タグ:都七福神めぐり

慶賀門
伏見稲荷大社の御旅所から西へ進んだ正面に東寺の慶賀門があります。
鎌倉時代前期(1185~1274)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
伏見稲荷大社の還幸祭では神輿がこの門の前に並び、僧から御供と読経を受けます。
東大門-2
大宮通を南へ進むと東大門があります。
鎌倉時代の建久9年(1198)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
平成22年(2010)から門と築地塀の修復工事が行われ、ほぼ完成したように見られます。
東大門-1
南北朝時代の延元元年/建武3年(1336)、東寺に本陣を敷いた足利尊氏(1305~1358)を
新田義貞(1301~1338)が攻撃し、尊氏は門を閉めて難を逃れ、
以来寺では開けてはならない門とされたと伝わり、
「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれています。
新田軍が放った矢の跡が残っていると伝わり、室町時代の応永30年(1423)では大風で、
江戸時代の慶長10年(1605)には地震で損傷しましたが、
同年豊臣秀頼(1593~1615)によって大修理が施されました。
紅葉と五重塔
塀越しの五重塔で、残りの紅葉が色を添えています。
南大門-1
九条通へ右折して西へ進んだ北側に東寺の正門である
南大門があります。
明治元年(1868)に焼失したため、明治28年(1895)に慶長6年(1601)に建立された
三十三間堂の西大門が移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
南大門-2
東寺は山号を「弥勒八幡山」と号する真言宗の総本山で、
洛陽三十三所観音霊場・第23番、京都十三仏霊場・第12番、京都十二薬師霊場・第2番、
都七福神めぐり(毘沙門天)、神仏霊場・第84番、真言宗十八本山・第9番、
西国愛染十七霊場・第8番などの札所です。
正式には「金光明(こんごうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院」ですが、
宗教法人としての登録名は「教王護国寺」で、
「東寺」は創建当時から使用されてきた歴史的名称です。
昭和9年(1934)に国の史跡に指定され、平成6年(1994)には
世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産として登録されました。
南大門からの五重塔
こちらは南大門の横からの五重塔です。
八嶋神社-鳥居
門を入った正面には金堂、その北側には講堂と建ち並びますが、堂内参拝の受付は
講堂の北側ですので、南から順を追って北へと進みます。
門を入った右側(東側)に八嶋神社があり、祭神として地主神が祀られているとも、
大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)であるとも伝わります。
八嶋神社
八嶋とは、伊邪那岐命と伊邪那美命が生み出した日本列島のことで、
東寺が造営される以前からこの地に祀られていました。
空海は、東寺の伽藍建立に先立ち、この神に造立成就を祈願し、
地主神として崇められたと伝わります。

明治元年(1868)に南大門が焼失した際に、八島神社も焼失し、
現在の社殿は平成4年(1992)に再建されました。
弘法大師像
南大門の左側には弘法大師像が祀られています。
弘仁7年(816)に修禅の道場として高野山の開創に着手した空海(774~835)は、
弘仁14年(823)に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。
この季節、黄色に染まった背後のイチョウが光背のように見えます。
鎮守八幡宮-鳥居
右側に鎮守八幡宮があります。
鎮守八幡宮は弘仁元年(810)の薬子の変に際し、空海が王城鎮護を祈願して
宇佐八幡宮を勧請して創建されました。
伏見稲荷大社の稲荷祭の際、還幸祭で南大門から入った5基の神輿が社前に並び、
東寺側から神輿に御供をした後に神輿は大社へと帰ります。
鎮守八幡宮-本殿
本殿には空海が一本の霊木から、自ら八幡三神を刻んだと伝わる日本最古の神像が
祀られていますが、秘仏とされています。
南北朝時代、東寺の内外で戦闘が行われた時、鎮守八幡宮から神矢が飛んで、
東寺に陣を置いた足利尊氏(1305~1358)が勝利しました。
この戦勝により、足利幕府は東寺を保護し、鎮守八幡宮も栄えたのですが、
南大門の焼失の際に類焼し、平成4年(1992)に再建されました。
穴門
鳥居前の奥には穴門があります。
「穴門」とは築地塀などを切り取って造られた低く小さな門のことで、
埋門(うずみもん)とも称されています。
灌頂院-東門
鎮守八幡宮の向かい、境内の南西角には灌頂院(かんじょういん)があり、
灌頂院への東門があります。
灌頂院は東寺にしか現存せず、「真言堂」とも呼ばれ、真言宗寺院では
最も重要な堂宇で、国の重要文化財に指定されています。
空海が修行した唐の青龍寺にならい、密教修行の道場として建立され、
灌頂道場としては最大規模になります。
承和10年(843)に建立されたのですが、承和2年(835)に弘法大師が入定されたため、
東寺二祖の実恵大徳(じつえだいとく:786?~847)によって完成されました。
承和10年(843)に太政官符で実恵大徳に対し東寺で最初の伝法灌頂が許可されました。
天正13年(1586)に発生した天正地震で損壊し、弘法大師八百年御遠忌の
寛永11年(1634)に第3代将軍・徳川家光(在職:1623~1651)により再建されました。
天正地震は、中部地方を震源とした巨大地震で、被害の範囲は
明治24年(1891)の濃尾地震(M8.0~8.4)をも上回る広大なものでした。
灌頂院-北門
灌頂院北門
灌頂院の四方は築地塀で囲われ、通常非公開です。
東門と北門はともに国の重要文化財に指定されています。
勅使門
鎮守八幡宮から北上すると勅使門があり、築地塀で囲われた内部には書院、
客殿、小子坊などがありますが、通常非公開です。
勅使門と小子坊
小子坊は、元は境内の西北隅に位置する西院大師堂の一画にあり、
南北朝時代に九州に下った足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう:1313~1364)の
院宣を掲げて京都に入った際に、建武3年/延元元年(1336)から約半年間、
洛中の戦乱が治まるまで御所とされました。
現在の建物は、昭和9年(1934)に弘法大師千百年御遠忌の記念事業として、
木曽檜材を用いて新築され、堂本印象(1891~1975)により襖絵が描かれました。
本坊表門
北側の本坊表門には「真言宗総本山 教王護国寺 事務所」と掲げられています。
観音像
北へ進むと聖観音像とその右側に地蔵菩薩像が祀られています。
御影堂門
西側の築地塀で囲われた境内は「西院」と称されています。
御影堂-斜め
門を入った左側に御影堂があります。
御影堂-南側
南側
御影堂(西院御影堂)は大師堂とも呼ばれ、かって空海が居住していましたが
当初の堂は天授5年/康暦元年(1379)に焼失し、
その翌年に後堂(うしろどう=南側)部分が再建されました。
10年後の元中7年/明徳元年(1390)に弘法大師像を安置するために北側に前堂、
その西側に中門が増築されました。
後堂には空海の念持仏とされる不動明王坐像が安置されています。
厳重な秘仏で非公開とされていますが、平安時代の作で日本の不動明王像としては
最古の作例の一つであり、国宝に指定されています。
御影堂-北側
北側の前堂に安置されている弘法大師坐像は、
天福元年(1233)に運慶(?~1224)の4男・康勝(こうしょう:生没年不詳)により
造立されたもので、国宝に指定されています。
空海の弟子・真如(799~865?)が描いた空海の肖像画とほぼ同じと伝わります。
この像の前では毎朝6時に弘法大師に朝食を捧げる
「生身供(しょうじんく)」が執り行われています。

また、「御影供(みえく)」が空海の命日である21日に毎月行われています。
「生身供」と「御影供」は空海に深く帰依した
後白河法皇の皇女・宣陽門院(1181~1252)が創始しました。
平安時代後期に東寺は一時衰退しましたが、宣陽門院が霊夢のお告げに従い、
莫大な荘園を東寺へ寄進したことにより復興されました。
毘沙門堂
境内の南東側に毘沙門堂があります。
文政5年(1822)に建立され、平成6年(1994)の創建1200年記念事業で
修復が行われ、毘沙門天像も新造されました。
かっては羅城門の楼上に安置されていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像を
本尊としていました。
羅城門は弘仁7年(816)に大風で倒壊し、その後再建されましたが
天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊し、以降再建されることはありませんでした。
羅城門が倒壊した後、毘沙門天像は東寺に遷され、
当初は食堂(じきどう)に安置され、毘沙門堂の建立後は毘沙門堂に遷され、
現在は国宝に指定されて宝物館に安置されています。
尊勝陀羅尼の碑-並び
西側に宝篋印塔、尊勝陀羅尼の碑、宝塔などが並んでいます。
尊勝陀羅尼の碑
尊勝陀羅尼とは、仏頂尊勝の功徳を説いた陀羅尼で八七句から成り、
これを唱え、または書写すれば、悪を清め長寿快楽を得、
自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされています。
陀羅尼とは、サンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える
もので、本来の意味は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指します。
やがて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を
特に「陀羅尼」と呼ぶ様になりました。
本来、陀羅尼は暗記して繰り返し唱える事で雑念を払い、
無念無想の境地に至る事を目的としたものです。

亀のように見えるのは、中国の伝説上の動物・贔屓(ひいき)で、
竜の子とされ、重いものを背負うのを好むとされています。
甲羅に建つ石塔は永遠不滅とされ、古来より石碑や墓石の土台に用いられてきました。

贔屓は、自分の気に入った者に対して肩入れし、
援助する意味で使われる語源になっています。
この碑はかって、北野天満宮の宗像社の傍らに嘉永6年(1853)、
比叡山の僧・願海(1822~1873)によって建てられたのですが、
慶応4年(1868)の神仏分離令により現在地に移されました。
願海は、文政6年(1823)に群馬県高崎市で生まれ、21歳の時に比叡山へ上って
千日回峰を発願し、嘉永6年(1853)31歳で千日回峰行を満行しました。
万病ぬぐいの布
贔屓には万病平癒の御利益があるとされ、万病ぬぐいの布で贔屓を擦り、
自分の患部を擦って、治癒した方々が、後方の布納め棒に結ばれています。
また、石碑の周囲を回りながら贔屓の頭や手足などを撫でて、
自分の患部をさすると万病に効果があると信仰されいます。
天降石
「天降石」は天から降りてきて、古くからこの地にあったと伝わります。
江戸時代には「護法石(五宝石)」或いは「不動石」と呼ばれていたのが、
いつの頃からか「天降石」と呼ばれるようになりました。
石を撫でた手で体の悪い箇所をさすると治ると信仰され、
「撫石(なでいし)」とも呼ばれます。
宝塔
並びの右端に宝塔があります。
宝塔-弘法大師像
宝塔内には小さな弘法大師像が安置されています。
高野山揺拝所
門の右側に高野山奥之院遥拝所があります。
弘法大師は、東寺を真言宗の根本道場、高野山を修禅道場と定められました。
不明な建物
西側正面の建物には駒札等が無く、詳細は不明です。
加行道場
その横の建物には「加行道場」の表札があります。
大黒堂
右前方に大黒堂があります。
大黒堂では、かって御影堂での生身供(しょうじんく)の調理が行われていました。
生身供は現在も行われていて、朝の6時前に10回の鐘の音を合図に
御影堂への唐門が開けられ、6時から一の膳、二の膳、お茶が供えられます。
6:20と7:20には弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利を
頭と両手に授ける「お舎利さん」が行われます。

大黒堂には、弘法大師作と伝わる大黒天・毘沙門天・弁財天が合体した
三面大黒天像が安置されていますが、厨子内に納められ、扉は閉じられています。
大黒堂-不動堂
大黒堂の北端には不動明王が祀られています。
鐘楼
北へ進むと鐘楼があります。
最初の鐘楼は、南北朝時代の正平3年/貞和4年(1348)に建立され、
梵鐘は足利尊氏によって寄進されました。
鐘楼-梵鐘
現在の梵鐘はその複製です。
一切経蔵
鐘楼の左奥には一切経蔵があります。
蓮華門
その奥には門があり、それを出て南へ進むと蓮華門があります。
鎌倉時代に再建された八脚門で、国宝に指定されています。
小子房の西の門であり、空海が高野山へ向かう際に使用していた門で、
最後の旅立ちの時、空海の足元に蓮の花が咲き、足跡にも蓮の花が咲いていた
という伝説から門の名称となりました。
大日堂
再び先ほどの門から境内へ戻り、東へ進むと北側に大日堂があります。
元は、江戸時代の元禄10年(1697)に御影堂の礼拝堂として建立され、
その後平安京を造営した第50代・桓武天皇(在位:781~806)の尊牌所となりました。
現在の大日堂は、平成12年(2000)に再建され、
役小角(えんの おづの:634?~701?=役行者)作と伝わる
胎蔵界大日如来像が安置されています。

御影堂門を出て金堂や五重塔などを巡ります。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

一の鳥居
禅居庵の摩利支天堂を出て大和大路通を北へ進んだ西側に京都ゑびす神社があります。
都七福神めぐりの札所で、通りに面して石造りの鳥居と冠木門(かぶきもん)が
並ぶようにして建立されています。
兵庫県西宮市の西宮神社、大阪市浪速区の今宮戎神社と並び、
「日本三大ゑびす」と称されています。
名刺塚
冠木門をくぐった右側に名刺塚と財布塚が建立され、
古くなった名刺や財布が供養されています。
名刺塚は吉村孫三郎氏(1884~1989)の揮毫(きごう)によります。
吉村孫三郎氏は大正10年(1921)に京都市山科区で現在のヨシボー株式会社
創業され、京都実業界の重鎮となった人物です。
財布塚は現在のパナソニックの創業者・松下幸之助氏(1894~1989)の
揮毫によるものです。
不明な社殿
その手前に社殿がありますが、祭神等の詳細は不明です。
恵比寿石像
角には石造りのゑびす像が祀られています。
二の鳥居
二の鳥居には福箕(みの)が取り付けられ、ここにお賽銭を投げ入れることが
できれば願い事が成就されると言われています。
二の鳥居-福箕
掲げられているゑびすの尊顔は昭和57年(1982)に奉納されたものです。
拝殿
鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
京都ゑびす神社は鎌倉時代の建仁2年(1202)に栄西禅師(1141~1215)が
建仁寺を創建した際に、その鎮守社として境内で祀られたのが始まりです。
社伝によれば、建久2年(1191)、宋に留学していた栄西禅師が帰国の際、
暴風雨に遭遇して船が沈没しそうになった時、海上に恵比須神が現れ、
その加護により難を逃れたと伝わります。
応仁・文明の乱(1467~1477)で建仁寺が焼失後に建仁寺が復興された際に、
現在地で再建、遷座されました。
恵比寿石と狛犬
本殿には八代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)、
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)が
祀られています。
八代言代主大神は、大国主大神と神屋楯比売(かむやたてひめ)との間に生まれ、
国譲り神話では釣りをしていた時、父の大国主から託され、
建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と交渉した神です。
この神話から八代言代主大神は、海と関係の深いゑびすと同一視され、
大鯛を小脇に抱え釣竿を持った七福神のゑびす神として表されるようになりました。
また、大国主はその読みから転じて大黒様とされています。
少彦名神は小柄だったことから一寸法師の原型とされている神で、国造り神話では
大国主と義兄弟の関係となって国造りに尽力した神です。
本殿横
本殿の左横にはゑびす神の肩をたたく参拝所があります。
ゑびす神は耳が遠いとされていることから、
板を叩いて祈願をしなければならないとされています。
天満宮
本殿の右側に小松天満宮があります。
大宰府に左遷された菅原道真(845~903)が九州筑紫の天拝山(てんぱいざん)で
荒業をする憤怒の姿した菅原道真像が祀られています。
「天拝山」という名は、道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し
天を拝したという伝記に由来しています。
天満宮-2
「足止め天神」とも呼ばれ、狛犬の足に名前と生年月日を書いた紙を、
男性なら右足、女性なら左足にくくりつけ、毎日お参りすると
家出した人が帰ってくると信仰されています。
また、無実の罪が晴れるとも、大切な人が自分から離れないという
「縁固め」のご利益もあるとされています。
供物は精進物に限定されています。
白太夫社
小松天満宮の左側には白太夫社があります。
白太夫(しらだゆう)は、浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』の登場人物で、
菅丞相(かんしょうじょう=菅原道真)に仕え、死後もその霊を守護した
忠義心のあつい農民とされています。
また、伊勢神宮の神職・度会春彦(わたらい の はるひこ:?~946)のことで、
道真の死をみとったという伝承も残されています。
稲荷社
奥へ進むと岩本稲荷社があります。
かって六波羅蜜寺の東にあった鎌倉時代中期の女流歌人・
阿仏尼(あぶつに:1222?~1283)の屋敷に祀られていました。
阿仏尼作とされる在原業平像が伝えられています。
八幡神社
その前には八幡神社猿田彦神社が並んでいます。
八幡神は文武の神、猿田彦命は導きの神、交通の神とされています。
北野天満宮揺拝所
猿田彦神社の左側には北野天満宮の遥拝所があります。
西門
本殿の左を西へ進み西門を出て下京区の佛光寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山門
下御霊神社から更に南下すると行願寺があります。
山号を「霊麀山(れいゆうざん)」と号する天台宗の尼寺で、
神仏霊場・第114番の札所となっています。
寛弘元年(1004)、行円により一条小川の一条北辺堂跡に創建されました。
京都御苑の西方には、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残されています。 
行円は仏門に入る前は猟師で、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から
子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったと伝わります。
行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、「皮聖」、「皮聖人」などと呼ばれ、
寺の名も「革堂(こうどう)」と呼ばれました。
行願寺はその後、度々の火災で焼失、再建を繰り返し、天正18年(1590)に豊臣秀吉による都市計画のため、寺町荒神口へ移転しました。
宝永5年(1708)の大火の後に現在地で再建されましたが、
天明8年(1788)の大火でも焼失しました。
山門は元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で焼失し、
その後再建されました。
行願寺は戦後荒廃していましたが、昭和44年(1969年)から中島湛海尼が住職となって
寺を再興し、名誉住職となりました。
湛海尼は昭和63年(1988)に尼僧で初めて天台宗最高位の大僧正になりましたが、
平成18年(2006)10月28日に91歳で亡くなりました。
手水舎
山門を入った左側に手水舎があります。
本堂-1
門を入った正面に本堂があります。
現在の本堂は文化12年(1815)に再建されたもので、
京都市の有形文化財に指定されています。
本堂-2
本尊は像高2.5mの千手観世音菩薩像で、行円が上賀茂神社のご神木を得て
3年をかけて自ら刻んだと伝わります。
本尊は秘仏とされ、毎年1月の17と18日のみ開帳されます。
加茂明神塔
境内の西北隅にある五輪塔は「加茂明神石塔」と称され、行円が上賀茂神社のご神木を
得た報恩として、加茂明神を勧請したと伝わります。
かっては、石塔前に鳥居が建っていたそうです。
百体地蔵堂
その東側に百体地蔵堂があり、多くの地蔵尊や石仏、石塔が祀られています。
鐘楼
更にその東側には文化元年(1804)に再建された鐘楼があり、
京都市の有形文化財に指定されています。
梵鐘
鐘は許可なく撞くことはできませんので、勝手に撞かないよう、
時々猫が見張りをしています。
鎮宅霊符神堂
鐘楼の東側に鎮宅霊符神堂があります。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
『風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸されました。
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで尋ねたところ、
「その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にありました。
ある時、いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、
十年にして大富豪となり、二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて
来るであろうと預言し、忽然と消えた」と答えました。
孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた』と伝わります。
但し、単に霊符を書いて壁に貼っておくだけでは駄目で、
この霊符を用いるには修法を実践する必要があるそうです。
日本に伝わってからは、鎮宅霊符そのものを神として祀られているようです。
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、この神の家内安全、
商売繁盛のお祭りです。
庫裡
鎮宅霊符神堂前の東側に庫裏があります。
七福神
庫裏の向かいの参道を挟んだ西側に七福神の像が祀られています。
寿老神堂
その南側に安土・桃山時代に建立された寿老神堂があります。
本尊の寿老人は「都七福神めぐり」の札所本尊でもあります。
愛染堂
更にその南側には愛染堂があります。
大日如来
本堂の南側に天道大日如来と延命地蔵菩薩を祀った社があり、
画像はありませんがその東側に宝物館があります。
宝物館には行円が身につけていたとされる鹿皮の衣が保存され、
毎年1月に2日間だけ公開されます。
また、お盆の期間のみ公開される「幽霊絵馬」には以下のような伝説が残されています。
『江戸時代の文化8年(1811)、行願寺の近くにあった質屋で子守として奉公していた
「おふみ」という少女が、よく境内で子守をしていました。
革堂から聞こえてくる御詠歌を子守歌代わりに、唄い聞かせていたのですが、
質屋の主人は熱心な法華信者でした。
ある時、おふみが唄う御詠歌が主人の耳に入り、
それに怒った主人に虐待され殺されてしまいました。
主人はおふみの遺体を親に返さず、蔵に隠しました。
行願寺での通夜に訪れていた両親の前におふみが幽霊となって現れ、
両親に真相を告げたました。
両親はおふみを葬った後に幽霊を絵馬に描き、
手鏡をはめて寺に奉納した』と伝わります。

寺町通を北上して京都御苑へ向かいますが、丸太町通を境に北は上京区、
南は中京区に分かれ、京都御苑は上京区となります。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

鳥居
導入寺から「烏丸橋」を渡り、北東方向に進むと修学院離宮道に出ます。
右に曲がれば修学院離宮はすぐそこなので、拝観予約を行っていない場合は
拝観予約を行います。
但し、当日の拝観予約を行っても拝観時間まで2~3時間の待ち時間がありますので
事前予約しておいた方が良いと思います。
赤山禅院へは左折して修学院離宮道を下り、その先を右折して北へ進むと、
右側へとカーブし、その先に赤山禅院の鳥居が建っています。
鳥居に掲げられた「赤山大明神」の扁額は第108代・後水尾天皇の行幸の際に
賜ったものですが、現在は複製が掲げられています。
(画像は平成30年(2018)2月のものを使用しています)

赤山禅院は、平安時代に慈覚大師円仁の遺命により、仁和4年(888)に
第4代・天台座主・安慧(あんえ)によって創建されました。
円仁は最後の遣唐使として唐に留学し、遣唐使一行と離れて滞在した
赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したのですが、果たせないままに没しました。
安慧は、陰陽道の主祭神でもある泰山府君(たいざんふくん)を勧請して
赤山禅院を創建したと伝わります。

かってこの地には南淵年名(みなみふちのとしな)が、晩年に営んだ
「小野山荘」がありました。
貞観19年(877)に南淵年名はその山荘で、日本初の音楽歌舞の遊宴である
尚歯会(しょうしえ)」を催しました。
尚歯会は、もとは845年、中国(唐)で白居易(はくぎょい)が催した
故事が起源で、最高齢の主人を含む7人の高齢者が招かれ、
あるいは集まり、詩賦(しふ)、あるいは和歌を楽しんだとされています。
「尚」はとうとぶ、「歯」は、年歯、年齢を表し、敬老の集まりの意味があります。
南淵年名の没後、延暦寺が山荘を買収して赤山禅院を創建しました。
境内には「小野山荘旧跡」と「我邦(国)尚歯会発祥之地」の石碑が建っています。
山門
参道は緩い坂道なっており、坂道を登って行くと山門があります。
赤山禅院は延暦寺の一別院(塔頭)で、神仏霊場・第107番及び
都七福神めぐり・福禄寿神の札所です。
拝殿への石段
参道の突き当りの左側に石段があります。
拝殿
石段を登った正面に拝殿があります。
拝殿-猿
屋根の上には御幣とかぐら鈴を持ち、皇城(京都御所)を守護している
猿像が祀られています。
かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に
入れられていると伝わります。
本堂
本殿には安慧によって勧請された泰山府君が赤山大明神として祀られています。
慈覚大師円仁は、遣唐使として唐に留学したのですが、
請益僧(しょうやくそう)として短期間の留学しか認められていませんでした。
唐の皇帝へ唐への留住を何度も願い出たのですが認められず、
そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒し、不法在唐を決意しました。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高(ちょうほこう)をはじめとする
多くの新羅人海商が活躍していました。
円仁は張宝高が設立した赤山法華院に滞在し、張宝高は円仁の
9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援しました。
赤山法華院の守護神として祀られていたのが赤山大明神で、
慈覚大師円仁は求法の旅での守護神とし、帰国後は比叡山東麓の守護神・日吉大社
山王権現に対し、西麓の守護神とし、
慈覚大師円仁の遺命を受けた安慧により創建されました。

内裏の表鬼門の方角に当たり、皇城守護の寺として皇室から信仰されてきました。
本殿には「皇城表鬼門」の木札が掲げられています。

正念誦
正念誦
還念珠
還念珠
本殿の前に「正念誦(しょうねんじゅ)」と呼ばれる大きな数珠の輪があり、
「正念誦」をくぐって境内の順路に従って進むと
出口付近にあるのが「還念珠(かんねんじゅ)」と名付けられています。
正念誦をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、境内を参拝する間思い続け、
還念珠をくぐる時、その願いが大切だと考えるなら、
その願いに向け努力することを誓います。
不動堂
雲母(きらら)不動堂は、廃寺となった雲母寺(うんもじ)の本堂が移築されました。
雲母寺は比叡山への登山口、雲母坂の音羽谷に平安時代末期の
元慶年間(877~884)に、千日回峰行の創始者・相応和尚により創建されました。
本尊は伝教大師最澄作の不動明王立像でしたが、明治18年(1885)に廃寺となり、
本堂と本尊は赤山禅院に遷され、現在でも大阿闍梨による護摩供が修せられています。
竜吐水
不動堂の脇には「竜吐水(りゅうどすい)」と呼ばれる
昔の消火用手押しポンプが置かれていました。
「竜吐水」を改良した「雲竜水」かもしれませんが、いずれにしろ消火には
貧弱であったように思われます。

境内の東側に山手へと登る石段があります。
その脇に滝行場があり、滝不動が祀られていますが、
滝行場への立ち入りは、関係者以外は禁止されています。
相生社
石段を登った正面には相生社があります。
画像にはありませんが、相生社の前には二つの鳥居が並び、「夫婦鳥居」と呼ばれ、
手をつないで通った二人は結ばれると伝えられています。
歓喜天
左側へ進むと歓喜天が祀られています。
歓喜天は除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の御利益があるとして
信仰されています。
金神社
更に左へ進んだ所に金神社があり、鬼門方除けの神とされています。
鬼門思想は中国から伝来し、古代の中国では北東方角を鬼門と呼び、
異界の鬼が人間界と行き来する出入り口があると考えられていました。
日本では陰陽道の思想を取り入れ、北東の艮(うしとら)とは、
北方の陰から東方の陽へと転ずる急所とされ、畏れられてきました。
金神(こんじん)は、方位神の一つであり、鬼門を護る神とされています。
艮の金神は「久遠国」という夜叉国の王である、巨旦大王の精魂とされています。
十禅士権現他
金神社の右側には、手前から十禅士権現、住吉大明神、新羅(しんら)大明神、

十禅士権現は日吉山王(ひえさんのう)七社権現の一社で、
国常立尊(くにのとこたちのみこと)から数えて第10の神にあたる
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が権現として祀られています。

新羅大明神は、智証大師円珍が天安2年(858)に唐商人の船で帰国の際、
老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、教法の加護を約したと伝わります。
帰国後感得した新羅明神を自ら刻み、三井寺北方の新羅善神堂に祀りました。
それを勧請したものと思われます。
八幡大菩薩他
金神社の左側には八幡大菩薩、天照皇大神宮、春日大明神が
祀られた社殿があります。
放生池
金神社から下ると放生池があります。
福禄寿殿
池の畔を進んだ先に福禄寿殿があります。
都七福神めぐりの福禄寿、神仏霊場・第107番の納経所となります。
福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、
三体一組の神でした。
中国では、明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた
「三星図」を飾る風習があります。
「三星図」はさまざまな形態で描かれ、日本人には二物を伴った
一人の神に見えたため、日本では福禄寿を三人ではなく一人の神格とする
認識が流布したと考えられています。
七福神
福禄寿殿の左側には、七福神の像が祀られています。
稲荷社
福禄寿殿から左側へ進んだ先に稲荷社があります。
手前の小さな社殿にも狐の像が祀られています。
弁天堂
本殿の左側に弁天堂があります。
「出世弁財天」として信仰を集めています。

十六羅漢
弁天堂の左側に十六羅漢の石像が祀られています。
羅漢は阿羅漢(あらはん)の略で、「悟りをひらいた高僧」との意味があり、
「十六羅漢」は釈迦の弟子で代表的な特に優れた弟子を指します。
三十三観音
十六羅漢像の右側に三十三観音像が祀られています。
観音菩薩は人々を救済するため三十三の姿に変化するとされています。
そのように考え出された起源は定かではありませんが、三十三観音霊場を巡礼して
参拝する信仰が生まれ、巡礼することにより犯した罪業が消滅し、
極楽往生できるとされています。
地蔵堂
十六羅漢像から左奥の方向に地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
赤山禅院では、赤山大明神は地蔵菩薩の化身であるとされ、
堂内には地蔵菩薩像が安置されています。
草鞋
地蔵堂の左側の建物には、たくさんのわらじが吊るされています。
比叡山の千日回峰行は、7年間にわたって行われ、5年700日を満行すると、
最も過酷とされる「堂入り」が行われます。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる
阿闍梨となり、行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入ります。
6年目からはこれまでの行程に赤山禅院への往復が加わり、
1日約60kmの行程を100日続けられます。
7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84kmにおよぶ京都大回りで、
後半100日は比叡山中30kmの行程に戻ります。
京都大回りでは、行者は深夜2時に無道寺谷を出て比叡山中30kmの山廻りを
行った後に明王堂に戻り、それから雲母坂を下って赤山禅院へ入ります。
赤山禅院ではわらじを履き替え、
お加持を行った後に京都市内の神社仏閣を巡拝します。
紅葉
赤山禅院は紅葉の名所でもあります。
桜
また、早咲きの桜と紅葉を愛でることができました。

修学院離宮へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

参道-北
大原街道から川端通りへと南下し、高野川に架かる松ヶ崎橋を渡って西へ進み、
その先で右折して斜め方向へ用水路沿いに進んだ北側に
松ヶ崎大黒天への参道があります。

法
参道を進むと、正面には五山送り火の一つである「妙」「法」の
「法」の字が見えます。
白雲稲荷神社-鳥居
参道の突き当りには白雲稲荷神社の鳥居が建ち、右側に駐車場があります。

参道-北西
松ヶ崎大黒天への参道は鳥居の手前から左斜め方向へと進みます。

山門下大黒堂
参道を進んだ正面に大黒天が祀られています。

山門下大黒堂-堂内
新しく祀られたように見えます。

山門下鳥居
その手前で参道は向きを変えて鳥居が建ち、石段が続きます。

山門
石段を登った所に山門があり、狛犬が門番をしています。
松ヶ崎大黒天は正式には、山号を「松崎山(しょうさきざん)」、
寺号を「妙円寺」と号する日蓮宗の寺院で、都七福神めぐりの第1番札所です。

本堂
門をくぐった正面に本堂があり、扁額には「妙園精舎」と記されています。
昭和44年(1969)に焼失後、現在の本堂が鉄筋コンクリート造りで再建されました。
本尊は久遠実成本師・釈迦牟尼仏です。

鎌倉時代末期の永仁2年(1294)、日蓮上人の弟子である日像上人が、
日蓮の遺命を受け、京都での日蓮宗の布教を行いました。
松ヶ崎集落は、逸早く教化された集落であり、徳治元年(1306)には集落の住民は
一村あげて改宗し、「松ヶ崎法華」とまでいわれるようになりました。
当時、集落にあり天台宗の寺院だった歓喜寺の住持も日像に帰依して
日蓮宗に改宗し、寺名を「妙泉寺」と改称し、京都での日蓮宗の寺院としては
最も古い一つとなりました。

しかし、延暦寺の迫害を受け、門徒により集落が焼き払われ、
日像上人は徳治2年(1307)に京都から追放されました。
日像上人はその後赦免され、第96代・後醍醐天皇より寺領を賜り、
上京区に妙顕寺を創建しました。
妙顕寺は後醍醐天皇の勅願寺となりましたが、延元元年/建武3年(1336)に
天皇は足利尊氏と対立し、京都を追われて吉野へ逃れ
吉野朝廷(南朝)を開きました。
日像上人は後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝・光厳上皇の祈祷も行い、
公武の信仰を集めました。
康永元年/興国3年(1342)に入寂され、伏見区の宝塔寺で荼毘に付されました。
宝塔寺にその廟があります。

天正2年(1574)には松ヶ崎檀林・本涌寺が創建されました。
檀林とは、近世初頭に日蓮宗教団が宗内僧侶の養成のために設けた学問所のことで、
松ヶ崎檀林は数ある洛陽檀林で最古となります。
元和2年(1616)、妙円寺は本涌寺内に日英上人の隠居所として開創されました。
尚、妙泉寺は本涌寺に大正7年5月14日に合併され、涌泉寺(ゆうせんじ)と
改称し、現在でも妙円寺の北西にあります。

日蓮聖人像

本堂前の右側には「宗祖・大聖人御説法像」が祀られています。

石仏
その右側には石仏が祀られています。

大黒堂
本堂の右側に大黒堂があります。
大黒堂は文化2年(1805)に建立され、明治34年(1901)には改築が施されましたが、
昭和44年(1969)1月20日に信者の献灯により焼失しました。
現在の大黒堂はその後再建されたものです。
大黒天像は無事に救出され、以後「火中出現 火伏守護の大黒さま」として
崇拝されるようになり、都七福神めぐり・第1番の札所本尊ともなっています。

大黒天像は伝教大師最澄作とされ、日蓮上人によって開眼され、
開基・日英上人の感得にて鎮座されたと伝わります。
大黒天像は年約6回の甲子大祭(60日に1回)の前夜7時に開帳され、
加持祈祷が厳修されます。
また、この日には特別の御朱印が授与されます。
「甲子(きのねえ)」は干支の組合せで一番目であることから、
甲子の日は吉日とされ、「甲子」の「子(ね)」を大黒天の神使いである鼠と
結び付けられました。
大黒天と同一視された大国主命が素戔嗚命の計略により、焼き殺されそうになった時、
鼠が大国主命を助けたことから鼠は大黒天の神使いとされています。

大黒像-大黒堂前
大黒堂の前に黒御影石で造られた撫で大黒天像が祀られています。

水子観音像
大黒堂の右側に水子観音像が祀られています。

大黒天・恵比寿像他
手前には大黒天と恵比寿像、弁財天像などが祀られています。

絵馬堂
大黒天堂の向かいには絵馬堂があります。

法への参道
境内の東側に五山送り火「法」への登り口がありますが、
立ち入りは禁止されています。

釈迦堂
更に東へ進むと釈迦堂があります。

釈迦堂-堂内
堂内には釈迦如来坐像などが安置されています。

白雲稲荷神社-拝殿
更に東へ進むと、御所にあった能楽殿が移築された、
白雲稲荷神社(しらくもいなりじんじゃ)の拝殿があります。

白雲稲荷神社-本殿
本殿
伝承によると、寺の北西、西参道の登り口に井戸があり、子狐がその井戸に落ちて
命を落としました。
親狐が現れ、「今後、井戸を掘ってはならない。
代りにこの井戸は涸らさない。
もし他に井戸を掘れば、その家には災いが起こる」と告げました。
以後、東松ヶ崎の17軒は大正15年(1913)に水道が敷かれるまで、この井戸を
生活用水として使用していました。
また、境内の東南には「牛の宮」が祀られ、牛の飼育も禁止されていました。
農家は牛の代わりに馬を飼い、昭和39年(1964)まで参道には馬場があり、
祭礼には競馬が奉納されていました。
現在、「牛の宮」は稲荷神社に合祀されています。

紀貫之は「たなひかぬ 時こそなけれ 秋も又 松ヶ崎より 見ゆる白雲」と
歌を残しています。

桜-1
駐車場まで下り、東の墓地の方へ登ると、比叡山を背景に枝垂桜が
花を咲かせていました。

桜-2
訪れたのは3月中旬だったので、今はもう花を散らしてしまっているかもしれません。

修学院離宮道を東へ進み、道入寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ