千本北大路の交差点の北東角に第70代・後冷泉天皇の火葬塚があります。
後冷泉天皇は第69代・後朱雀天皇の第一皇子で、
諱(いみな)を親仁(ちかひと)と称しました。
万寿2年(1025)に誕生し、その2日後に
生母の東宮妃・嬉子(きし/よしこ)が薨去しました。
藤原嬉子は摂政・藤原道長の六女で、寛仁5年(1021)に兄・頼通の養女となって
皇太弟・敦良親王(あつながしんのう=後朱雀天皇)に入内しました。
万寿2年(1025)に親仁親王を出産し、その2日後に19歳で薨去されました。
寛徳2年(1045)に病を患い父・後朱雀天皇から譲位され、
後冷泉天皇天皇として即位しました。
頼通の一人娘・皇后としましたが、子には恵まれず、治暦4年(1068)に
在位のまま崩御され、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない
後三条天皇が即位しました。
陵は、龍安寺の裏山・朱山七陵の圓教寺陵です。
千本北大路から北へ進み、直進して鷹峯街道を進むと、
左側に御土居跡があります。
御土居は豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、
外敵の来襲に備える防塁として、天正19年(1591)に築きました。
東は鴨川、北西部は紙屋川沿いで、氾濫から市街を守る堤防としても築かれ、
川は堀を兼ねていました。
土塁の内側は「洛中」、外側は「洛外」で、御土居が諸国との街道を横切る場所は
「口」と呼ばれ、「京の七口」として知られていますが、御土居の築造当時には
10箇所だったそうです。
御土居の北限は、現在地から賀茂川に架かる上賀茂神社への御園橋付近で、
当地には七口の一つ、長坂口がありました。
長坂を経て杉坂に至る丹波街道への登り口であり、古くからこの地に
しばしば関所が設けられ、重要視されてきました。
更に鷹峯街道を北進すると、右側に瑞芳寺があります。
瑞芳寺は宝永3年(1706)に日達(にちだつ)により創建され、現在は鴨川の東、
仁王門通りに面して建つ日蓮宗の本山・頂妙寺の管理下にあり、
瑞芳寺は非公開です。
境内には「了義院日達上人」の墓があります。
日達上人(1647~1747)は、華厳宗の鳳潭(ほうたん)、
天台宗の霊空と共に教界の三傑と称されました。
山門の左に題目が刻まれた標石が建っていますが、
その横に「常法華経堂 知足庵」と刻字されています。
本堂
元和元年(1615)に徳川家康から鷹峯の地を拝領した本阿弥光悦は、一族や町衆、
職人などの法華宗徒仲間を率いて移住しました。
本阿弥光悦とその養子・光嵯がこの地に建立した四ヶ寺の一寺が知足庵で、
光嵯の屋敷と隣接していたと伝わります。
知足庵は、徳川政権安泰の祈祷所でもあり、明暦年間(1655~1658)に
光悦の孫・光伝が知足庵に法華堂唱道場の「知足庵真浄堂」を建立しました。
明治12年(1879)に知足庵は瑞芳寺に併合されました。
瑞芳寺の先で鷹峯街道は丁字路となり、その北側に源光庵があります。
源光庵は正式には、鷹峰山寶樹林源光庵、山号を鷹峰山(ようほうざん)と号する
曹洞宗の寺院で、「復古禅林(ふっこぜんりん)」の別称があります。
源光庵は令和元年(2019)6月から令和3年(2021)秋までの予定で、
庫裡の改修工事が行われ、現在は拝観が停止されています。
そのため、画像は表からのものしかありません。
源光庵は貞和2年(1346)に臨済宗の本山・大徳寺の第2世・徹翁義享
(てっとう ぎきょう)によって創建されました。
徹翁義享は19歳で出家し、京都建仁寺の鏡堂覚円(きょうどう かくえん)や
南禅寺の約翁徳倹(やくおう とくけん)に参じましたが、五山の禅風にあきたらず、
東山の雲居寺(うんごじ)に隠棲していた宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)の
門下に入り、その法を嗣ぎました。
正中元年(1324)に宗峰妙超が大徳寺を創建すると、延元2年/建武4年(1337)に
徹翁義享は宗峰の後席を継いで大徳寺に入りました。
翌年、徹翁義享は自らの居所として大徳寺の境内に徳禅寺を開創し、
源光庵は隠居所であったとされ、当初は「復古堂」と呼ばれました。
応安2年/正平24年(1369)に徹翁義享が入寂後は源光庵は荒廃し、
元禄7年(1694)に、加賀・大乗寺27代・卍山道白(まんざんどうはく)
により再興され、曹洞宗に改宗されました。
その後、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で廃された寺が合併され、
今日に至ります。
表門から西へ進むと源光庵の駐車場があり、駐車場から東へ入った北側に
山門があります。
山門には「復古禅林」の扁額が掲げられています。
日本の曹洞宗は、宋に渡った道元が中国の曹洞宗を学び、嘉禄2年(1226)に
帰国して、自らの教えを「正伝の仏法」であるとして広めました。
臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに
対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まりました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)以降は衰退していき、
僧侶の俗化が進みました。
師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、
法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつありました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、
寺院の組織化と統制が加えられ、月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、
卍山道白(まんざんどうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)らの優れた人材が出て、
嗣法(しほう)の乱れの立て直しに取り組みました。
特に卍山道白は、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)
ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する
「宗統復古運動」を展開したことから「復古禅林」と称されるようになりました。
山門の手前には鐘楼があります。
現在の本堂は、卍山禅師に帰依した金沢の富商・中田静家の寄進によって
建立されました。
本尊は釈迦牟尼佛で、脇侍として阿難尊者・迦葉尊者像が安置されています。
一説では慶応4年(1868)に廃寺となった、北白川にあった心性寺の
本尊であったとも伝わります。
また、天和元年(1681)の春、卍山禅師が宇治田原の山中で感得した
霊芝(れいし)自然の観音像とされる霊芝観世音が祀られています。
第111代・御西天皇の崇敬が厚く、宮中で供養されたことから
「開運霊芝観世音」とも称されました。
天井には慶長5年(1600)に落城した伏見城の床板が張られ、
「血天井」と称されています。
慶長5年(1600)6月1日に徳川家康が会津征伐のために伏見から出立し、
家康の家臣・鳥居元忠らが城を守っていました。
大坂城では、7月17日に前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が、大坂城西の丸
にいた家康の留守居役を追放し、家康に対する13か条の弾劾状を発布しました。
追放された500人は伏見城に入り、城の防衛に当たりましたが、小早川秀秋、
島津義弘連合軍4万人の兵による攻撃を受け、8月1日に落城しました。
伏見城では2,300人の徳川軍が守備していましたが、
800人が討ち死にしたとされています。
また、宇治の興聖寺他、複数の寺に「血天井」が残されています。
本堂の丸窓と角窓は、「悟りの窓」と「迷いの窓」と呼ばれています。
迷いの窓の四角い形は、人間が誕生し、一生を終えるまで逃れることのできない
釈迦が説く「生」「老」「病」「死」の四苦への迷いを表しています。
悟りの窓の丸い形は、「禅と円通」の心が表されています。
ありのままの自然の姿、清らか、偏見のない姿、つまり悟りの境地を開くことが
でき、丸い形(円)は大宇宙を表現しています。
本堂裏の庭園は枯山水で、北山を借景としています。
本堂の北側に享保4年(1719)に建立された開山堂があり、
「復古堂」とも呼ばれています。
堂内には卍山禅師像が安置され、像の下には舎利が収められています。
境内の西の谷にある稚児井には伝説が残されています。
660年前に水飢饉が発生し、多くの村人が苦しんでいた際に、池に住む龍が
童子に化身して徹翁義享(てっとう ぎきょう)の夢枕に現れ、
西の谷から水が湧き出ることを告げました。
水が湧き出たことにより、多くの村人が救われたと伝わります。
源光庵の通りを挟んだ南側に遣迎院(けんごういん)があり、
「不断念仏 根本道場 遣迎院」の碑が建っています。
遣迎院には山号は無く、浄土真宗遣迎院派の本山で、
京都七福神・福禄寿の札所でもあります。
本堂
五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の一つ、九条家の祖であり、
かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある
九条兼実(くじょう かねざね)は、建久5年(1194)に自らの別邸である月輪殿
(つきのわどの)に快慶作の阿弥陀如来立像と釈迦如来立像を安置しました。
正治元年(1199)に兼実の孫・道家は証空を開山に招き、法性寺内にこの二尊を
本尊として遣迎院を創建したと伝わります。
後に天台・真言・律・浄土など四宗兼学の道場として栄えました。
宝治元年(1247)に証空は遣迎院で入寂され、三鈷寺で荼毘に付されました。
天正13年(1583)、豊臣秀吉が大仏殿を建立するに当たり、遣迎院の境内をその敷地と定
めたため、遣迎院は移転を余儀なくされました。
しかし、大仏殿の計画は中断され、結果的に遣迎院は二寺に
分断されることになりました。
一寺は当地にそのまま残され、「慈眼院」と改められましたがその後、遣迎院に
復し、浄土宗西山禅林寺派の寺として現存しています。
もう一方の寺は、廬山寺の南隣に移され天台宗の寺院となりましたが、
昭和30年(1955)に敷地を立命館大学に売却して現在地に移転し、
浄土真宗遣迎院派の本山となりました。
この地はある資産家の山荘で、備中高松城の遺構である長屋門は、
山荘時代に移築されました。
本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来立像と釈迦如来立像は鎌倉時代の
仏師・快慶の作で、国の重要文化財に指定されています。
阿弥陀如来像の胎内には、七二紙からなる結縁交名(けちえんきょうみょう)などが
納められ、その記事から建久5年(1194)頃に本像造像のために畿内を中心とした地域で
結縁勧進が行われたことが判明しました。
保元の乱から治承の乱に関係した物故者の名が多く見え、この造像の背景に
源平の争乱が深く関係していると推定されます。
本尊に阿弥陀如来と釈迦如来を安置するのは、二尊院に見られるように、
唐の時代に中国浄土教の僧・善導大師が広めた
「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」によるものとされています。
二河白道とは無人の原野に忽然として出くわした、北に水と南に火の河で、
その中間に一筋の白道がありますが、幅は狭く常に水と火が押し寄せている光景です。
人がその場所にさしかかると、後方や南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってきます。
河は深くて渡れず、思い切って白道を進もうとした時、東の岸より
「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣=はっけん)が、
また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がしました。
東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘います。
しかし、一心に疑いなく進むと西岸に到達します。
白道は浄土往生を願う清浄の信心を意味し、東岸の声は娑婆世界における
釈尊の発遣(=浄土に往生せよと勧めること)の教法、西岸の声は浄土の
阿弥陀仏の本願の招喚(=浄土へ来たれと招き喚(よ)ぶこと)に喩えられています。
また、火の河は衆生の瞋憎(しんぞう=怒りと憎しみ)、
水の河は貪愛(とんない=むさぼり愛着する心)、
無人の原野は真の善知識に遇わないことの喩えです。
群賊は別解・別行(べつげべつぎょう=別の見解と別の行法をする者)、
異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊(ごうん)・
四大(しだい)に喩えられています。
この「発遣」と「招喚=迎える」が「遣迎院」の由来となりました。
東へ進み常照寺へ向かいます。
続く
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