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寺号標
観音寺から北西方向へ、バイクで5分余りの距離に長楽寺があります。
山号を「大藤山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
和銅6年(713)に慈心上人の開基と伝わります。
当初は真言密教の道場でしたが、第80代・高倉天皇(在位:1168~1180)の
勅命により、延命子安地蔵尊が安置されると安産祈願で厚く信仰され、
また歴代の勅願所として栄えました。
しかし、天正6年(1578)の兵火によって灰燼に帰し、唯一本尊のみが難を逃れました。
寛文年間(1661~1672)に專空念教法師により常行念仏堂が建立され、
宝永3年(1706)に現在の長楽寺が再興されました。
以来、浄土宗西山禅林寺派に属し、今日に至ります。
本堂跡
本堂は平成23年(2011)9月4日の台風12号による豪雨で、2度にわたり発生した
大藤山の土砂崩れで、本堂を始め堂宇にほとんどが土砂に飲み込まれました。
現在は本堂再建のための募金が行われていました。
鐘楼
手水舎と鐘楼は無事だったようです。
天正7年(1579)に梵鐘は当時の住職により、大藤山の裏の「蛇が池」に
沈められたと伝わります。
羽柴秀吉(1537~1598)が神吉城を攻めた際に住職が羽柴勢にかぶら矢を放った
ことから、長楽寺へ討手を差し向けられ、寺は焼かれましたが、
住職は本尊と釣り鐘を背負って大藤山を超えて北へ逃げ、釣り鐘を池に沈めて
本尊を抱いて姿を隠したとの伝承が残されています。
収蔵庫
また、収蔵庫(地蔵堂)に納められていた本尊の延命子安地蔵尊も難を逃れました。
治承2年(1178)、高倉天皇の中宮・建礼門院(1155~1214)は丹波老ノ坂峠
子安地蔵尊に安産祈願をされ、無事に第81代・安徳天皇(在位:1180~1185)を
出産されました。
この喜びを分かつため、これと同体の地蔵尊を国内のそれぞれの一国に安置し、
その一体がこの地蔵尊とされています。
像高71.7cmの坐像で、光背と台座は後世の補作ですが、
国の重要文化財に指定されています。
十三重層塔の一部
境内には石造物が残されています。
現在、地蔵菩薩の台座となっているのは、十三重層塔の一部と考えられるもので、
鎌倉時代(1185~1333)中期の形式を示し、基礎部高40.2cm、笠部高31.2cmです。
復元すると総高は570cmとなり、十九尺塔として造立されたと推定されています。
石幢の塔身部分
石幢(せきどう)の塔身部分は、室町時代(1336~1573)後期の作と推定され、
高さは27.5cm、六角形の各部の幅は上部で10.9cm、下部で12.3cm、
二重光背形輪郭の中に六地蔵の立像が刻まれています。
構の石棺
構(かまえ)の石棺
古墳時代後期の6~7世紀のもので、長さ115cm、幅57cm、厚さは15cmです。
石棺の蓋石のように思われます。
駒の蹄と投げ松-1
長楽寺から北東方向へ、バイクで10分余り走ると
「駒の蹄(つめ)と投げ松」が祀られています。
駒の蹄と投げ松-2
建物内の大きくうねった松は、インドから渡来した法道仙人が、
法華山一乗寺から放り投げたと伝えられています。
因みに法華山一乗寺から当地まで、直線距離で2.5kmほど離れています。
法道仙人はインドから紫の雲に乗って飛来したと伝わりますので、
この松も神通力でこの地まで飛ばされたのかもしれません。
駒の蹄跡の碑
県道43号線まで戻り、少し北上すると、右側に「法道仙人 駒の蹄(つめ)跡」の
碑が建っています。
駒の蹄跡
碑の前の岩に馬で空を駆けた仙人がこの場所に降りた時についたとされている
馬の蹄(ひづめ)の跡が残されていますが、不鮮明です。

法華山一乗寺へ向かいます。
続く
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参道
大谷祖廟の北門を出た直ぐ東が長楽寺への参道となります。
「ねねの道」の雑踏からは信じられないくらい閑静な参道です。
三門
山門
長楽寺は山号を「黄台山(おうだいさん)」と号する時宗・遊行派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第7番札所です。
遊行派は、一遍上人(1239~1289)を開祖とする時宗の主流派です。
客殿
山門をくぐると庫裡があり、拝観受付が行われています。
庫裡の先に客殿があります。
池
客殿の庭園は相阿弥(?~1525)の作と伝わります。
相阿弥は祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、8代将軍・
義政(在職:1449~1474)の命により、慈照寺(銀閣寺)庭園の試作として
造園されたと伝わります。
滝組
池の奥に滝が組まれているのですが、水はほとんど流れておらず、
「八功徳水」と呼ばれる名水のはずが、薄氷が張ったように
どんよりと曇ったように見えます。
池と茶室
池の右奥には茶室があります。
本堂
客殿を出て石段を登った所に本堂があります。
現在の本堂は明治19年(1886)に焼失したため、西賀茂にある正伝寺
仏殿が移築されたもので、京都市の有形文化財に指定されています。
正伝寺の仏殿は、江戸時代の寛文6年(1666)に造営され、
明治23年(1890)に長楽寺に移築されました。

本尊は准胝観音(じゅんていかんのん)で、
最澄(766もしくは767~822)の作と伝わります。
最澄が入唐の際に暴風で船が難破しかけ、最澄が船中で除難を祈願したところ、
頭に准胝観音を載せた二頭の龍神が示現し、風波を治めたと伝わります。
延歴24年(805)に唐より帰国した最澄は、同年、第50代・桓武天皇(在位:781~806)の
勅命により長楽寺を創建し、最澄が示現した准胝観音を自ら刻み、本尊としました。
唐の長楽寺が建つ風景と似ていたことから、長楽寺の寺名となったと伝わります。
延暦7年(788)に最澄が創建した比叡山寺が、弘仁14年(823)に第52代・嵯峨天皇
(在位:809~823)から延暦寺の寺号を賜り、長楽寺はその別院となり、
当初は天台宗の寺院でした。

鎌倉時代の建久5年(1194)に延暦寺で天台教学を学んでいた隆寛律師(1148~1228)は
比叡山から下って長楽寺に住し、長楽寺を浄土宗へ改めました。
南北朝時代の元中2年/至徳2年(1385)、当時の住職だった栄尊(生没年不詳)は
寺を国阿上人に譲ってその弟子となりました。
長楽寺は時宗に改宗され、時宗霊山派になりました。

室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1477)で長楽寺は焼失しました。
その後再建され、豊臣秀吉(1537~1598)からは寺地の寄進も受けますが、江戸時代の
寛文10年(1670)に大谷祖廟の造営の際に、幕命により境内が割譲されました。
文化年中(1804~1818)に再び浄土宗に改宗され、明治時代になると
境内の大半が円山公園に編入されました。
明治3年(1870)に再び時宗に改宗され、七条道場金光寺の末寺となりましたが、
金光寺の衰退により、長楽寺に合併され、
山号を「東山」から「黄台山」へと改められました。
鐘楼
本堂の右側に鐘楼があります。
記録では明和5年(1768)に楽阿(生没年不詳)によって鐘楼が建立され、
前住職・与阿(生没年不詳)の遺志により梵鐘が鋳造されたとあります。
梵鐘
しかし、梵鐘は戦時供出され、昭和31年(1956)に再鋳されました。
十三重石塔
本堂の右奥に建礼門院(1155~1214)の御塔が建立されています。
文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで第81代・安徳天皇(在位:1180~1185と共に
海に飛び込んだ建礼門院は、ただ一人源氏軍の武将・渡辺昵(わたなべ むつる:
生没年不詳)に救助されました。
建礼門院は京都へ護送され、侍女の阿波内侍(生没年不詳)と共に長楽寺で出家し、
「直如覚」と名乗りました。
平家物語には、以下のように記されています。
「かくて女院は文治元年五月一日 御ぐしおろさせた給ひけり。 
御戒の師には長楽寺の阿証房の上人印誓とぞきこえし。 
御布施には、先帝の御直衣なり。」 
この十三重石塔は建礼門院の御髪塔と伝わります。
かっては、背後の山腹にある八丁台の景勝地に建っていましたが、
明治初年この地が国有地になった為、現在地に移されました。
背後の長楽寺山もかっては長楽寺の境内でしたが、明治の上知令で
境内地8400坪の内、5400坪が失われました。
建礼門院はその後、吉田の地で隠棲していたのですが、
その年京都に大地震が発生し、吉田の坊も被害を受けたとみられ、
大原の寂光院へ移り、建保元年(1213)に夫・高倉天皇と壇ノ浦で滅亡した平家一門と、
我が子・安徳天皇の菩提を弔いながら、生涯を閉じました。
滝
十三重石塔の奥の方に平安の滝があります。
落飾した建礼門院や法然上人の高弟・隆寛律師(1148~1228)等も
この滝で修行されたと伝わります。
滝の石組には8躯の石仏の他、周囲には無数の石仏が祀られています。
これらの石仏が平安時代のものとされていることから「平安の滝」と称されています。
収蔵庫
滝から奥へと進んで行くと収蔵庫があります。
収蔵庫は平成20年(2008)5月に火災によりほぼ全焼しましたが、
全ての文化財は住職らによって運び出され、難を逃れました。
現在の収蔵庫は翌年9月に再建されました。
収蔵庫に安置されている時宗祖師像7躯は、七条道場金光寺から
遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
金光寺は正安3年(1301)に仏師・運慶の三男・康弁(生没年不詳)が自らの宅地を
真教上人(1237~1319)に寄進した事に始まると伝わります。
金光寺に残されていた代々の祖師像は、いずれも七条仏所の仏師によって
制作されました。
石灯籠
収蔵庫の前に正保3年(1646)に七条仏所の仏師・法眼康音(生没年不詳)から奉納された
金光寺の石灯籠が建っています。
外史橋
収蔵庫から更に山手へ登り、外史橋があります。
橋の手前を右へ登って行くと「尊攘苑」と名付けられた水戸藩氏の
墓地がありますが、時間の都合で割愛しました。
頼山陽の墓
渡った先に頼山陽(1781~1832)の墓所があります。
頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で、
安永9年12月27日(1781年1月21日)に大坂で生まれました。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えました。
文化8年(1811)から京都、洛中に居を構え、
天保3年(1832)に53歳で亡くなりました。

安養寺へ向かいます。
続く
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鯉のぼり
自宅を5:30に発ち、国道9号線から県道4号線に入って進んだ先で、
左側を流れる矢田川に鯉のぼりが渡されていました。
長楽寺
山側には東大寺・大仏殿に似た建物と、
日本第二位の高さを誇る70mの五重塔が建立されています。
長楽寺は「但馬大仏」とも呼ばれていますが、奈良時代の天平年間(729~749)に
行基がこの地に足を留め、自ら一刀三拝して薬師如来像を刻み、
安置したことが始まりとされています。
天平9年(737)には六坊及び三重塔の七堂伽藍が創建され、八鹿山薬師寺と称しました。
延暦年間には弘法大師も訪れたと伝わる由緒ある古刹です。
天文年間(1532~1555)に洪水災害によって流失し、天文11年(1543)に現在地で再建され、
川会山長楽寺と改められました。
しかし、江戸時代から明治時代までの度重なる火災により、古建築と文化財の大半は焼失しました。
昭和61年(1986)に大阪の相互タクシー株式会社の創業者で「タクシー王」と呼ばれた
故・多田清氏の寄進により、現在の伽藍が着工されることになりました。
大仏殿は高さ40mの重層寄棟造りで、屋根には対の鴟尾(しび)が光り輝いています。
この鴟尾は高さ2.7m、重さが1.1tあり、1.8万枚の金箔が貼られています。
大仏殿の中央には、木造座像としては世界最大の像高15.8mで、
光背と須彌壇と蓮座で総高は25.3mにもなる釈迦如来坐像が安置されています。
中尊の左側には像高15.2mの阿弥陀如来坐像、
右側には像高15.2mの薬師如来坐像が安置されています。
これらの三躯の仏像は中国人仏師延べ2万人余りが、3年の歳月をかけて製作し、
日本に運ばれ大仏殿で組み立てられました。
樟材の寄せ木作りに、金箔132万枚(21.8kg)が使用され、
平成6年(1994)4月に落慶開眼されました。

大仏殿の北側には本堂(薬師堂)があり、薬師瑠璃光如来像が安置されていますが、
7年ごとに10日間だけ開扉される秘仏とされています。
但し、行基が刻んだとされる薬師如来像は焼失したそうです。

大門には像高8.2m、重量9.5tの阿形像と像高8.4m、重量10tの吽形像が安置されています。
大門と大仏殿は、直径42cmの欅の柱と桧で軒、天井が作られた回廊で結ばれ、
その長さは100m近くにも及びます。
開門は午前9時からで、30分以上待たなければならないので
最初の目的地である大乗寺へ向かうことにしました。
山門
大乗寺は山号を亀居山と号する高野山真言宗の寺院で、
西国薬師四十九霊場・第28番札所となっています。
江戸中期の画家・円山応挙やその一門の画家たちの襖絵など、重要文化財に指定されている
165点が残され通称で「応挙寺」と呼ばれています。
駐車場からは石段があり、その上にある山門は兵庫県の文化財に指定されています。
客殿
山門をくぐった正面に客殿があり、県の文化財に指定されています。
大乗寺は天平17年(745)に行基が自ら一刀三拝して聖観世音菩薩像を刻み、
安置したことが始まりとされています。
その後、戦乱を受け寺勢は衰退し、安永年間(1772~1781)になって密蔵法印により再興されました。
円山応挙像
大玄関には円山応挙像が祀られています。
円山応挙は享保18年(1733)に穴太寺がある、穴太村の農家の次男として生まれました。
生い立ちについての詳細はこちらをご覧ください。

水嶋 元(はじめ)氏の著書「円山応挙伝 報恩の画」によると、
密蔵法印は京都東寺に向かう途中、絵師になる志を持ち裸一貫で
京に上ろうとする応挙と出会い、金銭を与え励ましたと記されています。

応挙は明和3年(1766)頃から「応挙」と名乗り始めました。
中国宋末~元初の画家・銭舜挙(せん しゅんきょ)に応ずるという
意味が込められているとされています。
この頃、圓満院の祐常(ゆうじょう)門主や豪商・三井家の援助を受け、
圓満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出しました。

天明6年(1786)に密蔵法印が亡くなり、翌年、後を継いで再建に乗り出した
密英上人が京都に出かけ、応挙に襖絵製作を依頼しました。
客殿は中央に仏間があり、十一面観音立像が安置され、その周囲の部屋には
四天王が守護するのと同様の意味を持たせた図が描かれて
立体曼荼羅の空間が形成されています。
また、オリジナルの襖絵保護のため、一部が平成15年(2003)5月に竣工した
収蔵庫で保管され、再製画に置き換えられています。
楠の根
客殿前の楠木は樹齢1200年と伝わりますが、根の部分だけ撮って、
木そのものを撮るのを忘れました。
欅の巨木
山門をくぐった左側には欅の巨木が聳えています。
鐘楼
客殿前を左に進み石段を上った左側に鐘楼があります。
薬師堂
鐘楼先の石段を上った所に瑠璃光殿の扁額が掲げられた薬師堂があります。
薬師堂-本尊
瑠璃光殿の本尊・薬師如来坐像は西国薬師四十九霊場・第28番札所本尊でもあり、
県の文化財に指定されています。
鎮守社-1
鎮守社-2
薬師堂と観音堂の間にある石段を上った所に鎮守社があります。
観音堂
薬師堂の右側に観音堂があり、「大悲殿」の扁額が掲げられています。
観音堂には聖観世音菩薩立像、四天王立像が安置され、聖観世音菩薩立像は
国の重要文化財、四天王立像は県の文化財に指定されています。
地蔵堂-1
地蔵堂-2
観音堂の奥に地蔵像があり、水子地蔵尊が祀られています。

客殿の右側にある庫裡から客殿の拝観ができますが、室内の撮影は禁止されています。
拝観料は800円で、ガイドの説明があり、所要時間は約40分です。

山陰海岸国立公園内にあり、国の名称に指定されている岡見公園へ向かいます。
続く

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