京阪電車の出町柳駅から東へ進むと今出川通りと合流し、直ぐその先で東大路通りと
交差します。
交差点には「百万遍」と記され、その名は百万遍知恩寺に由来します。
交差点の南東側は京都大学です。
交差点から東へ直ぐの所に百万遍知恩寺の総門があります。
出町柳駅から百万遍知恩寺まで歩いても10分足らずです。
出町柳駅から百万遍知恩寺まで歩いても10分足らずです。
寛文2年(1662)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
現在地に移転する前の寺町にあった時からの総門で、
類焼を免れ、現在地に移築されました。
百万遍知恩寺は山号を「長徳山」、院号を「功徳院」と号する浄土宗の本山で、
法然上人二十五霊跡の第22番札所です。
境内は広く、毎月450店以上が出店する手づくり市や10月末~11月3日には
古書まつりが行われ、古書法要が営まれています。
山門脇に「百万遍念仏根本道場」の碑が建っています。
元弘元年/元徳3年(1331)に京都で疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により
第8世・善阿空円(ぜんなくうえん)が御所にこもり七日七夜の念仏を修しました。
すると疫病が鎮まり、その念仏が百万遍に及んだことから、
「百万遍」の号と弘法大師筆の「大利剣名号」の軸及び五百四十顆(つぶ)の
大きな念珠が下賜されました。
以来、諸祈願の際には「大利剣名号」を掲げ、輪になって念仏を称えながら
大念珠を繰る「百万遍大念珠繰り」が修せられ、それが全国に広まりました。
門をくぐると正面に御影堂があります。
宝暦6年(1756)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
堂内の須弥壇上宮殿に本尊の法然上人坐像が安置されています。
大永3年(1523)の作で、像内部には知恩寺2世・源智により「法然上人御骨」と
記された包紙に法然上人の遺骨と遺髪が納められています。
また、西脇檀の厨子内に安置されている像高98.9cmの阿弥陀如来立像は
快慶作との可能性が指摘されています。
御影堂の手前、右側に釈迦堂があり、百万遍知恩寺の本堂となります。
現在の釈迦堂は寛文4年(1664)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
延暦寺東塔・功徳院の里坊として創建しました。
賀茂社(賀茂御祖神社=下鴨神社)との関わりが深く、神宮寺として、
現在の相国寺付近にありました。
慈覚大師円仁作と伝わる丈六(約4.85m、坐像は約2.43m)の釈迦如来坐像が
安置され、「賀茂の河原屋」とも「賀茂の釈迦堂」とも呼ばれました。
法然上人は天養2年(1145)に比叡山に登り、久安3年(1147)に皇円の下で得度し、
第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
比叡山で修行を行っていた法然上人は、承安5年(1175)に浄土宗を開こうと考え、
比叡山を下って岡崎に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を開きました。
また、賀茂の神職に招かれ、度々賀茂の河原屋を訪れ、
一時そこに住したとも伝わります。
建暦2年(1212)1月25日に法然上人が入滅されると、
弟子の勢観房源智(せいかんぼうげんち:1183~1239)は賀茂の河原屋をついで
「功徳院知恩寺」と改め、法然上人の御影を安置して
法然上人を勧請開山第一世としました。
法然上人を勧請開山第一世としました。
源智は師の恩に報いるためには「恩」を「知」らなければならないと、
「知恩寺」と名付けたと伝えられています。
建治2年(1276)に紫野門徒が鎮西義に吸収される形で合流し、
紫野門徒の拠点であった知恩寺が加わったことにより、知恩院を拠点とした鎮西義は
勢力を拡大しました。
弘和2年/永徳2年(1382)に相国寺が建立されるに当たり、
一条小川(現在の上京区油小路通一条上る元百万遍町)に移転しました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文明11年(1479)に本堂が再建されますが、
永正5年(1508)の大内義興(おおうち よしおき:1477~1529))と
三好之長(みよし ゆきなが:1458~1520)の合戦で再び焼失しました。
永正16年(1519)に室町幕府により再建され、翌永正17年(1520)に幕府の管領・
細川高国(1484~1531)に捕らえられた三好之長が当寺で自刃させられました。
天文5年(1536)に天文法華の乱で焼失し、文禄元年(1592)には
豊臣秀吉の寺地替えにより現在の梨木神社付近に移転させられました。
寛文元年(1661)に焼失後、翌寛文2年(1662)に第39世・光誉萬霊上人によって
現在地に移転して再興されました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で賀茂御祖神社の神宮寺の立場を離れました。
令和元年(2019)に知恩院や三時知恩寺との混同を避けるため、
「百萬遍知恩寺」を法人名としました。
現在の本尊は寛文4年(1664)に光誉上人によって再興され、
一部に平安時代のものが残されています。
釈迦堂の前、阿弥陀経石の奥側に猫間中納言藤原清隆の墓である猫間塚があります。
藤原清隆(ふじわら の きよたか1091~1162)は第74代・鳥羽天皇の乳母父と
なったことから晩年に破格の昇進を遂げました。
また、有力諸家に娘を嫁がせて縁戚関係を構築したのですが、
なぜ「猫間中納言」と呼ばれるのかについては不明です。
その前に阿弥陀経石があります。
宗像大社(福岡県)にある阿弥陀経石(重要文化財)を、
正徳4年(1714)に模刻したもので、原碑とほとんど同じ形状・大きさです。
宗像大社にある原碑は、平重盛(たいら の しげもり=清盛の嫡男)が
宋へ砂金を送り、その返礼として重盛没後の建久9年(1198)に日本へ送られ
宗像大社へ届きました。
しかし平氏は滅亡していたため京都へは送られず、宗像大社近くに安置され、
寛文2年(1662)に神社へ移されました。
この阿弥陀経石には、中国・襄陽(じょうよう)の龍興寺(りゅうこうじ)にある
石刻阿弥陀経に基づく本文が刻まれ、日本に伝わっていた阿弥陀経と比べ
21字多く、珍重されました。
しかし、その21字は『阿弥陀経』には見当たらず、前人が註釈した文を
後年そのまま誤って本文の中に加筆されたものと推定されています。
その南側に建つ碑には六地蔵が線で描かれ、その横に
『現在未来天人衆(げんじみらいてんにんしゅう) 吾今慇懃付属汝
(ごこんおんごんふぞくにょ) 以大神通方便力(いだいじんつうほうべんりき)、
勿令堕在諸悪趣(もつりょうだざいしょあくしゅ)』と刻字されています。
『地蔵菩薩本願功徳経』の一説で
「現在と未来の天人達に、我、今、教えを伝えるよう汝に託す。偉大な力によって、
すぐれた教化をし、もろもろの悪業の報いによって迷いの世界へ落ちたものを
救われるであろう。」との意味になります。
釈迦堂の北側に勢至堂があります。
寛文14年(1731)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
堂内には勢至菩薩(せいしぼさつ)像が安置されています。
勢至菩薩は、火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って
救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされています。
法然上人は幼名を「勢至丸」と称し、「智慧第一の法然坊」と讃えられて
弟子の親鸞上人は勢至菩薩は法然上人の本地仏であると述べています。
「倶會一處(くえいっしょ)」の扁額が掲げられ、『阿弥陀経』から引かれた言葉で、
「倶(とも)に一つの処(ところ)で会する」と訳され、阿弥陀如来の極楽浄土で
浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味になります。
納骨堂から北へ進むと墓地があり、第111代・後西天皇皇女の香久宮、
満宮(みつのみや)、涼月院の墓があります。
更にその北側に圓光大師(法然上人)御廟があります。
享保16年(1731)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
開山・法然上人と2世・源智上人登石が覆われています。
御廟を中心とした歴代墓地の入口には「念」の字をかたどった念字門があります。
鳥居のような結界の意味があるそうです。
画像はありませんが鐘楼から西側へ進んだ所に西門があります。
正徳元年(1711)に建立され、かってはこちらが百万遍知恩寺の正門で、
南向きに建っていたそうです。
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