南総門
南総門は昭和13年(1938)に再建されました。
南総門から本殿は正対していません。
本殿を参拝して帰る際、本殿に背を向けない配慮がなされています。
本殿の図
現在の社殿は寛永11年(1634)に徳川三代将軍・家光の修造によるもので、
平成28年(2016)に国宝に指定されました。
石清水八幡宮は神仏霊場の第81番札所となっています。
楼門
阿吽の鳩
楼門の正面、蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)が施されています。
向かって右側の鳩は少し口を開けた阿形を示し、八幡大神の神使いである鳩が
阿吽の呼吸で神前を守護しています。
また、蟇股の裏側には徳川家の「葵の御紋」が中央に、その両側に
御神紋「流れ左三つ巴紋」が彫られた錺金具が施されています。
参拝する者には見えませんが、八幡大神には正面になります。
龍虎の彫刻
極彩色の龍虎の欄間彫刻は、四神で考えると東の青龍、
西の白虎からすれば東西が逆となります。
社殿を修造した家光が辰年生まれで、家康が寅年生まれだったことから
上位の東側に虎を配したと考えられています。
東門
本殿は180mに及ぶ回廊によって囲われ、外部から見ることはできませんが、
東門から前殿の屋根の先端が見えます。
八幡造りの本殿は、前殿(まえどの)・後殿(うしろどの)と呼ばれる切妻造・平入の2つの
建物を前後に連結させ、中間には1間の相の間(あいのま)があります。
前殿は外殿、後殿は内殿と呼ばれ、前殿に椅子、後殿に帳台が置かれ、昼は前殿、
夜は奥殿に神が遷られるとされ、共に神座となっています。
前殿と後殿の軒の接する相の間に金属製の樋を渡して雨水を受ける構造となっていますが、
この樋は「黄金の雨樋」と呼ばれています。
長さ21.7m、幅54cm、深さ21cm、唐金(青銅)製の雨樋は、
織田信長によって寄進されました。
天正7年(1579)12月、山崎の寶積寺に逗留していた信長は、石清水八幡宮の雨樋が
木製で朽ちて雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じました。
翌、天正8年8月、有事の際には換金できるようにと、
信長はこの「黄金の雨樋」を寄進したと伝わります。

石清水八幡宮の祭神・八幡大神とは、誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)の
三柱を総称したものです。
誉田別命は第15代・応神天皇で、息長帯姫命(神功皇后)は応神天皇の母親です。
比咩大神は、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、
多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神を指し、
神功皇后は三韓征伐の際、宗像三女神に航海の安全を祈願したと伝わります。
また、社殿内の摂社・武内社の祭神・武内宿禰(たけしうちのすくね)は、
三韓征伐からの帰途、神功皇后を待ち伏せしていた麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)を撃退しました。
鬼門封じ
社殿の東北角の石垣は切り取られています。
艮(うしとら)の方角で鬼門とされ、鬼門封じのために切り取った造りになっています。
比叡山の延暦寺が平安京の表鬼門を守護し、石清水八幡宮は裏鬼門を守護する
国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
また、木津川・宇治川・桂川の三川が合流して淀川となる地点に位置することから、
水運の神としての信仰も集めました。
天慶2年(939)に関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友が朝廷に反旗を翻すと、
朝廷は石清水八幡宮に調伏の祈祷が命じ
翌天慶3年(940)には平将門が討ち取られ、藤原純友も天慶4年(941)に捕えられ、
獄中で没し、乱は平定されました。
皇室からの崇敬は更に深まり、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は240余を数えました。
天慶2年(939)には伊勢神宮に次いで奉幣される地位となり、伊勢神宮と並び
二所宗廟(そうびょう=皇室の祭祀が行われる)とも称されました。
天慶5年(942)、第61代・朱雀天皇より平将門・藤原純友の乱平定の
報賽(ほうさい)として石清水臨時祭が始められました。
石清水臨時祭は、例祭である九月十五日の石清水放生会に対し、
陰暦三月牛の日に行われた祭礼で、宮中から勅使が参向し、幣を捧げ宣命を読み、
東遊・神楽・走馬等が行われましたが、現在では行われていません。
巨大神矢
正月には楼門前に大きな八幡神矢が設置されます。
石清水八幡宮は、貞観元年(859)に大安寺の僧・行教和尚によって
豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮から八幡大神を勧請し、翌貞観2年(860)に朝廷により、
八幡造の社殿(六宇の宝殿)を造営し、4月3日に遷座されました。
行教和尚は天安2年(858)に藤原良房の外孫・惟仁親王(後の清和天皇)の即位を
祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されました。
しかし、惟仁親王は同年8月27日(858年10月7日)に第56代天皇として即位したため、
翌貞観元年(859)、改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭しました。
このとき神託を受け、八幡大神を男山へ勧請したとされています。

一方、大安寺にも八幡神社があり、石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から
元石清水八幡宮とも称されています。
入唐した行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠してその神影を奉戴、
大同2年(807)に大安寺・東室第7院の石清水房に鎮座したのが始まりと伝わります。
その後、神殿を造営して遷座し「石清水八幡宮」と号して大安寺の鎮守神としました。
貞観元年(859)、神託により山城男山へ遷座したため、改めてその跡に祀ったのが
八幡神社の創祀であるとされています。

また、大山崎町にある離宮八幡宮も、石清水八幡宮の元宮とされています。
清和天皇の勅命により最初に石清水八幡宮が創建されましたが、その後男山に
遷座されたため、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので
社名を離宮八幡宮とした、と伝わります。

石清水八幡宮の創建以前の男山には、薬師如来を本尊とする石清水寺
(現在の石清水社)があったと伝わります。
「石清水」の社号は石清水寺に由来するとの説があります。
石清水八幡宮が創建されると石清水寺はその神宮寺となり、貞観4年(862)には
護国寺と改称され、神仏習合色が増していきました。
行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が
初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持・運営しました。
また、貞観2年(860)に社殿が造営された際、行教は祖先とする
武内宿禰命(たけうちのすくね/たけのうちのすくね)を祀る武内社を
本殿内の右側(向かって左側)に造営しました。

清和天皇の子孫の多くが臣籍降下して清和源氏となり、中でも枝葉広く栄えたのが
第六皇子・貞純親王の子・経基王の子孫で、源頼朝・足利尊氏をはじめ武家源氏の
大半がこの系統から輩出しました。
八幡大菩薩は源氏の守護神として深く信仰され、源氏によって各地に勧請されていきました。
源氏一門の崇敬により、武神、弓矢の神としての信仰が更に厚くなり、石清水八幡宮の
御神矢は破邪顕正(はじゃけんしょう)・一発必中(邪悪な敵をうち払い、
正しきを守り、狙った的に必ずあたる)の霊験(れいげん)あらたかとして信仰を集めています。
橘の木
社殿前の左側には橘の木が植えられています。
八幡大神を勧請した行教の家紋が橘であったこと、また創建時の六宇の宝殿を
建立したのが木工寮権允(もくのりょうごんのじょう)・橘 良基であったことに由来します。
石清水八幡宮の御神紋である「流れ左三つ巴」とともに橘が御社紋として使われています。
神楽殿
楼門前の左側に神楽殿、その手前に勤番所があります。
巫女の舞
正月から2月3日の湯立神事などの際に、厄除け・開運の八幡神矢が授与され、
神楽殿で巫女の舞によって清められています。
神矢納め所
神楽殿の南側にある勤番所はその期間中、八幡神矢の授与所、
それ以降は納め所となります。
西総門
信長塀と西総門
神楽殿から社殿を囲むように、天正8年(1580)に織田信長により寄進された
築地塀が築かれています。
瓦と土を幾重にも重ねることにより耐火性と耐久性に優れ、織田信長が好んだ様式で、
通称で「信長塀」と呼ばれています。
楠木
信長塀の外側に聳える楠の大樹は、建武元年(1334)に楠木正成が必勝祈願参拝の折に
手植えしたと伝わる7本の内の1本で、御神木とされています。
樹齢約700年で京都府の天然記念物に指定されています。
北門
北総門
信長塀には江戸時代前期の西総門・北総門・東総門が設けられ、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
三社殿
西総門の北側に手前から長田社・生田社・廣田社の三社殿があります。
長田神社生田神社廣田神社のいずれも神功皇后が三韓征伐から凱旋されたとき、
それそれの地先で「この地に祀れ」との神託をうけて祀ったのが始まりとされています。
校倉
北西の角に江戸時代中期に建立された校倉(宝蔵)があり、
京都府の文化財に指定されています。
住吉社
校倉の右側に住吉社とその手前に一童社(いちどうしゃ)が並んで建っています。
住吉三神は神功皇后の三韓征伐において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導きました。
また、皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、更に難波へ向かうも、船が進まなくなりました。
住吉三神から現在の住吉大社の地に三神の和魂を祀るように託宣を受け、
そのように鎮祭すると、無事海を渡れるようになったと伝わります。
社殿は江戸時代初期に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

住吉社の右側にある一童社(いちどうしゃ)には磯良命(いそらのみこと=
阿曇磯良/あづみのいそら)が祀られています。
神功皇后は三韓出兵の際、諸神を招きましたが、海底に住む磯良命だけは、
顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れませんでした。
住吉神は海中に舞台を構えて磯良命が好む舞を奏して誘い出し、磯良命は龍宮から
潮を操る霊力を持つ潮盈珠(しおみつたま)・潮乾珠(しおふるたま)を借り受けて皇后に献上しました。
そのおかげで皇后は三韓征伐に成功したと伝わります。
貴船社
一童社から北総門を挟んで東側に、右に貴船社、左に龍田社の二社殿があります。
貴船神社の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、龗(おかみ)とは、龍の古語であり、
龍は水や雨を司る神として信仰されていました。
龍田大社の祭神は天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)と
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)で、別名を志那都比古神(しなつひこのかみ)と
志那都比売神(しなつひめのかみ)と称します。
天と地の間、大気・生気・風力を司る神で、「風の神様」として天地宇宙の
万物生成の中心となる「気」で守護されると信仰されています。
貴船社と龍田社は雨と風を司り、台風のような神ですが、
豊作を祈るように祀られているのかもしれません。
若宮社
二社殿の東側、手前の若宮殿社と奥に若宮社があります。
若宮社の祭神は応神天皇の第4皇子である第16代・仁徳天皇で男性の守護神とされています。
若宮殿社の祭神は応神天皇の皇女で、女性の守護神とされています。
この二社は、石清水八幡宮本社と同時期の江戸時代前期に造営され、
国の重要文化財に指定されていますが、現在は工事中で令和2年(2020)3月に完成の予定です。
気比社と一若社
若宮社の南側に氣比社、その南側に水若社があります。
敦賀市の氣比神宮(けひじんぐう)の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、
相殿(あいどの)に第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后が祀られています。
記紀には仲哀天皇が角鹿(=敦賀)に行宮として「笥飯宮(けひのみや)」を
営んだと記されています。
また、神功皇后の太子(後の応神天皇)が武内宿禰に連れられて
禊のため気比大神に参詣し、名を交換したとされています。
太子が伊奢沙別命から浦に出るように告げられ、浦に出ると
浦には一面に伊奢沙別命の献じた入鹿魚(イルカ)がありました。
これにより太子は伊奢沙別命を「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、
のちにその名が「気比大神」となったと伝わります。

水若社の祭神は応神天皇の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、
応神天皇の寵愛を受けて立太子されましたが、異母兄の
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したとされています。
因みに菟道稚郎子は京都府の宇治市と関係が深く、宇治神社及び宇治上神社
祭神として祀られ、墓は史跡「宇治川太閤堤跡」付近にあります。
社殿は江戸時代前期のもので、国の重要文化財に指定されています。
おがたまの木
水若社の向かい、本殿側におがたまの木が立っています。
日本に自生するモクレン科オガタマノキ属の高木で、モクレン科唯一の常緑樹です。
「招霊の木」とも書かれ、天照大神の天岩戸隠れの際、天岩戸の前で舞った
天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手にしていたとする説があります。
多くの神社に御神木として植栽され、榊の自生しない地域を中心に
神前に供える玉串として古くから代用されていました。

山上の周辺を巡ります。
続く

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