一の鳥居
圓通寺から東へ進むと「幡枝中通り」に突き当たり、左折して北上した
3つ目の四つ角を右折した先に幡枝八幡宮への石段があります。
石段脇の石碑
石段の脇に石碑のようなものがありますが、詳細は不明です。
山桜
石段は2段に分かれ、最初の石段を登った所は横に広い広場となっており、
左側には山桜の老木が御神木として祀られています。
井戸
次の石段の右側脇に井戸が残されています。
社伝によれば、寛平6年(894)に当地で地鳴りが起こり、
都の中心にまで及んだと伝わります。
当時、新羅国が日本に攻め入ろうとしているという噂が流れ、
里人に「皇都および人民守護のため、この地に鎮座する」との神託が下りました。
里人が地鳴りの中心地に行くと、清水が湧き出しているのが見つかりました。
時の第59代・宇多天皇は、その山の頂上に新宮を造営し、
男山から石清水八幡宮が勧請されて祀られるようになりました。
安永2年
「八幡の枝別れ」としてこの地は「幡枝」と称されましたが、
安永2年(1773)では「王子山八幡社」であったようです。

また、安土桃山時代の刀工・堀川国広(1531~1614)は、幡枝八幡宮に
刀鍛冶の道に秀でることを祈願し、慶長4年(1599)にこの清泉を用いて、
神前で一振りの太刀を鍛え、奉納しました。
後に第108代・後水尾天皇の希望でしばらく宮中に留め置かれ、
黄金作の鞘(さや)を御造りになり、唐子模様の御太刀袋に納めて
八幡宮へ戻されました。
現在は東京国立博物館に委託保存されています。

この湧水は「石清水」と呼ばれ、凡そ千年間は湧き続けていましたが、
近年の宅地開発等の影響を受け、現在は枯れてしまっています。
二の鳥居
石段を登ると二の鳥居が建っています。
針神社-鳥居
鳥居をくぐると正面は石段で、左側に針神社の鳥居が建っています。
磐座
正面の石段を登ると右側に社務所があり、その前に岩上社があります。
八幡宮が鎮座するこの山は、神奈備とされ、以前から磐座が祀られていました。
岩上社はこの磐座を御神体とし、周辺の産土神(うぶすなかみ)として
信仰を集めていました。
拝殿-1
左側に拝殿があります。
拝殿
拝殿の扁額は、石清水八幡宮の一の鳥居に掲げられているものが
写し取られています。
明治39年の絵馬
拝殿には明治39年(1906)に奉納された絵馬などが掲げられています。
太政官布告-1
慶応4年(1868)の太政官布告が残されています。
太政官布告-2
その2
太政官布告-3
その3
本殿と貴船神社
本殿
祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと) と
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)です。
誉田別命は第15代・応神天皇で、息長帯姫命(神功皇后)は応神天皇の母親です。
幡枝八幡宮は、皇室の勅願所として歴代の天皇からの寄進を受けました。
特に後水尾上皇は付近に幡枝離宮を造営されたことから、
約7反歩(たんぶ/1反=300坪)の御神田を寄進されました。
また、第116代・桃園天皇や第117代・後桜町天皇からは、現在も例祭で用いられる
菊の御紋入りの御輿・吹散(ふきちり)・御鉾などが寄進されました。

左側に摂社の貴船神社があります。
上賀茂神社の新宮神社深泥池貴船神社など、
この地周辺の根強い貴船信仰がうかがえます。
末社-東
本殿の右側に手前から、若宮八幡社・天照皇大神・春日大神・厄神社・野々宮社・
愛宕社・上高良社・下高良社・琴比羅社・多賀社を祀る社殿があります。
末社-西
境内の西側に、左から稲荷社・天満宮・宇賀大神・白山社を祀る社殿があります。
神輿庫
北側に神輿庫があります。
神輿の写真
毎年10月23日に近い日曜日に神輿巡幸が行われ、
当日の写真が境内に掲示されています。
針神社
左側に針神社があります。
創建については諸説あり、定かではありませんが、明治12年(1879)に現在地に
遷座し、昭和46年(1971)に改築されて現在の社殿となりました。
毎年12月8日に針供養が行われています。

妙満寺へ向かいます。
続く

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