山崎院跡
観音寺から南へ進むと「山崎院跡」の石碑が建っています。
神亀2年(725)、行基は日本三古橋の筆頭として挙げられている
「山崎橋」を淀川に架橋しました。
その長さは3kmにも及び、対岸には「橋本」という地名が残されています。
天平3年(731)、行基は山崎にあった古寺を改修して「山崎院」を建立し、
橋の管理と仏教の布教を行いました。
山崎橋は洪水で損壊や流出が繰り返され、永承3年(1048)の
『宇治関白高野山御参詣記』の記述を最後に、
文禄元年(1592)に豊臣秀吉が再架橋するまで失われていました。
山崎院が何時頃迄橋の管理を行っていたかは不明で、
その後身が宝積寺とする説もあります。
昭和64年(1989)と平成11年(1999)に行われた発掘調査で奈良時代の
唐草文彩色壁画片、半丈六の如来形などの塑像片など
院に係わる多くの遺物が発掘されました。
登山口
石碑からJRの線路沿いに南へ進むと踏切があり、反対の山側が
宝積寺への参道及び天王山への登山口となり、石碑が建立されています。
山崎宗鑑
脇には山崎宗鑑の「霊泉連歌講跡」の碑が建ち、句碑が建てられています。
山崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者で、
幼少時から室町幕府9代将軍・足利義尚に仕えていたとされています。
長享元年(1487)の長享の乱で足利義尚は出陣したのですが、
長享3年(1489)3月に陣中で病死しました。
山崎宗鑑は出家し、山崎に庵「對月庵」を結び、
庵で霊泉連歌講を主催したとされています。
宗鑑は大永3年(1523)頃に山崎の地を去ったとされ、その後に對月庵が
寺に改められたのがJR山崎駅前の妙喜庵と伝わります。
句碑には「うつききて ねぶとに鳴や 郭公(ほととぎす)」と刻まれています。
ここから左に進めば聴竹居(ちょうちくきょ)があります。
昭和3年(1928)に建てられた環境共生住宅の原点といわれる建物で、
見学には予約が必要です。
予約はしていないので宝積寺の方へ向かいます。
大念寺-石段
坂道を少し上ると右側に大念寺への石段があります。
大念寺-本堂
本堂
大念寺は室町時代後期の弘治元年(1555)に創建されましたが、幕末の禁門の変で
長州藩の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失しました。
現在の本堂は明治12年(1879)に西観音寺の閻魔堂を移築して再建されました。

本尊の「阿弥陀如来立像」は像高80cmで、鎌倉時代の寛元元年(1243)に、
浄土宗西山派の派祖・証空(1177~1247)が臨終の際の念持物として造立されました。
その後各所を転々として明治になって大念寺に遷されました。
円仁が自刻したとされる真如堂の本尊を写したもので、拝観には予約が必要です。
仁王門
大念寺から更に坂道を上ると宝積寺(ほうしゃくじ)の仁王門がありますが、
車道は仁王門を迂回して駐車場へと続きます。
仁王門は安土・桃山時代に再建された三間一戸八脚門で、慶長10年(1605)頃に
豊臣家によって改築されたとも伝わり、府の文化財に指定されています。
仁王像-阿形
仁王像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
千手観音の眷属(けんぞく)である二十八部衆の仁王像で、
開口の阿形(あぎょう)像は、「密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)」像で、
像高は277.5cmです。
仁王像-吽形
口を結んだ吽形(うんぎょう)像は
「那羅延堅固王(ならえんけんごおう)」像で、像高は284.2cmです。
鐘楼
駐車場には鐘楼があり、「平成10年(1998)二月吉日 良縁成就 
待宵の鐘 室町時代 宝寺」と記されています。
「宝寺」とは宝積寺の通称です。
梵鐘
梵鐘は口径75cmで、永正16年(1519)の銘があります。
「待宵の鐘」と称され、島本町に墓がある待宵小侍従に由来しています。
不動堂
鐘楼の向かいにコンクリート造りの不動堂があり、不動明王が祀られていますが、
ガラス戸は施錠されています。
三重塔
参道に戻ると、北側に三重塔が建っています。
桃山時代の 天正12年(1584)に建立されたもので本瓦葺、高さ19.5mで、
国の重要文化財に指定されています。
「豊臣秀吉 一夜之塔」の駒札が立てられ、合戦の勝利祝いに、
秀吉が一夜で建立したという逸話が残されています。
三重塔の須弥壇には大日如来坐像が安置されています。
十七士の墓
三重塔の横には墓地があり、「殉国 十七士墓」の石碑が建っています。
禁門の変で、戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名は、
当初この宝積寺の三重塔前に葬られました。
墓参者の多さに幕府は怒り、墓を暴いて遺骸を竹薮に棄て、
寺領は没収されて3寺が焼かれました。
江戸幕府が倒れた明治元年(1868)に十七烈士の屍は、
天王山の山中へと移されました。
更に宝積寺は神仏分離令の廃仏毀釈により荒廃し、
明治5年(1872)には4院1坊は無量院の1院に合併されました。
本堂ー1
本堂
宝積寺は山号を天王山と号する真言宗智山派の寺院で、
標高270mの天王山の南側山腹にあります。
天王山の登山口であり、「天王山登頂証明書」を
100円が必要ですが発行してもらうことができます。
50枚集めれば「天王山グラス」が頂けるそうです。

宝積寺は神亀年間(724~729)に、聖武天皇の勅命を受けた行基により開創されました。
第45代・聖武天皇の夢枕に立った竜神が授かったとされる寺宝の
「打出」と「小槌」を祀ることから宝寺(たからでら)とも呼ばれています。
平安時代の天安2年(858)に、第55代・文徳天皇が
御物を奉納したことから「宝積寺」と称されました。
長徳年間(995~999)に天台宗の僧・寂照(じゃくしょう)によって中興されています。
寂照は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、
世をはかなんで出家し、その後宋に渡りましたが帰国できずに亡くなりました。
安土・桃山時代には織田信長が滞在し、石清水八幡宮修造の指揮をしました。
天正10年(1582)の山崎の合戦では、羽柴秀吉が本陣を置きました。

宝積寺は、貞永元年(1232)の火災で焼失しました。
現在の本堂はその後再建され、慶長11年(1605)に改築されて
京都府の登録文化財に登録されています。

本尊の木造「十一面観世音菩薩立像」は、焼失した翌年の
貞永2年(1233)に造立され、国の重要文化財に指定されています。
行基像
本堂の南側の縁には開山・行基菩薩像が安置されています。
出世石
本堂前の「秀吉 出世石」は、秀吉が座して天下統一を志したと伝わります。
九重石塔
本堂と小槌宮の間に建つ「九重石塔」には、鎌倉時代の仁治2年(1241)の銘文があり、
大山崎町文化財に指定されています。
塔は、聖武天皇の供養のために建てられ、京都府下では2番目に古いものです。
当初は五重だったのが、いつの頃か九重になりました。
小槌堂
小槌宮は、大黒天が祀られ、竜神が唐よりもたらしたとされる
「打出」と「小槌」が奉納されています。
小槌には伝承があり、聖武天皇がまだ皇子であった時に、竜神が夢枕に立ち、
小槌を出して「左の掌を打てば、計り知れない果報が授かる」と
言って天へ舞い上がって行きました。
皇子が目を覚ますと、枕元に小槌が置かれていて、それで左の掌を打ち、
即位することが叶ったとされています。
竜神を信じた聖武天皇は恵方である山崎の地に、
小槌を奉納し宝積寺を建立したと伝わります。
焔魔堂
閻魔堂はコンクリート造りで、西観音寺から遷された鎌倉時代作で、
重要文化財に指定されている閻魔大王と眷属(けんぞく)の五尊像が祀られています。
閻魔の法廷で書記を務める冥界の役人像が並べて安置され、
地獄の法廷が再現されています。
閻魔堂は有料(400円)で拝観できます。
宝積寺公式HPに記される眷属名は寺に伝わる名称で、実際には司録は五道転輪王、
司命は太山府君、倶生神は司命、闇黒童子は司録が本来の像名とみられます。

閻魔王坐像は像高160.9cmで、閻魔王は死後35日目の審理を行い、
亡者の生前の一挙手一投足が映し出される浄玻璃(じょうはり)の鏡で、
いかなる隠し事も見破るとされています。
嘘をついていたことが判明すれば舌を抜かれ、閻魔王により死者が
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の何処に生まれ変わるかが決定されます。

五道転輪王坐像の像高は143.6cmで、五道転輪王は
三回忌で最後の裁きを行うとされています。

太山府君坐像の像高は122.4cmで、太山府君は十王の中に取り入れられ、
泰山王として死後49日目の審理を行うとされています。
この審理を終えるとそれぞれ六道と繋がる六つの鳥居が示されますが、
亡者はどれがどこに繋がっているかは分からず、
鳥居をくぐって初めて裁きが分かるようになっています。

司命像の像高は114.5cmで、司命は書巻をひもといて読む姿を表し、
閻魔王の判決を言い渡すとされています。

司録坐像の像高は110.5cmで、司録は筆と経巻を執る姿で表され、
閻魔王の判決を記録する書記官とされています。
弁天社
放生池には島があり、島には弁財天が祀られています。
水掛不動
池の畔には水掛不動尊が祀られています。
鎮守社
池から山側へ登ると鎮守社がありその右側には役行者が祀られています。

鎮守社の右側は天王山への登山道で、山頂へ向かいます。
続く

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