山門
白山比咩神社の表参道の駐車場から県道179号線を北上し、
その先で右折して進んだ先に鶴来別院があります。
鶴来別院は浄土真宗大谷派の寺院で、本願寺第8代法主・蓮如上人
七男・蓮悟(れんご:1468~1543)が創建した清沢坊が始まりとされています。
蓮悟は、長享元年(1487)に本泉寺を河北郡若松荘(現在の石川県金沢市)に
移転すると、翌長享2年(1488)に長享の一揆が起こり、
加賀守護・富樫政親(とがし まさちか:1455~1488)が一向一揆勢力により
倒されました。
家督は大叔父・泰高に継がれましたが、実質的には蓮悟と
兄の蓮綱(れんこう:1450~1531)主導の「両御山」体制により
加賀の支配が行われました。

清沢坊には永正5年(1508)に実悟(1492~1584)が入りました。
実悟は蓮悟の異母弟で、幼少時代に蓮悟の養子となり、
文亀2年(1502)に得度しました。
永正2年(1505)に河内門徒が実悟の同母兄・実賢を法主に擁立しようとする陰謀が
発覚し、更に永正5年(1508)に蓮悟に実子が誕生したことから
蓮悟からも疎まれ、清沢坊へ移されました。
清沢坊はその後、本願寺から願得寺の寺号を許され、
石川郡の「御山」として郡内一円の門徒の結集の中核になりました。
実悟は教養人であり、多くの著書を残し、
日記に「百姓の持ちたる国のように成り行き候」と加賀一向一揆を記しました。

本願寺10代法主・証如の後見人蓮淳(れんじゅん:1464~1550)は、
法主による一門統制を強める政策を採りました。
その横暴ぶりに対して一族や地方の門徒が激しく反発するようになり、
享禄4年(1531)に大小一揆が勃発しました。
この騒乱により清沢願得寺は焼き討ちされ、実悟は蓮悟と共に破門され、
能登へと逃れました。
しかし、加賀は一向一揆の勢力により天正8年(1580)まで支配が続けられました。
本堂
本堂
その後、清沢願得寺は廃絶し、天文年間(1532~1555)に
大御坊惣道場が建立されました。
惣道場とは、村落全体の門徒の 総意により共同で維持運営される念仏聞法の道場で、
明治13年(1880)に「金沢別院鶴来支院」と公称するようになりました。
明治36年(1903)に金沢別院から独立して鶴来別院となりました。
明治32年(1899)に現在の本堂が8年の工期を経て再建され、
白山市指定建造物となっています。
鐘楼
鐘楼

金剱宮(きんけんぐう)へ向かいます。
続く

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