代に第53代・淳和天皇の御願により建立されたと伝わります。
堂内には不動明王を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、
金剛夜叉明王の五大明王像が安置されています。
五大堂の南側に元和9年(1623)に建立された毘沙門堂があります。
現在の金堂が建立される以前は、この堂が金堂でした。
堂内に安置されている毘沙門天立像は、平安時代後期の作で像高112.4cm、
国の重要文化財に指定されています。
毘沙門堂の斜め西側に安土・桃山時代~江戸時代初期(1573~1614)に
建立された大師堂があり、国の重要文化財に指定されています。
かって、この地には空海の住坊「納涼坊」がありました。
性仁法親王が仁和寺から神護寺に入った際に、
自坊の翫玉院(がんぎょくいん)を造営しました。
法親王は正安4年(1302)に仏師・法眼定喜(じょうき)に土佐国の金剛頂寺の
大師像を模刻させ、全高136.7㎝の板彫弘法大師像を造らせ安置ていたと伝わります。
現在はその像は国の重要文化財に指定され、大師堂に安置されています。
秘仏とされていますが、11月1日~15日のみ開帳されます。
大師堂と毘沙門堂及び五大堂との間の参道正面の石段上に金堂が見えますが、
石段は登らず、その手前を左に曲がり、西へ進みます。
橋を渡り参道を進みます。
突き当たりに明治33年(1900)に再興された塔頭の地蔵院があります。
地蔵堂には「世継地蔵」と称される地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵堂の右横
地蔵院から左に折れ、緩い坂を少し下った所には苔庭があります。
歌碑等も建っていますが、詳細は不明です。
その先の西正面は展望が開け、「かわらけ」投げ場があります。
神護寺は「かわらけ」投げの発祥の地とされています。
下に林道が見え、その先をグーグルマップで調べてみると
愛宕山登山口の案内看板があることが判明しました。
神護寺から下山後に林道をバイクで走ってみたいと思います。
地蔵院から戻り、橋の手前を左折した先に閼伽井があります。
空海が灌頂を行った際に自ら掘ったと伝わります。
閼伽井の右上方に金堂が見えます。
現在の金堂は昭和9年(1934)に実業家・山口玄洞の寄進により再建されました。
和気清麻呂の死後、子の広世(ひろよ)・真綱(まつな)の兄弟は、
比叡山中に籠って修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼し、
最澄はそれを受けて法華会を行いました。
最澄らと共に唐へ渡った空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ
大同元年(806)に帰国したため、入京が許可されませんでした。
大同4年(809)に第52代・嵯峨天皇が即位すると、
最澄の尽力や支援によりそれが解かれ、高雄山寺へ入りました。
空海と最澄はその後10年ほどは交流関係を持っていました。
空海は弘仁3年(812)に高雄山寺で金剛界結縁灌頂を開壇し、
入壇者は最澄やその弟子・円澄、光定、泰範(たいはん)のほか190名にのぼりました。
その後、泰範が空海の弟子となったことで、空海と最澄が
訣別する要因の一つとなりました。
弘仁7年(816)に空海に高野山が下賜され、開創に着手しました。
天長元年(824)に清麻呂の子・真綱(まつな)と仲世(なかよ)の要請により、
神願寺と高雄山寺が合併され、寺号が「神護国祚真言寺
(じんごこくそしんごんじ)」と改められました。
一切は空海に託され、弟子の実慧(じちえ)や真済(しんぜい)が別当(住職)となって
護持されましたが、正暦5年(994)に焼失してからは衰微しました。
更に、久安5年(1149)の落雷による火災で寺は壊滅的な打撃を受け、
本尊の薬師如来像が風雨にさらされて残されるのみとなっていました。
長寛2年(1164)又は仁安3年(1168)に神護寺は、
文覚(もんがく:1139~1203)により再興されました。
文覚は北面武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王(とうし/むねこないしんのう)に
仕えていましたが、19歳で出家しました。
文覚は空海の旧跡を慕い神護寺に参詣しましたが、その惨状を見、
生涯の悲願として神護寺再興を決意しました。
山内に草庵を結び、再興の請願を発し、復興へと着手しましたが、後白河法皇に
荘園の寄進を強訴したため、承安3年(1173)に伊豆へ配流されました。
伊豆で同じく配流されていた源頼朝の知遇を得、頼朝が権力を掌握していく過程で、
頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺の再興に尽力しました。
しかし、建久10年(1199)に頼朝が没すると、将軍家や天皇家の相続争いなどの
さまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して
源通親(みなもと の みちちか)により佐渡国へ配流されました。
通親の死後許されて京に戻りましたが、元久2年(1205)に後鳥羽上皇に
謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中に亡くなりました。
遺骨は文覚の弟子・上覚(1147~1226)によって持ち帰られ、神護寺に葬られました。
上覚は文覚の遺志を継ぎ、神護寺の再興を完遂させました。
神護寺は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
文明年間(1469~1487)には仁和寺の末寺となりました。
その後も兵火を受けて二度焼失し、豊臣秀吉や徳川家康の
寄進を受けて再建されました。
元和元年(1615)に讃岐・屋島寺の龍巌が神護寺に入ると、龍巌に帰依した
京都所司代・板倉勝重が奉行となって金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、明王堂、
楼門などが順次再建されました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で9の塔頭と15の坊は廃され、
寺領の一部も没収されました。
本尊は平安時代初期作、像高170.6cmの薬師如来立像で国宝に指定されています。
奈良時代に盛んであった銅造、塑造、乾漆造ではなく、
貞観時代(859~877)から主流となった木像彫刻で、カヤ材の一本造りです。
唇に朱を、眉、瞳などに墨を塗る他は彩色などを施さない素木仕上げの像で、
貞観彫刻の特徴が表されています。
近年、神願寺の本尊であったことが確定しました。
脇侍の日光・月光両菩薩像も平安時代初期の作で、国の重要文化財に指定されています。
左脇侍の日光菩薩像は像高151㎝で、腰から上は後補となっています。
右脇侍の月光菩薩像は像高150cmで、当初の造仏部分は膝から下のみで
大部分を後補で占められています。
その両側に室町時代作の十二神将立像と、更にその外両側に四天王像が安置されています。
脇檀には如意輪観音像、地蔵菩薩像、大黒天像、弁財天像などが安置されています。
金堂から左奥に進んだ所に竜王堂がありますが、詳細は不明です。
竜王堂から石段を登った所の塀で囲われた中に多宝塔があり、
門は閉じられています。
承和3年(836)、第54代・仁明天皇(在位:833~850)は宝塔院の建立を発願され、
同7年(840)に着工され、同12年(845)に完成しました。
承和元年(834)に別当に就いた実慧(じちえ)と同7年(840)から
真済(しんぜい)が引き継ぎ、造営に携わりました。
現在の多宝塔は昭和9年(1934)に山口玄洞の寄進により、
宝塔院の跡地に再建されました
宝塔院には、いずれも像高90cm余りの五大虚空蔵菩薩像が安置されていました。
ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる中尊の法界虚空蔵、
東方尊・金剛虚空蔵、南方尊・宝光虚空蔵、西方尊・蓮華虚空蔵、
北方尊・業用虚空蔵の五尊で、国宝に指定されています。
背後の山を少し登れば、塔の全体を見ることができます。
五大虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩の五つの智恵を5体の菩薩像で表したものとも、
金剛界の五智如来の変化身(へんげしん)とも言われ、
富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法が修せられます。
現在の多宝塔内には五大虚空蔵菩薩像が一直線に祀られています。
境内図によれば、多宝塔から右側に登って行けば文覚上人と性仁法親王の
墓があるようですが、右側に下ると金堂の右側に出て、
不動明王の石像が祀られています。
不動明王の石像の右側に少し下るような山道があります。
谷を迂回するように進むと和気清麻呂の墓があります。
和気清麻呂は、宇佐八幡宮神託事件で大隅国へ配流されました。
宇佐八幡宮神託事件とは、奈良時代の神護景雲3年(769)に宇佐八幡宮より
第48代・称徳天皇に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、
道鏡が天皇位を得ようとした事件で、和気清麻呂が勅使として
その真偽を確認するために宇佐八幡宮へ派遣されました。
宇佐八幡宮で大神から「道鏡は宜しく早く掃い除くべし」との神託を受け、
天皇に報告したところ、道鏡を寵愛していた天皇は、
逆に清麻呂を大隅国への流罪としました。
神護景雲4年(770)に称徳天皇が崩御されると道鏡も失脚し、
清麻呂は大隅国から呼び戻されました。
天応元年(781)に第50代・桓武天皇が即位すると、
実務官僚として重用されて高官へと昇進しました。
同年、宇佐八幡大神から受けた神託「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を
読誦して一伽藍を建て、万代安寧を祈願せよ」により河内(又は男山とも、諸説あり)に
寺を創建し、その神託から寺号を神願寺としました。
また、ほぼ同じ頃に私寺として高雄山寺を建立しました。
延暦2年(783)に摂津大夫に任ぜられ、翌年に桓武天皇が長岡京へ遷都すると、
神崎川と淀川を直結させる工事を行い、大阪湾から
長岡京方面への物流路を確保しました。
その傍ら、菅野真道と共に民政の刷新を行い、『民部省例』20巻を編纂しました。
遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付け、
天皇に平安京への遷都を進言し、延暦12年(793)には造宮大夫に任ぜられ、
自身も建都事業に尽力しました。
今の京都があるのは、和気清麻呂のお陰かもしれません。
延暦18年(799)に67歳で薨去され、嘉永4年(1851)には第121代・孝明天皇から
清麻呂の功績を讃えて神階正一位と護王大明神の神号が贈られました。
高直な人柄で、一身の利益を顧みずに忠節を尽くし、皇統の断絶という
日本最大の危機を救った人物と評されています。
来た道を不動明王の石像付近まで戻ると、東側へ入る参道があり、
その先に元和9年(1623)に再建された鐘楼が建っています。
梵鐘は貞観17年(875)に鋳造されたもので、銘文が刻まれ、国宝に指定されています。
序詞(じょことば)は橘広相(たちばな の ひろみ)、
銘文は菅原是善(菅原道真の父)、揮毫は藤原敏行の筆によります。
下山して愛宕神社へ向かいます。
続く