伏見稲荷大社の御旅所から西へ進んだ正面に東寺の慶賀門があります。
鎌倉時代前期(1185~1274)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
伏見稲荷大社の還幸祭では神輿がこの門の前に並び、僧から御供と読経を受けます。
南北朝時代の延元元年/建武3年(1336)、東寺に本陣を敷いた足利尊氏(1305~1358)を
新田義貞(1301~1338)が攻撃し、尊氏は門を閉めて難を逃れ、
以来寺では開けてはならない門とされたと伝わり、
「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれています。
新田軍が放った矢の跡が残っていると伝わり、室町時代の応永30年(1423)では大風で、
江戸時代の慶長10年(1605)には地震で損傷しましたが、
同年豊臣秀頼(1593~1615)によって大修理が施されました。
塀越しの五重塔で、残りの紅葉が色を添えています。
九条通へ右折して西へ進んだ北側に東寺の正門である
南大門があります。
明治元年(1868)に焼失したため、明治28年(1895)に慶長6年(1601)に建立された
三十三間堂の西大門が移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
東寺は山号を「弥勒八幡山」と号する真言宗の総本山で、
西国愛染十七霊場・第8番などの札所です。
正式には「金光明(こんごうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院」ですが、
宗教法人としての登録名は「教王護国寺」で、
「東寺」は創建当時から使用されてきた歴史的名称です。
昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産として登録されました。
門を入った正面には金堂、その北側には講堂と建ち並びますが、堂内参拝の受付は
講堂の北側ですので、南から順を追って北へと進みます。
門を入った右側(東側)に八嶋神社があり、祭神として地主神が祀られているとも、
大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)であるとも伝わります。
八嶋とは、伊邪那岐命と伊邪那美命が生み出した日本列島のことで、
東寺が造営される以前からこの地に祀られていました。
空海は、東寺の伽藍建立に先立ち、この神に造立成就を祈願し、
地主神として崇められたと伝わります。
明治元年(1868)に南大門が焼失した際に、八島神社も焼失し、
現在の社殿は平成4年(1992)に再建されました。
南大門の左側には弘法大師像が祀られています。
弘仁7年(816)に修禅の道場として高野山の開創に着手した空海(774~835)は、
弘仁14年(823)に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。
この季節、黄色に染まった背後のイチョウが光背のように見えます。
右側に鎮守八幡宮があります。
鎮守八幡宮は弘仁元年(810)の薬子の変に際し、空海が王城鎮護を祈願して
宇佐八幡宮を勧請して創建されました。
伏見稲荷大社の稲荷祭の際、還幸祭で南大門から入った5基の神輿が社前に並び、
東寺側から神輿に御供をした後に神輿は大社へと帰ります。
本殿には空海が一本の霊木から、自ら八幡三神を刻んだと伝わる日本最古の神像が
祀られていますが、秘仏とされています。
南北朝時代、東寺の内外で戦闘が行われた時、鎮守八幡宮から神矢が飛んで、
東寺に陣を置いた足利尊氏(1305~1358)が勝利しました。
この戦勝により、足利幕府は東寺を保護し、鎮守八幡宮も栄えたのですが、
南大門の焼失の際に類焼し、平成4年(1992)に再建されました。
鎮守八幡宮の向かい、境内の南西角には灌頂院(かんじょういん)があり、
灌頂院への東門があります。
灌頂院は東寺にしか現存せず、「真言堂」とも呼ばれ、真言宗寺院では
最も重要な堂宇で、国の重要文化財に指定されています。
空海が修行した唐の青龍寺にならい、密教修行の道場として建立され、
灌頂道場としては最大規模になります。
承和10年(843)に建立されたのですが、承和2年(835)に弘法大師が入定されたため、
東寺二祖の実恵大徳(じつえだいとく:786?~847)によって完成されました。
承和10年(843)に太政官符で実恵大徳に対し東寺で最初の伝法灌頂が許可されました。
天正13年(1586)に発生した天正地震で損壊し、弘法大師八百年御遠忌の
寛永11年(1634)に第3代将軍・徳川家光(在職:1623~1651)により再建されました。
天正地震は、中部地方を震源とした巨大地震で、被害の範囲は
明治24年(1891)の濃尾地震(M8.0~8.4)をも上回る広大なものでした。
小子坊は、元は境内の西北隅に位置する西院大師堂の一画にあり、
南北朝時代に九州に下った足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう:1313~1364)の
院宣を掲げて京都に入った際に、建武3年/延元元年(1336)から約半年間、
洛中の戦乱が治まるまで御所とされました。
現在の建物は、昭和9年(1934)に弘法大師千百年御遠忌の記念事業として、
木曽檜材を用いて新築され、堂本印象(1891~1975)により襖絵が描かれました。
南側
御影堂(西院御影堂)は大師堂とも呼ばれ、かって空海が居住していましたが
御影堂(西院御影堂)は大師堂とも呼ばれ、かって空海が居住していましたが
当初の堂は天授5年/康暦元年(1379)に焼失し、
その翌年に後堂(うしろどう=南側)部分が再建されました。
10年後の元中7年/明徳元年(1390)に弘法大師像を安置するために北側に前堂、
その西側に中門が増築されました。
後堂には空海の念持仏とされる不動明王坐像が安置されています。
厳重な秘仏で非公開とされていますが、平安時代の作で日本の不動明王像としては
最古の作例の一つであり、国宝に指定されています。
北側の前堂に安置されている弘法大師坐像は、
天福元年(1233)に運慶(?~1224)の4男・康勝(こうしょう:生没年不詳)により
造立されたもので、国宝に指定されています。
空海の弟子・真如(799~865?)が描いた空海の肖像画とほぼ同じと伝わります。
この像の前では毎朝6時に弘法大師に朝食を捧げる
「生身供(しょうじんく)」が執り行われています。
また、「御影供(みえく)」が空海の命日である21日に毎月行われています。
「生身供」と「御影供」は空海に深く帰依した
後白河法皇の皇女・宣陽門院(1181~1252)が創始しました。
平安時代後期に東寺は一時衰退しましたが、宣陽門院が霊夢のお告げに従い、
莫大な荘園を東寺へ寄進したことにより復興されました。
境内の南東側に毘沙門堂があります。
文政5年(1822)に建立され、平成6年(1994)の創建1200年記念事業で
修復が行われ、毘沙門天像も新造されました。
かっては羅城門の楼上に安置されていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像を
本尊としていました。
羅城門は弘仁7年(816)に大風で倒壊し、その後再建されましたが
天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊し、以降再建されることはありませんでした。
羅城門が倒壊した後、毘沙門天像は東寺に遷され、
当初は食堂(じきどう)に安置され、毘沙門堂の建立後は毘沙門堂に遷され、
現在は国宝に指定されて宝物館に安置されています。
尊勝陀羅尼とは、仏頂尊勝の功徳を説いた陀羅尼で八七句から成り、
これを唱え、または書写すれば、悪を清め長寿快楽を得、
自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされています。
陀羅尼とは、サンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える
もので、本来の意味は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指します。
やがて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を
特に「陀羅尼」と呼ぶ様になりました。
本来、陀羅尼は暗記して繰り返し唱える事で雑念を払い、
無念無想の境地に至る事を目的としたものです。
亀のように見えるのは、中国の伝説上の動物・贔屓(ひいき)で、
竜の子とされ、重いものを背負うのを好むとされています。
甲羅に建つ石塔は永遠不滅とされ、古来より石碑や墓石の土台に用いられてきました。
贔屓は、自分の気に入った者に対して肩入れし、
援助する意味で使われる語源になっています。
この碑はかって、北野天満宮の宗像社の傍らに嘉永6年(1853)、
比叡山の僧・願海(1822~1873)によって建てられたのですが、
慶応4年(1868)の神仏分離令により現在地に移されました。
願海は、文政6年(1823)に群馬県高崎市で生まれ、21歳の時に比叡山へ上って
千日回峰を発願し、嘉永6年(1853)31歳で千日回峰行を満行しました。
また、石碑の周囲を回りながら贔屓の頭や手足などを撫でて、
自分の患部をさすると万病に効果があると信仰されいます。
自分の患部をさすると万病に効果があると信仰されいます。
「天降石」は天から降りてきて、古くからこの地にあったと伝わります。
江戸時代には「護法石(五宝石)」或いは「不動石」と呼ばれていたのが、
いつの頃からか「天降石」と呼ばれるようになりました。
石を撫でた手で体の悪い箇所をさすると治ると信仰され、
「撫石(なでいし)」とも呼ばれます。
右前方に大黒堂があります。
大黒堂では、かって御影堂での生身供(しょうじんく)の調理が行われていました。
生身供は現在も行われていて、朝の6時前に10回の鐘の音を合図に
御影堂への唐門が開けられ、6時から一の膳、二の膳、お茶が供えられます。
6:20と7:20には弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利を
頭と両手に授ける「お舎利さん」が行われます。
大黒堂には、弘法大師作と伝わる大黒天・毘沙門天・弁財天が合体した
三面大黒天像が安置されていますが、厨子内に納められ、扉は閉じられています。
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