タグ:関西花の寺二十五霊場

仁王門
尾上神社から北東方向へ、徒歩20分余りの距離に鶴林寺があります。
山号を「刀田山(とたさん)」と号する天台宗の寺院で、
新西国霊場・第27番、西国薬師四十九霊場・第22番、聖徳太子霊跡・第27番、
関西花の寺二十五霊場・第9番などの札所です。
仁王門前には「聖徳太子霊跡」と刻まれた石柱が建ち、
聖徳太子(574~622)により創建されたと伝えられています。
太子は、蘇我氏と物部氏の争いを避け、播磨の地に身を隠していた
高麗出身の僧・恵便(えべん:生没年不詳)の教えを受けるために播磨へ訪れ、
後の崇峻天皇2年(589)に秦河勝(はた の かわかつ:生没年不詳)に
3間4面の精舎を建立させ、「刀田山四天王聖霊院」と名付けられたのが
鶴林寺の始まりとされています。

養老2年(718)に武蔵国の大目(だいさかん=国司の一役職)・身人部春則
(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が太子の遺徳を顕彰するため、
七堂伽藍を建立しました。
その後、慈覚大師・円仁(794~864)が最後の遣唐使として唐へ留学する際、
鶴林寺へ立ち寄り、立願成就のために諸堂の修理を行い、
以後天台宗の寺院となりましたが、
貞観10年(868)に起こった播磨地震で倒壊しました。
その後再建され、天永3年(1112)に第74代・鳥羽天皇(在位:1107~1123)から
勅額を賜り、「鶴林寺」と寺号が改められ、勅願所に定められました。

鎌倉時代から室町時代は太子信仰の高まりとともに隆盛し、
寺坊30数カ坊、寺領25.000石、楽人数十名が常に舞楽を奏していたと伝わります。
戦国時代(1467~1590)になって戦さに巻き込まれるようになりますが、
黒田職隆(くろだ もとたか:1524~1585)・
黒田孝高(くろだ よしたか:1546~1604/通称:官兵衛)親子の説得により
織田信長(1534~1582)派となって戦火を免れ、
室町時代の建物が多数現存しています。
現在の仁王門もその一つで、室町時代に建立された三間一戸の楼門形式で、
江戸時代末期に大修理、改造されたものと推定され、
兵庫県の文化財に指定されています。
江戸時代に入ると次第に衰微し、塔頭8箇坊、寺領117石にまで落ち込み、
更に、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、塔頭は宝生院、浄心院、真光院の
3箇寺のみとなりました。
仁王像-吽形
仁王像-吽形像
造立された年代は不明ですが、歴史を感じさせます。
仁王像-阿形
阿形像
拝観料は500円、宝物館への入館料500円ですが、セットにすると
800円に割引されます。
菩提樹と沙羅双樹
門をくぐった正面に本堂があります。
本堂前の左側に菩提樹、右側に沙羅双樹の木が植栽されています。
釈迦入滅の際、周囲に茂っていた沙羅双樹が枯れ、
こずえが鶴が飛ぶような姿になったとされ、
鶴林寺の寺号の由来となりました。
沙羅双樹は耐寒性が弱く、日本で育てるには温室が必要なため、
別種のツバキ科のナツツバキが植えられ、「沙羅(シャラ)」と呼ばれています。
鶴林寺もこの木が植えられています。
本堂
現在の本堂は、棟札から室町時代の応永4年(1397)に建立されたことが判明し、
国宝に指定されています。
本尊は平安時代作の薬師三尊像ですが、秘仏とされています。
太子堂
本堂の右斜め前方に三重石塔が建ち、
その奥に平安時代の天永3年(1112)に建立された太子堂があります。
兵庫県最古の建物で、国宝に指定されています。
天台宗の伽藍配置では、常行堂と対を成す「法華堂」だったと考えられています。
堂内の東側壁画に聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれていますが、
その壁画は中世から厨子で覆われて秘仏扱いとされ、
現在は国の重要文化財に指定されています。

本尊は、釈迦三尊像で、中尊の釈迦如来坐像は像高45.5cm、
平安時代後期の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
堂内には、平安時代に描かれた来迎壁、九品来迎図、仏涅槃図が残されていますが、
黒ずんでいて肉眼では図柄が確認できないそうです。
常行堂
本堂の左斜め前方に、平安時代に建立され、
国の重要文化財に指定されている常行堂があります。
元は檜皮葺でしたが、室町時代後期の永禄9年(1566)に瓦屋根に葺き替えられました。
常行堂は、正式には常行三昧堂と云い、本尊である阿弥陀如来像の周囲を、
阿弥陀仏を思いながら念仏を唱えて何十日も歩き続ける
厳しい修行が行われていました。
常行堂は、かなり格式のある天台宗寺院にしか存在せず、その遺構として、
鶴林寺の常行堂は、日本最古のものです。
三重塔
常行堂の南側に室町時代に建立された三重塔があります。
江戸時代の文政年間(1818~30)に大修理が行われ、
初層はほとんど新材で補修されました。
相輪は昭和25年(1950)に改鋳されました。
昭和51年(1976)に放火により内部を焼損しましたが、昭和55年(1980)に
解体復元修理が行われ、現在は兵庫県の文化財に指定されています。
心柱は二層目で止まり、初重の四天柱内に須弥壇が築かれ、壇上には本尊として
大日如来坐像が安置されています。
経蔵
三重塔の左奥に経蔵があり、その左側には鳥居が建っています。
石碑-1
経蔵の右側に石碑が立っています。
石碑-2
碑には地蔵菩薩が並んで現れて来る図が刻まれ、
右側に「現在未来夫人衆 吾今慇勤附嘱汝」、
左側に「以大神通方便力 勿令堕在諸悪趣」と、
「地蔵菩薩本願経」から引用されている文が刻字されていますが、
意味は理解できていません。
行者堂
鳥居の先には行者堂があります。
室町時代の応永13年(1406)に鎮守社の日吉神社として建立されましたが、
明治以降に神変大菩薩(役行者)を祀る行者堂となりました。
前面は春日造り、背面は入母屋造りで、こうした建物では最古級とされ、
国の重要文化財に指定されています。
毎年3月23日には前庭で護摩供が行われています。
新薬師堂
行者堂の右側に茶屋があり、茶屋を通り過ぎた先に新薬師堂があります。
江戸時代の中期、大坂から鶴林寺へ薬師詣でに訪れた医師・津田三碩は、
本尊の薬師如来が60年に一度しか開帳されない秘仏であったため、
目のあたりに拝むことができませんでした。
三碩は「いつでも拝める薬師様を」と、新薬師堂の建立を発願しました。
延宝7年(1679)に新薬師堂が落慶し、本尊の開眼供養が行われましたが、
三磧はこの日を待たず他界されていました。
安置されている仏像の背面から製作者と発願者である津田三碩の名が書付で
残されてはいますが、江戸時代よりもっと古い仏像ではないか...?
との疑問も残されています。
新薬師堂-堂内-薬師如来
堂内には鶴林寺の本尊よりも大きい薬師如来坐像と
日光・月光両菩薩像が脇侍として安置されています。
新薬師堂-堂内-十二神将像-1
周囲には十二神将像が安置されています。
新薬師堂-堂内-十二神将像-2
その2(右側)
新薬師堂-堂内-摩虎羅大将像
左奥の摩虎羅(まこら)大将像はウィンクする仏像として有名になりました。
講堂
新薬師堂の右側にある講堂は、研修道場となっています。
特攻隊慰霊碑
講堂の裏側には特攻隊の慰霊碑が建立されています。
この碑はかって、加古川町寺家町の中村家旅館の前に建立されていました。
中村家旅館は、陸軍の指定旅館で加古川教育飛行隊で編成された
特攻隊員が宿泊されたそうです。
聖徳太子十二歳像
講堂の先、正面に塔頭の浄心院があり、
塀の前には聖徳太子十二歳像が祀られています。
不開の門跡
12歳の聖徳太子は、恵便法師の教えを受けるためにこの地を訪れました。
太子は恵便法師を木の丸殿に招き、仏教の修学に励まれたとされていますが、
木の丸殿の門がここにあったと伝わり、「不開(あかず)の門跡」と呼ばれています。
浄心院
浄心院は境内の西端に在ることから通称「西の寺」と呼ばれています。
かって、木の丸殿があったとされていますが、江戸時代中期に全焼し、
草創よりの歴史は不詳となっています。
地蔵堂
浄心院の前に地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
堂内には子安地蔵尊が祀られています。
宝生院
浄心院の東側に隣接する宝生院は、古くから鶴林寺塔頭の一つで、
古文書では16世紀初頭には「宝生坊」、17世紀中頃には「玉泉坊室宝生院」と
記されていました。
16世紀末、鶴林寺は真言宗に改宗を強いられていましたが、万治3年(1660)に
再び天台宗に戻し、中興した良盛法印が住しました。
江戸時代末期では鶴林寺塔頭八院中の一つでしたが、明治にかけて荒廃し、
一時加古郡高等小学校の教室、職員室にも流用されていました。
その後、豪盛法印によって改修、整備が行われました。
真光院
宝生院の東側に隣接する真光院は、永正12年(1515)の『鶴林寺料田惣目録』に、
二十数ヶ坊のうち「奥の坊」として記録されるのが前身で、
江戸時代以降に鶴林寺八院中「真光院」の名称で記載されるようになりました。
現在は境内の東端にあり、「東の寺」と呼ばれています。
放生池
真光院の前方に放生池がありますが、蓮の葉で覆われています。
きれいな花を咲かせ、葉の上で亀が甲羅干しをしています。
弁財天社
池の中には弁財天社があり、池の背後には宝物館があります。
護摩堂
池の前方に護摩堂があります。
室町時代の永禄6年(1563)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
三間四面、本瓦葺の均整のとれた小堂で、外部は和洋、
内部は禅宗様の折衷様式となっています。
本尊は不動明王で、堂内の中央には護摩壇があります。
観音堂
護摩堂の西側に観音堂があります。
江戸時代の宝永2年(1705)に、姫路藩主・榊原政邦(1675~1726)の寄進により
再建されました。
元来、「愛太子観音」と呼ばれる白鳳時代(645~710)の聖観音菩薩像が
祀られていましたが、明治の神仏分離令後に浜の宮神社の本地仏であった、
現本尊の聖観音菩薩像が安置されるようになりました。
白鳳時代の聖観音菩薩像は、現在は宝物館で保存され、現本尊は秘仏とされ、
厨子前に御前立の聖観音菩薩像、須弥壇の右側に善光寺如来像が安置されています。
法華一石一字塔-1
観音堂の西側に法華一石一字塔があります。
江戸時代の明和8年(1771)に建立された供養塔で、法華経の文字を一つの石に
一字づつ書いて千部収め、読誦して回向し三界万霊の菩提を弔ったものです。
右側には加古川観光大使・女子プロゴルファーの
ささきしょうこさんの写真が立てられていました。
法華一石一字塔-マニ車
法華一石一字塔の裏側に回るとマニ車があります。
「ふりきり石」と記され、「インドの陀羅尼が彫られていて、この石に念じ、
回すことで心にある邪念を振り落とし、新たな自分に生まれ変わる」と
解説されています。
また、「願いを叶える効果あり、回すことでより良い未来に自分を向かわせる
功徳がある」とも記載されています。
鐘楼
法華一石一字塔の北西側に鐘楼があります。
室町時代の応永14年(1407)に建立され、
梵鐘と共に国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は約千年前の高麗時代に鋳造された朝鮮鐘で、「黄鐘調(おうじきちょう)」と
呼ばれる音色を持つ名鐘とされています。
宝篋印塔
鐘楼の南側に宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔-石風呂
宝篋印塔の前に石風呂があります。
湯浴みするための浴槽で、長さ128cm、幅67cm、
現状で高さ31cmの大きさがあります。
仏足石-1
仏足石-2
境内の南側には仏足石が祀られています。

泊神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

摩耶ケーブル駅
阪急神戸線の「王子公園」駅から北へ、徒歩20分余りで
摩耶ケーブル駅に到着しました。
摩耶ケーブル駅-2
大正14年(1925)に摩耶鋼索鉄道によって開業され、標高約450mの虹の駅まで
直線距離0.9kmを5分で結び、20分間隔で運転されています。
但し、祝日と夏季を除き毎週火曜日は終日運休されています。
摩耶ロープウェー
虹の駅から2分ほど歩き、摩耶ロープウェー乗り場へ向かいます。
昭和30年(1955)に開業し、ロープの延長は856.56mで、高低差は222.23mです。
ロープウェー
標高461.60mの虹の駅から標高682.58mの星の駅間を5分で結び、
20分間隔で運転されています。
ケーブルとロープウェーの往復運賃は1,560円で、
当日は片道を利用しました。
運賃は900円ですが、70歳以上は高齢者割引で720円に割引されます。
掬星台
星の駅付近は「掬星台(きくせいだい)」と呼ばれる公園で、
展望デッキなどがあります。
「手で星を掬(すく)える」ほど夜景が美しく、北海道の函館山、
長崎県の稲佐山と共に日本三大夜景の一つに選定されています。
どこでもドア
なぜか、「どこでもドア」のようなものが設置されていました。
神戸で活躍する職人と新進気鋭のクリエーターが手掛けたドアが
フォトスポットとして設置されていたようです。
展望デッキ
展望デッキからは、眼下にポートアイランドや神戸空港、
左側には関西空港などが望めます。
西山門
忉利天上寺へは奥播磨ドライブウェイからも通じていますが、
二輪車の通行は禁止されています。
その道路に面し、西山門があります。
星の駅からは徒歩約10分の距離です。
忉利天上寺は山号を「佛母摩耶山」と号する摩耶山真言宗の総本山で、
神仏霊場・第69番、新西国霊場・第22番、関西花の寺二十五霊場・第10番、
摂津三十三ヶ所観音霊場・第4番などの札所です。

大化2年(646)に第36代・孝徳天皇(在位:645~654)の勅願により
インドから渡来した法道仙人により創建されました。
後に留学先の唐から帰国した空海(774~835)が梁(りょう)の武帝(464~549)自作の
摩耶夫人尊像を持ち帰り、当寺に奉安されました。
摩耶夫人(まや-ふじん/ぶにん)は釈迦の生母で、釈迦の出産した7日後に没し、
忉利天に転生したと伝えられています。
忉利天は須弥山(しゅみせん)の頂上にあって、帝釈天をはじめ、
33の天部や神々が住むとされています。
以来、「仏母摩耶山(略して摩耶山)」、「忉利天上寺(略して天上寺)」と
号し、この山も「摩耶山」と呼ばれるようになりました。
天竺堂
参道を進むと天竺堂があります。
昭和51年(1976)に天上寺が不慮の大火で全焼した際、関西に住まわれている
多くのインドの方々が、インドとゆかりの深い当寺の焼失を悲しみ、
復興の一助として寄進されました。
天竺堂-摩耶夫人像
堂内には、インドから贈られた大理石造りの摩耶夫人像が安置されています。
摩耶之碑
軍艦・摩耶之碑
巡洋艦・摩耶は、昭和7年(1932)に神戸の川崎造船所で完成しましたが、
昭和19年(1944)にパラワン島沖で潜水艦の魚雷にて沈没しました。
山門
石段を登って行くと伽藍正面の山門があり、その右側に第65代・花山天皇
(在位:984~986)、左側に第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう/
在位:1557~1586)の勅願所の碑が建っています。
かってのは現在地より南の「星の駅」から少し下った所にあって
最盛期には多くの塔頭、僧坊を抱え、約3,000人の僧を擁する
摂津地方第一の大寺だったと伝わります。
「大慈悲の御山」と崇められ、宗派を超えて皇族や貴族、諸国の大名や武将、
文人墨客など、広く信仰されていました。
江戸時代(1603~1868)には第3代将軍・徳川家光(在職:1623~1651)により、
摂津国の鎮護寺(護国寺)に選定され、紀州徳川家が将軍家の代参役を務めました。
このことから天上寺の紋は、天皇家より賜った五七の桐紋と徳川家より賜った
三葉葵紋を合わせた二種紋となっています。
昭和51年(1976)1月30日未明、賽銭泥棒による放火のため仁王門など一部の建物を
残して全焼し、その後、天上寺創建の地・元摩耶である現在地で再建されました。
金輪堂
門を入った右側に金輪堂があります。
全国的にも珍しく一字金輪が本尊として祀られています。
密教の世界で宇宙の真理を表し、全ての仏の中心に位置づけられるのは
大日如来ですが、その中でも最高位にあたるとされるのが一字金輪です。
併設されている授戒堂には四面大日如来と八日大師が、
永代位牌堂には阿弥陀如来が祀られています。
鐘楼
左側に鐘楼があります。
梵鐘は四季に咲く33種の花々が鋳込まれ、「華曼荼羅の鐘」と称されています。
延命地蔵菩薩像
右側には延命地蔵菩薩像が祀られています。
摩耶夫人堂
参道の正面には摩耶夫人堂があります。
全国で唯一、摩耶夫人を祀る堂で、昭和51年(1976)の火災で焼失したため
新造された極彩色で等身大の仏母摩耶夫人尊像と梵天・帝釈天像が安置されています。
その前の石庭は「摩耶創生之庭」と称され、摩耶夫人が昇天された忉利天の世界と
天上界が象徴されています。
金堂
左側の金堂には十一面観世音菩薩が本尊として祀られています。
十一面観世音菩薩は、法道仙人が中国を経て我国に伝えた一寸八分(約6 cm)の
黄金像で、大阪湾一円および摩耶山の四周に開けた諸国(摂津・播磨・河内・和泉・
淡路等)の守護仏とされました。
秘仏とされ、三十三年に一度開帳されます。
仙人来朝之庭
その前の石庭は「仙人来朝之庭」と称され、法道仙人が天竺より渡来し、
摩耶山を開創したことをモチーフとしています。
権現社
金堂の右側の権現社には、伽藍神の釈帝権現が祀られています。
おめでた蛙
「仙人来朝之庭」の西側に「おめでた蛙」が祀られています。
「われこそは摩耶のおめでた蛙なるぞ  なでてみな 家内しあわせ
 子ら孫らすこやか 万万歳なるぞ!」と記されています。
地蔵菩薩像
右側には地蔵菩薩像や多数の石仏が祀られています。
法道仙人像
先へ進むと法道仙人像が祀られています。
法道仙人はインドの仙人で、仏法を弘めるため中国へ渡られましたが、
既に中国では仏教が隆盛で、朝鮮半島を経由し、日本へ渡来しました。
中国の西明寺道宣律師(どうせんりっし:596~667)から
釈迦感成(かんじょう)の秘仏・十一面観世音菩薩の黄金仏を授かり、
難波の浦に上陸されました。
大阪此花区の伝法島は、一説では法道仙人が仏法を伝えるために上陸されたことから
名付けられたと伝えられています。
そして、大化2年(646)に十一面観世音菩薩を当地に奉安し
忉利天上寺を開創しました。
一願地蔵堂
その先の一願地蔵堂には、一願を叶える地蔵尊が祀られています。
一願地蔵堂-小さな地蔵像
周囲には願いが成就した人々から、小さな地蔵像が多数奉納されています。
轟不動尊-1
更に進むと轟不動尊が祀られています。
轟不動尊-2
法道仙人は摩耶山に庵を結び、ここから仏教弘通を始め、修法をされた時に
空中より雷鳴と共に不動明王が出現したと伝えられています。
以来、紫雲に乗り、峰々を飛行して求道者を守護する役割を担い、
人々からは「轟不動尊」と呼ばれるようになった。
摩耶山王蔵院 峰守坊 轟不動と記されていることから、
天上寺の塔頭のように思われます。
南の石段
伽藍正面の門から南の石段を登り、こちらからロープウェーの星の駅まで戻ります。
摩耶の石舞台
摩耶の石舞台がありました。
摩耶の石舞台-2
ここから山の端と眼下に市街地が見渡せ、清水寺の舞台に似ていることから
名付けられました。
天狗岩大神
星の駅に到着しましたが、ロープウェーには乗らず、天狗岩へ向かいました。
「天狗岩大神」が祀られています。
天上寺の旧境内地で奥之院があった北の山頂にある巨石は、
僧が山中に出没する天狗をこの岩に封じ込めたの伝承から
「天狗岩」と呼ばれています。
また、「行者岩」とも呼ばれ、山岳信仰の磐座として
今日でも信仰の対象となっています。
石丸猿田彦大神
隣接するこちらは「石丸猿田彦大神」として祀られています。
奥之院跡
南へ下ると奥之院跡があります。
法道仙人によって建立されたと伝えられ、「行者堂」とも呼ばれて
修験者の行場の一つにもなっていました。
堂内には不動明王と弘法大師像が安置されていました。
三権現社跡
更に下ると三権現社跡があります。
白山権現・熊野権現・愛宕権現の三社を祀ったお堂がありました。
親子杉
旧天上寺の親子杉は樹齢100年以上、樹高25m、幹周り4.5mの杉で、
3本に分かれた幹が親子のように見えることから「親子杉」と呼ばれていました。
しかし、平成30年(2018)9月4日に近畿地方を横断した台風21号により
倒れてしまいました。
本堂跡
その直ぐ南に本堂跡があります。
約13m四方の建物で、本尊として十一面観世音菩薩が安置されていました。
本堂跡-画像
天上寺の跡地は歴史・伝説がある史跡公園として神戸市により整備されました。
こちらは当時の本堂の画像です。
多宝塔跡
本堂への参道の東側に多宝塔跡があります。
虚空蔵菩薩が本尊として安置されていました。
多宝塔跡-画像
当時の画像です。
阿弥陀堂跡
その南側に阿弥陀如来を本尊として安置していた阿弥陀堂跡があります。
嗽水舎跡
その手前に嗽水舎跡(そうすいしゃあと)があります。
嗽水舎跡-画像
竜の口から流水する手水鉢で、このように使われていました。
護摩堂跡
参道の西側に護摩堂跡があります。
摩耶夫人堂跡
その南側に摩耶夫人堂跡があります。
本尊として仏母摩耶夫人尊像が安置されていました。
護摩堂跡-画像
当時の護摩堂と摩耶夫人堂との画像です。
鐘楼跡
その南側に約4.5m四方の大きさの鐘楼跡があります。
石段
そこからは石段を下ります。
仁王門
焼失を免れた仁王門があります。
仁王像は再建された天上寺へ遷されましたが、往時を偲ばせる唯一の建物です。
ここから200m東に虹の駅がありますが、このまま阪急神戸線の「王子公園」駅まで
下り、「神戸三宮」駅まで乗車して生田神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

楼門
亀岡から国道423線を南下した先に、国道に面して、久安寺があります。
国道が西側へ曲がった所に楼門があります。
楼門は室町時代初期の応永年間(1394~1428)の建立とされ、
「水平の無い軒反り」という他に類例のない技法で造られ、
「最も美しい楼門」と評価されて国の重要文化財に指定されています。
久安寺は山号を「大澤山」と号する高野山真言宗の寺院で、
摂津国八十八所巡礼・第67番、摂津三十三ヶ所観音霊場・第19番札所です。
仁王像-右
残念ながら楼門前はフェンスで囲われ、楼門を通行することはできませんが、
楼門の右側にある鉄製の引き戸から境内に入ることができます。
仁王像は南北朝時代(1337~1392)の作とされています。
仁王像-左
仁王像は親柱の後方に安置され、親柱は通路上を高くし、
前面を広くした「仏堂形式」が採られています。
本坊-門
参道を北へ進むと本坊(小坂院)がありますが、公開はされていないようです。
明治以前には楼門内に49の子院があったそうですが、
現在残されているのはこの一院のみです。
具足池
駐車場から西へ進んだ所でもある、本坊前の広場には円形の「具足池」があります。
「吾(われ)、唯(ただ)、足(た)るを知る心」
中央の岩の上には修行大師像が祀られています。

画像はありませんが、拝観受付の前に立つ榧(かや)の老木は、
豊臣秀吉(1537~1598)の手植えとされています。
受付所は納経所も兼ねています。
御影堂-1
拝観料300円を納めて境内に入ると、西側に石段があります。
御影堂-2
それを登った所に御影堂があります。
寺伝によると久安寺は、神亀28年(725)に第45代・聖武天皇(在位:724~749)の
勅願を受け、行基(668~749)が開創したと伝わります。
その後、天長年間(824~833)の頃に空海(774~835)が真言密教の道場として
中興したとされています。
空海は現在の霊園の地に留錫(りゅうしゃく)したとされ、
その草庵跡地に弘法大師を祀る御影堂が建立されましたが、
明治末年に現在地へ移築されました。

御影堂には弘法大師の金剛名「遍照金剛大日如来」を表す
「遍照殿(へんじょうでん)」の扁額が掲げられています。
堂内には弘法大師像、行基菩薩像、及び安元年(1175)に久安寺を再興した
賢実上人の像が安置されています。
三十三所堂
本坊から御影堂、そして本堂へは渡廊下で結ばれています。
御影堂から本堂への渡廊下は「三十三所堂」と呼ばれ、
西国観音霊場の各本尊が祀られています。
また、33mの須弥壇に慰霊壇があり、自宅に仏壇を持たない人の先祖霊、
遺骨が祀られています。
渡廊下をくぐると四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場が設けられている
弥勒山への入口がありますが、一周1080m(約1時間)の山歩きとなります。
また、三十三所堂の背後に、薬師堂と対面するように阿弥陀堂があります。
鐘楼
御影堂から石段を下り、参道を北へと進むと鐘堂があり、
「開運殿」の扁額が掲げられています。
昭和の本堂建立時に新築されました。
鐘楼-内部
堂内の四隅には来迎の際に阿弥陀三尊と共に現れ、
楽器を奏でる菩薩像が祀られています。
鐘楼-梵鐘
「開運の鐘を撞いて仏前に」と記されています。
腰掛石
鐘堂の手前に「腰掛石」があります。
豊臣秀吉(1537~1598)が月見の会を催した時に腰を掛けた石と伝わり、
元は三光社がある阿字山の山頂にありました。
薬師堂
鐘堂から東へ進んだ所に薬師堂があり、「瑠璃光殿」の扁額が掲げられています。
平成元年(1989)に西国四十九薬師霊場会が開創されたのを記念して建立されました。
前面ガラス張りの近代的な建物で、堂内は広く、椅子が並べられて
各種行事に使用されるように見受けられます。
薬師堂-堂内
本尊は薬師如来立像で、その両側に日光・月光の両菩薩図、
更にその両側に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅図が掲げられています。
芳泉庭-2
薬師堂の北側に「芳泉庭」が築かれています。
芳泉庭-3
「東方瑠璃光浄土」の世界を具現化されたものでしょうか?
仏足石
また、釈迦が悟りを開いたとされる庭園の趣旨から仏足石が祀られています。
本堂-1
本堂
久安元年(1145)に第76代・近衛天皇(在位:1142~1155)の勅願時として
楼門・堂塔伽藍・四十九院などが再興され、それまでの「安養院」から
「久安寺」へと改称されました。
本堂-2
本堂には「大悲殿」の扁額が掲げられ、観音堂でもあります。
本尊は定朝(生没年不詳)作とされる千手観音立像で、
第68代・後一条天皇(在位:1016~1036年)の勅願によるものと伝わります。
胎内には聖武天皇勅願で、行基が感得したとされる千手観音が納められています。
本尊は秘仏で非公開です。
普供養の庭
本堂の左側には信者の方々によって築かれた「普供養の庭」があります。
「心字池(しんじいけ)」には大師ゆかりの光明泉から水が引かれているそうですが、
現在は枯れていました。
バン字池-1
本堂の裏側には「バン字池」があります。
バン字池-2
バン字」とは梵字で金剛界大日如来の意味があります。
バン字池-本堂裏
北岸から本堂を望みます。
虚空園
「バン字池」の東側に木立が聳える「阿字山」があります。
「阿字」は胎蔵界大日如来を意味し、
「バン字池」と「阿字山」を含めた庭園全体が「虚空園」と称されています。
修行大師像
「阿字山」の麓には修行大師像が祀られています。
平成23年(2011)、久安寺開創1300年、高野山開創1200年を記念して、
開創時に鐘撞堂のあったこの地に像が祀られました。
愛宕地蔵尊
奥に愛宕地蔵尊(将軍地蔵)の像が祀られています。
一説では、坂上田村麻呂(758~811)が東征の際に戦勝を祈願して造立したと
伝えられています。
三光社
山頂には久安寺の伽藍神である三光大善神を祀る三光社があります。
豊臣秀吉はこの山頂で月見の会を催し、三光社に祈願したと伝わります。
地蔵堂
北の仏塔へと向かう参道は「両果(りょうが)の道」と呼ばれ、
参道を進んだ右側に地蔵堂があります。
明治末年に廃寺となった久安寺別院・菩提寺の本尊であった
僧形地蔵菩薩像が安置されています。
行基像
参道の左側には行基菩薩像が祀られています。
天智天皇7年(668)に河内国で生まれ、15歳の時に大官大寺で得度を受け出家しました。
当時、朝廷は民衆へ仏教を直接布教することを禁止していましたが、
40歳を過ぎた頃から、その禁を破って行基集団を形成し、
畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず、広く人々に仏教を説きました。
併せて困窮者の救済や社会事業を指導し、布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、
溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備しました。
当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたましたが、民衆の圧倒的な支持を得、
その力を結集して逆境を跳ね返しました。
その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として
聖武天皇により東大寺の大仏造立の実質上の責任者として招聘され、
この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられています。
朱雀池
参道の先には朱雀池があり、弁財天が祀られています。
神亀2年(725)にこの地に辿り着いた行基は、この池から閻浮檀金(えんぶだごん)の
小観音を感得し、聖武天皇の勅願を受け安養院を開創しました。
「閻浮」は須弥山のまわりにある四大陸の一つで、南にある大陸の閻浮提で、 
「檀」は川を意味しています。
 閻浮提の大木の下にある金塊のことや、その近くにある川の砂金とされ、
良質の金という意味があります。
仏塔
朱雀池に架かる橋を渡った正面に仏塔があり、創建時にはこの地に伽藍が建立され、
大正年間(1912~1926)まで本堂がありました。
仏塔は「舎利殿涅槃堂」と呼ばれ、平成18年(2006)に
中国・福建省の石材と技術により建立されました。
涅槃像
堂内には像高6.4mの涅槃像が安置されています。
レリーフ-生誕
壁には釈尊の誕生から入滅までのレリーフが祀られています。
釈尊はマーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、
『天上天下唯我独尊』と語ったと伝わり、
マーヤーは出産した7日後に亡くなったとされています。
レリーフ-出城
釈尊はインドとネパールの国境付近にあったカピラ城で、
マーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられました。
ある時、釈尊が東門から出ると、老人に会い、南門から出ると病人に会い、
西門を出ると死者に会い、この身には老いも病も死もある、
と生の苦しみを感じました。
北門から出た時に一人の沙門(=修行者)に出会い、
世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、
出家の意志を持つようになったとされています。
レリーフ-修行
釈尊は29歳で出家し、林に入って様々な苦行を行うと、
父は警護も兼ねて五人の沙門を同行させました。
僅かな水と豆類などで何日も過ごした断食修行では、
骨と皮のみのやせ細った肉体となり、
極端な苦行も不適切であると悟って苦行を止めました。
五人の沙門は、釈尊は修行を放棄した堕落者と軽蔑し、釈尊の元を去りました。
レリーフ-布施
釈尊はナイランジャナー川で沐浴したあと、
村娘のスジャータから乳粥(ちちがゆ)の布施を受け、
体力を回復して菩提樹の下に坐して瞑想に入りました。
レリーフ-降魔
釈尊の成道が近いことを知った魔王は、
これを阻止するために様々な妨害を行いました。
魔王はまず三人の魔女を使わし、その誘惑によって釈尊の心を乱そうとしました。
釈尊の心が動じないことを見ると、今度は悪魔の軍勢を率いて、
武力でもって釈尊の瞑想を妨げようとしました。
しかし、悪魔の放った矢は釈尊に近づくと悉く花びらとなって落ち、
石の雨、剣の雨も釈尊を傷つけることはできませんでした。
『悪魔よ、汝は敗れたり!』、こうして釈尊は責めくる悪魔の誘惑を悉く滅ぼし、
最後の瞑想に入り、35歳の時に悟りを開かれ、仏陀となりました。
レリーフ-初転法輪
初転法輪(しょてんぼうりん)
悟りを開いた釈尊に天上に住む梵天が現れ、人々に真理を説くことを勧めました。
釈尊は去って行った五人の沙門を最初に教えを説くべき相手と決め、
五人に向かって静かに語りかけました。
これが釈尊最初の説法(初転法輪)で、五人は改めて釈尊の弟子となりました。
十大弟子象-1
堂内の柱には十大弟子の像が刻まれています。
十大弟子象-2
その2
慈母の庭
仏塔の左側には「慈母の庭」が築かれています。
五輪塔の庭
仏塔の右側には「五輪塔の庭」が築かれています。
仏塔-修行大師像
五輪塔の庭の前には修行大師像が祀られています。
阿弥陀堂
「三十三所堂」まで戻り、その背後と画像に収められませんでしたが、
右側に阿弥陀堂があり、文化財収蔵庫にもなっていますが、通常は非公開です。
重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像を本尊とし、
池田市の文化財に指定されている薬師如来立像の他、行基像、賢実像が安置され、
釈迦涅槃図、久安寺縁起三種などが収蔵されています。
そして、この場所は四国八十八か所のお砂踏み巡拝霊場の出発地となります。

伊居太(いけだ)神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

楼門-表側
般若寺は奈良街道に面して楼門がありますが、県道754号線に面して
駐車場への入口があり、駐車場の先に拝観受付があります。
開門時間は9:00~17:00ですが、冬季(12~2月)及び夏季(7~8月)は16:00に
閉門されます。
通常の拝観料は500円ですが、6/1~6/30のアジサイ期と
10/1~11/10のコスモス期は700円となります。

般若寺は山号を「法性山」と号する真言律宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第3番、
関西花の寺二十五霊場・第17番、大和北部八十八ヶ所霊場・第15番の札所です。
十三重石塔
受付から入ると6月でしたが、既にコスモスの花が咲き、
通称で「コスモス寺」と呼ばれています。
右側に十三重石宝塔が建っています。
基壇辺12.3mに総高14.2mの石塔が建ち、初重軸の東面に薬師如来、
西面に阿弥陀如来、南面に釈迦如来、北面に弥勒如来の四方仏が刻まれています。

寺伝では、般若寺は飛鳥時代の第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)元年(629)に
高句麗の僧・慧灌(えかん:生没年不詳)により創建されたと伝えられ、
平城京へ遷都後の天平7年(735)に第45代・聖武天皇(在位:724~749)が
平城京の鬼門を守るため、塔を建ててその下に大般若経を収め、
それが寺号となったと伝わります。
平安時代(794~1185)には学問寺として千人の学僧が集まり栄えましたが、
治承4年(1180)に平重衡(たいら の しげひら:1157or1158~1158)による
南都焼討により伽藍は灰燼に帰しました。

その後、氏名不詳の者が十三重石塔の建立を志し、初重の大石を積んだところで
亡くなりました。
西大寺の良恵(りょうえ)上人がその事業を引き継ぎ、
石工の伊行末(い ぎょうまつ:?~1260)によって建長5年(1253)頃に
現在の塔が建てられ、国の重要文化財に指定されています。
伊行末は宋から渡来した石工で、南都焼討後の東大寺の復興に尽力されました。
昭和39年(1964)に大修理が施された際、塔内から白鳳時代(645~710)の
金銅阿弥陀仏とその胎内仏が発見されましたが現在は秘仏とされ、
特別公開時にのみ公開されています。
相輪
石造の相輪は建長5年(1253)頃に建てられた初代の相輪で、南北朝時代(1337~1392)か
室町時代(1336~1573)の地震で落下し、
三つに割れたことから裏山に埋められていました。
昭和の初めに現在の県道754号線が般若寺の旧境内を分断する形で
工事が進められ、その時に工事現場から発見されました。
その後も、地震等の落下により、現在の相輪は4代目で、昭和の大修理の際に
新調されました。
2代目は本山の西大寺に現存し、元禄16年(1703)に造られた青銅製の3代目は
別途保管されています。
カンマン石
順路に沿って西へ進むと「カンマン石」があります。
「カンマン」は不動明王を象徴する梵字のことで、
石の上には不動明王像が祀られています。
阿弥陀像
境内には石仏が祀られ、こちらは薬壺が見えますので薬師如来と思われます。
釈迦像
こちらは釈迦如来です。
まかばら石
また、霊石「まかばら石」が祀られています。
いつの頃か境内にあって、「まかばら」は光明真言に由来し、
光明真言を略した「オン・マカバラ・ウン」の呪文を唱え、
石の頂を右回りに3周撫でると、運気が上昇するとの伝承があります。
楼門
西側に表側から見た楼門があります。
鎌倉時代(1185~1333)に奈良街道に面する廻廊の西門として建立された
入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)で、
日本最古の楼門遺構として国宝に指定されています。
護良親王供養塔
北へ進むと「大塔宮護良親王供養塔」があります。
護良親王(もりよししんのう:1308~1335)は第96代・後醍醐天皇の第三皇子
とされ、6歳の頃に梶井門跡(三千院門跡)に入り、
正中2年(1325)には門跡を継承し、門主となりました。
門室を法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことから、
通称で「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれていました。
利発聡明な頭脳の持ち主とされ、嘉暦2年(1327)12月から元徳元年(1329)2月までと、
同年12月から元徳2年(1330)4月までの2度に渡り、天台座主となりました。

元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府の討幕を計画しますが露見し、
護良親王は天皇を笠置山へ逃しました。
しかし、笠置山は幕府軍の攻撃で陥落し、
天皇は捕らえられて隠岐の島へ配流されました。(元弘の乱
護良親王は般若寺へ逃れ、その後吉野に潜伏して還俗し、
「護良親王」と名乗りました。
吉野で挙兵しましたが幕府軍に敗退し、高野山へと落ち延びました。
元弘3年(1333)に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出して挙兵すると、
足利尊氏(1305~1358)は幕府に背いて天皇方につき、鎌倉幕府は滅亡しました。
同年、後醍醐天皇は建武の新政を開始しましたが、護良親王と足利尊氏が対立し、
親王は捕えられて鎌倉へ配流され、建武2年(1335)に殺害されました。
鐘楼
鐘楼は元禄7年(1694)に再建されました。
梵鐘は江戸時代(1603~1868)初期のものと推定され、西大寺の奥の院にあったものが
移されたとの伝承があります。
手前にはアジサイが花を咲かせています。
平和の塔
北側に平和の塔があります。
平成元年(1989)に建立され、広島市の爆心地で燃えていた火と
長崎市の被爆瓦で起こした火を合わせた「原爆の火」が灯されています。
本堂
鐘楼の右側に本堂があります。
般若寺は鎌倉時代に良恵上人により復興が開始されると、叡尊上人(1201~1290)の
発願により丈六の文殊菩薩像が造立されたのを機に七堂伽藍の再建が行なわれ、
当地での創建時の寺観に復されました。
しかし、永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、
主要伽藍を焼失し、文殊菩薩像も失われました。
踏み蓮華石
本堂前には文永6年(1267)に叡尊上人が造立した文殊菩薩騎獅像の遺品で、
塑像の獅子が踏んでいた蓮華石が残されています。

般若寺は江戸時代に復興されますが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で荒廃し、
第二次世界大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されるようになりました。
現在の本尊・文殊菩薩騎獅像は、鎌倉時代後期に造立され、
国の重要文化財に指定されています。
般若寺が南朝側にあったことから後醍醐天皇の御願により天皇の護持僧・文観房弘真
(もんかんぼうこうしん:1278~1357)が討幕を祈願して造立し、
元は経蔵で安置されていました。
観良房良慧大徳追慕塔
観良房良慧の供養塔です。
治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちで焼失し、衰退した般若寺境内で
「大善巧の人(だいぜんぎょうのひと)」が復興を始めました。
その人物の詳細は不明ですが、東大寺の復興に携わった人物と推定されています。
大善巧の人は、十三重石宝塔の基台と初重の大石を積んだところで絶命されました。
基台と初重の軸部はそれぞれ15tの大石となります。
その後、観良房良慧がその遺志を継ぎ建設現場に居住して完成させました。
施工したのは東大寺の復興で重源上人(1121~1206)が南宋から招いた
伊行末(いぎょうまつ)の石工集団で、石の切り出し、運搬、彫刻、積み上げと
大変な労力と莫大な費用を要したと推測されます。
また、観良房良慧が願主となり、叡尊上人に率いられた西大寺教団により
諸堂の建設と、仏像が造られました。
文永4年(1267)に諸堂が建立され、本尊の開眼供養が営まれました。
本堂前の地蔵
本堂前の手水石船は、寛文7年(1667)に再興された現本堂に寄進されました。
左側の水掛地蔵尊は十数年前に東の山中から発見されたもので、
宝暦4年(1754)に奈良町の町人が先祖供養のために造立されました。
本堂前の石灯籠
右側の石灯籠は「般若寺型」或いは「文殊型」と呼ばれ、
鎌倉時代に花崗岩で造られ、総高は3.14mで、国の重要文化財に指定されています。
竿と笠部分は後補ですが、基台・中台・火袋・宝珠部は当初のもので、
火袋部には鳳凰・獅子・牡丹唐草が浮彫りされています。
藤原頼長供養塔
藤原頼長(1120~1156)は保元元年(1156)に謀反の罪がかけられ、挙兵しましたが
敗北し、重傷を負いながらも興福寺まで逃れ、落命しました。(保元の乱
遺骸は般若寺の南にある般若寺山へ葬られましたが、
現在ではその所在も不明となり、境内に供養塔が建てられています。
観音像
本堂の周囲には西国三十三所観音霊場の各本尊の石仏が祀られています。
元禄16年(1703)に病気平癒のお礼に寄進され、当初は十三重石塔の基壇上に
安置されていましたが、昭和の大修理で本堂の周囲へ遷されました。
力石
般若寺本性房の力石は、元弘元年(1331)の元弘の乱の際に笠置山へ馳せ参じ、
笠置山の山上から怪力をもって幕府軍へ大岩を投げつけ、
後醍醐天皇の軍に加勢しました。
力試しの石は、「もてる女石」が約20kg、「もてる男石」が約30㎏、
「もてない石」は約50㎏です。
石塔部材群
力石の北側には、鎌倉・室町・戦国時代の石塔部材群が並んでいます。
戦国時代、般若寺の南西700mには、永禄3年(1560)に松永久秀(1508~1577)によって
築城が開始された多聞山城がありました。
標高115mでかっては「眉間寺山(びかんじやま)」と呼ばれ、
鎌倉時代には眉間寺があり、付近は墓所でした。
その墓石や仏塔などが多聞山城の石垣等に使用されました。
鎮守社
本堂から北へ進むと右側に鎮守社があり、
伊勢神宮、春日社、八幡宮が祀られています。
平成31年(2019)の参拝時には補強され、かろうじて倒壊を免れているようでした。
鎌倉時代の伽藍図
こちらは、鎌倉時代に復興された文永4年(1267)頃の境内図です。
現在の本堂の地には金堂、その背後には講堂が描かれ、
講堂には銅造薬師如来立像が安置されていました。
銅造薬師如来立像は奈良時代末から平安時代初期の作で、
現在は奈良国立博物館に寄託されています。
講堂の北と東西に僧房が描かれ、東僧坊の東には七重塔が描かれています。
忍性石碑
北へ進み、かって講堂があったと思われる地には忍性菩薩利生塔があります。
忍性菩薩(1217~1303)は叡尊上人の弟子で、早くから文殊菩薩信仰に目覚め、
貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力しました。
文殊信仰は、弱者救済の中心となります。
白鳳阿弥陀如来の碑
西へ進むと「秘仏白鳳阿弥陀如来」の碑が建っています。
昭和39年(1964)に十三重石宝塔の解体修理が行われた際に党内から発見された、
像高28.8cmの小金銅仏です。
宝蔵への門
その先にあるのが宝蔵堂だと思われます。
秘仏白鳳阿弥陀如来が安置され、期間限定で特別公開が行われています。
地蔵堂
更に西へ進むと地蔵堂があります。
笠塔婆
本堂の方へ戻ると東側に2基の笠塔婆があります。
伊行吉(いぎょうきち)が、父・伊行末の一周忌にあたる弘長元年(1261)に、
一基は父の菩提を弔い、もう一基は母の善行のために建立しました。
北塔の総高は476cm、南塔の総高は446cmで、国の重要文化財に指定されています。
笠塔婆-支え金具
その北側の笠塔婆支え金具は、境内の南方に建立されていた笠塔婆が、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で破壊されたため、
明治25年(1892)に現在地へ移し、修理する際に使用されたものです。
フランス製で、エッフェル塔など大型建造物に用いるために新しく開発された
錬鉄製の金具で、唐草文様がデザインされています。
十三重石塔+薬師
十三重石宝塔の初重軸の東面に薬師如来が刻まれていますが、
その前に薬師如来像が安置され、西国薬師四十九霊場の札所本尊とされています。
経蔵
十三重石宝塔の東側に一切経蔵があります。
鎌倉時代に建立され、国の重要文化財に指定されています。
笠置山が陥落し、般若寺へ逃れたは護良親王は、この経蔵にあった
鎌倉時代の大般若経の経箱(唐櫃)に身を隠し、追手からの難を逃れ、
その後吉野へ逃亡しました。
三界万霊碑
経蔵の南側に戦国時代の三界万霊碑があります。
生きとし生けるものが平等に成仏できるようにと願った供養塔で、
戦国時代の合戦での物故者及び般若野(南都総墓)に葬られた
おびただしい数の亡者を弔ったものとされています。

奈良街道を北へ進み、奈良豆比古神社から天明天皇と元正天皇陵へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

不空院-山門
春日大社の「上の禰宜道(かみのねぎみち)」から下って二筋目を右折して
西へ進み、次の南への丁字路へ左折して進んだ東側に不空院があります。
山号を「春日山(しゅんにちさん)」と号する真言律宗の寺院です。
創建に関する詳細は不明ですが、天平勝宝5年(753)には鑑真和上(688~763)が
この地に住まわれたとの記録があり、弘仁年間(810~824)に空海(774~835)は
その住居跡に、興福寺の南円堂の建立に先立ち、
その雛形を建立したのが不空院の始まりとも伝わります。
不空院-本堂
その八角円堂は嘉永7年(1854)に起こった安政の大地震で倒壊しましたが、
奉安されていた不空羂索観音は、現在でも不空院の本尊として祀られ、
春と秋に特別公開されています。
当日は開門時間(9:00~17:00)前だったので、先に百毫寺へ向かいました。
百毫寺-石段
百毫寺は不空院から南東方向へ徒歩15分余りの距離にあります。
山号を「高円山」と号する真言律宗の寺院で、大和北部八十八ヶ所霊場・第63番、
関西花の寺二十五霊場・第18番札所です。
標高432mの高円山(たかまどやま)の西麓に位置し、かってこの地には
第38代・天智天皇(在位:668~672)の第7皇子・志貴皇子(しきのみこ:
668?~716)の山荘があって、霊亀元年(715)に天智天皇の御願により
山荘を寺にしたと伝わります。
また、空海(774~835)の師である勤操(ごんそう:754~827)が
高円山麓に建立した岩淵寺の子院であったとの説があり、
百毫寺の創建年度は定かではありません。
受付からの石段
石段を登ると拝観受付(500円)があり、
更に石段が続いてその途中に山門があります。
こちらの開門時間も9:00~17:00です。
百毫寺-山門
山門
百毫寺は鎌倉時代(1185~1333)に西大寺の叡尊上人(1201~1290)によって
中興されました。
弘長元年(1261)に叡尊上人の弟子・道照が宋から『宋版一切経』の摺本を持ち帰り、
一切経転読を行ったことから、「一切経寺」とも呼ばれるようになりました。
明応6年(1497)に古市氏筒井氏との戦火に巻き込まれ、
ほとんどの堂宇を焼失しました。
百毫寺-本堂
石段を登った左側に本堂があります。
寛永年間(1624~1645)に江戸幕府から所領五十石が安堵され、
興福寺の学僧・空慶によって復興され、現在の本堂が再建されました。
本堂は奈良市の文化財に指定され、堂内には阿弥陀三尊像と
聖徳太子二歳像などが安置されています。
五色椿
本堂の右側に植栽されている五色椿は、県の天然記念物に指定されています。
寛永年間(1624~1645)に興福寺の塔頭・喜多院から移植されたと伝わり、
白色、紅色、紅白絞りなど、色とりどりの大輪・八重の花を咲かせます。
多宝塔跡
五色椿の左側の石段を登った所に多宝塔跡があります。
白毫寺には室町時代(1336~1573)に建立された多宝塔がありましたが、
大正6年(1917)に譲渡され、高塚市にあった実業家・藤田傳三郎の三男・
藤田彦三郎が所有する山荘へ移築されました。
その山荘も平成14年(2002)に発生した山火事で全焼しました。
百毫寺椿
右側に、樹齢推定500年の藪椿があり、「百毫寺椿」と命名されています。
「白毫」は、仏の眉間にある白い巻毛のことであり、
紅に点々と入る白の班が「白毫」に見立てられ、命名されました。
石仏
多宝塔跡の左側には石仏が並びます。
不動明王
その先に不動明王が祀られています。
石仏の道-2
その先は「石仏の道」と称され、石仏が並んでいます。
十王地蔵
下った山側に十王地蔵が祀られています。
宝蔵
その先に宝蔵がありますが、内部の撮影は禁じられています。
中央に安置されている白毫寺の本尊・阿弥陀如来坐像は像高138cm、
檜材の寄木造で、平安時代末期~鎌倉時代頃の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。

その右側に安置されている伝・文殊菩薩坐像は像高102cm、
平安時代初期彫刻の特徴をよく伝えており、国の重要文化財に指定されています。
元は多宝塔の本尊で、白毫寺に残る最古の仏像です。

左側の地蔵菩薩立像は修理のため、出張中でした。
像高157cm、鎌倉時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。
檜材の寄木造で、彩色の剥落も少なく、切金もかなり残っているとされています。

伝・文殊菩薩坐像の前方に興正菩薩・叡尊上人坐像が安置されています。
像高73.9cm、鎌倉時代の寄木造・彩色像で、国の重要文化財に指定されています。

その前方に太山王(たいざんおう)坐像が安置されています。
像高129cm、体内の墨書きから正元元年(1259)に大仏師・法眼康円(1207~?)
の作と判明しました。
国の重要文化財に指定されていますが、明応6年(1498)の兵火で
頭・体部と膝組の前面が大きく焼け焦げ、翌年に修理が施されています。

宝蔵内の左側に像高118.5cmの閻魔大王坐像とその両側に
司命(しめい)・司録(しろく)像が安置されています。
何れも鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
司命・司録像は像高は132cm、共に虎の皮を敷いた椅子に腰かけ、
太山王坐像と共に康円の作で、
明応の火災では救出されましたが、司録の首は後補されています。
御影堂
本堂と宝蔵との間に御影堂があります。
江戸時代に建立され、堂内には中興の祖・空慶上人像が安置されています。
生駒山展望
境内からは正面に生駒山、その手前に奈良市内が一望できます。
興福寺展望
北西方向には興福寺の五重塔の一部が望めます。

不空院の方へ戻る予定が重大なミスを犯したため、不空院は後日に
次に向かう予定だった新薬師寺は平成30年(2018)秋の参拝時のものを使用します。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ