賀茂山口神社
岩本神社から東へ進むと摂社の賀茂山口神社があり、
御歳神(みとしのかみ)が祀られています。
御歳神は、大歳神の御子神で、素戔嗚尊の孫神であり、
穀物の豊作をもたらす神とされています。
御歳神の「歳」は、「穀物の実り」の意味がありましたが、
収穫には一年を要することから「年」の意味が生ずるようになりました。
賀茂山口神社は「沢田神社」とも呼ばれ、
本宮御田、神領地の田畑守護の神とされています。
二葉姫稲荷神社-鳥居
更に東へ進むと二葉姫稲荷神社の鳥居が並んでいます。
八嶋龍神社-1
参道を登った所に八嶋龍神社があります。
八嶋龍神社-2
平安時代の弘仁11年(820)、第52代・嵯峨天皇の勅命により
賀茂山口神社の東、現在地から南約150mの所に神宮寺が創建されました。
神宮寺には1,500坪に及ぶ池があり、中央の島は「弁天島」と名付けられ、
八嶋龍神が祀られていました。
明治の神仏分離令により神宮寺は廃絶となり、跡地は民家に払い下げられました。
池は埋め立てられ、八嶋龍神社も取り払われて耕作地と化しました。
池の龍神が村人の夢の中に現れたとして、信者が集まり、跡地を境内に復し、
昭和31年(1956)に弁天島にあった主岩石が現在地で祀られるようになりました。
御蔭龍神
八嶋龍神社の右側に御蔭龍神が祀られています。
天之斑駒神社
御蔭龍神の右側に天之斑駒神社(あめのふちこまじんじゃ)があります。
金毘羅神社
天之斑駒神社の右側に金毘羅宮があり、
その左側に三月豊不動明王が祀られています。
二葉姫稲荷神社
境内の奥に二葉姫稲荷神社があります。
神宮寺の鎮守社として、神宮寺山(片岡山)に祀られたのが二葉姫稲荷神社で、
神宮寺の廃絶後も二葉姫稲荷神社だけは残されました。
渉渓園-入口
参道を下り、庭園「渉渓園」の周囲に沿って南から西へ進むと
「渉渓園」の入口があります。
「渉渓園」の広さは約500坪で、神宮寺の池の一部を平安時代後期の庭園として、
作庭されています。
昭和35年(1960)、浩宮徳仁親王(ひろのみやなるひとしんのう=現在の天皇陛下)
生誕の奉祝事業として曲水の宴を復活するための庭園として造園されました。
睦の木
園内の中央に樹齢300年以上とされるスダジイの木が、御神木として祀られています。
一つの根から複数の大樹が聳えていることから、
一つに結ばれた仲睦まじい家族を象徴し、「睦の木」と称されています。
陰陽石
その後方にある「陰陽石(おんみょうせき)」は池の底から出土したもので、
陰と陽が融合した姿を表し、両手で同時に石に触れてから賀茂山口神社に
参拝すると御利益があるようで「願い石」とも呼ばれています。
賀茂山口神社-拝殿
その左側に賀茂山口神社の拝殿があります。
曲水
園内の左側には「ならの小川」が水が引かれ、毎年4月の第2日曜日に
「曲水宴」が行われます。
当日は、前年の葵祭の斎王代が歌題を披露し、平安時代さながらの衣装の歌人らが
即興で和歌を詠み、短冊にしたためます。
詩歌の吟詠や管弦の演奏も行われ、野点の席もあります。
奈良神社
「渉渓園」の南側に北神饌所があり、西側に隣接して摂社・奈良神社があります。
拝殿は北神饌所の中に組み込まれています。
奈良刀自神(ならとじのかみ)が祀られ、
学業成就や料理技術向上の神とされています。
刀自とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、
古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、
楢が奈良となり神饌を司る神として祀られたと考えられています。
また、賀茂祭(葵祭)では、「散飯(さば)」と呼ばれる神饌が本殿より前、
早朝に奈良神社へ供えられ、神饌を清める役割を果たしていたと考えられています。
なら橋
奈良神社の南西方向に「なら鳥居」が建ち、その先の「ならの小川」には
「神事橋(なら橋)」が架けられています。
天正18年(1590)に架け替えられた際に、現在の御影石製の反り橋となりました。
北神饌所
北神饌所(庁屋=ちょうのや)は、寛永5年(1628)に造替えられ、
国の重要文化財に指定されています。
往古は神饌の調進所でしたが、その後には政所として活用されることがあり、
「庁屋」とも呼ばれました。
競馬会神事(くらべうまえじんじ)では、競馬(くらべうま)の騎手である
乗尻(のりじり)の勧杯の儀が行われます。
また、能舞台としても使用されています。
校倉
南側の校倉には三手(みて)文庫が保管されています。
三手とは同社社家である東手、中手、西手あわせて百数十家の総称で、
その寄合(よりあい)の中心である三手若衆(わかしゅ)が経営していました。
元禄15(1702)に組織が整えられ文庫が発足して、
明治初年(1868)に神社に移管されました。
また、江戸時代中期の国学者・今井似閑(いまいじかん)の
大量の蔵書が奉納されています。
井戸舎
校倉から東へ進むと井戸舎があります。
境内の東端にあり、何故ここにあり、どのように使われていたかは不明です。
山森神社
「ならの小川」の方まで戻り、下流側へ進むと末社の山森神社があり、
素戔嗚命・稲田姫命・田心姫命が祀られています。
素戔嗚命は、伊弉諾命と伊弉冉命から天照大御神、月読命に次いで産れたとされ、
出雲へ旅立つ前に天照大御神と別れの挨拶をしようと高天原へ上りました。
しかし、天照大御神は素戔嗚命が攻め入って来たと思い、武装して応対しました。
素戔嗚命は疑いを解くために誓約(うけひ)を行い、
その時産れたのが宗像三女神で、田心姫命はその一柱です。

高天原での素戔嗚命の行動は粗暴であったため、
天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまいました。
そのため、素戔嗚命は高天原を追放され、
出雲の鳥髪山(現在の船通山=せんつうざん)へ降り下りました。
その地を荒らしていた八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい娘・
稲田姫命を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治しました。
素戔嗚命は稲田姫命をもとの姿に戻して妻とし、
出雲の須賀(すが)の地で暮らしたとされています。
この故事から稲田姫命は「櫛名田比売(くしなだひめ)」とも呼ばれています。
梶田神社
山森神社の下流側に末社の梶田神社があり、
瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)が祀られています。
人の穢れを早川の瀬で浄める神とされています。

一の鳥居を出て摂社の大田神社へ向かいます。
続く

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