総門
龍安寺から「きぬかけの路」を北上した所に金閣寺があります。
現在、金閣寺では令和2年(2020)12月までの予定で、舎利殿(金閣)の
屋根の葺き替え工事が行われています。
また、平成28年(2016)に金閣寺が行った通路の設置工事の場所に、
七重の塔の土台部分があったと指摘され、
府と市による合同の発掘調査が行われています。
この調査の期間は不明です。
この記事は、これらの工事や調査が行われる以前の平成30年(2018)のものです。

金閣寺は山号を「北山(ほくざん)」寺号は正式には
「鹿苑寺」と号する相国寺の境外塔頭です。
室町幕府第三代将軍・足利義満の北山山荘を、義満の死後に寺としたもので、
義満の法号・鹿苑院殿にちなんで「鹿苑寺」と称されました。
義満の法号は釈迦が初めて説法をした所・「鹿野苑」に因みます。
平成6年(1994)にはユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の
構成資産に登録されています。
神仏霊場の第93番札所でもあります。

背後に見える総門は皇居から下賜されました。
開門時間は午前9時ですが、既に数台の観光バスが駐車し、
門前には長い行列ができていました。
現在の駐車場にはかって、「北山大塔」と呼ばれる七重塔が建築されていました。
それに先立つ応永6年(1399)に義満は、相国寺に
高さ109.1mの七重塔を建立しました。
しかし、塔は応永10年(1403)に落雷により焼失し、
承応2年(1653)に後水尾上皇が大塔を再建されました。
その塔も天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、
その跡地には後水尾上皇の歯髪塚が残されるに至りました。
義満は相国寺七重塔の再建を目指し、応永11年(1404)に
この地で七重塔の建立に着工したのですが、
応永23年(1416)に完成間近の塔に落雷があり、焼失しました。
平成27年(2015)の発掘調査で相輪の破片が見つかり、推定される直径から、
現存する東寺の五重塔(全高55m/相輪直径1.6m)の相輪の
1.5~2倍の高さがあったと推定されています。
但し、東寺の五重塔の相輪の高さは不明です。
庫裡-北側
門をくぐって参道を進んだ北側に、明応・文亀年間(1492~1504)に
建立されたと推定されている庫裏があります。
昭和62年(1987)までは宿坊として使われていました。
唐門
庫裡の先に方丈への唐門があります。
鐘楼
庫裏の南側に鐘楼があり、梵鐘は鎌倉時代前期に鋳造されました。
西園寺家の家紋(巴紋)が入り、
その音色は「黄鐘調(おうじきちょう)」とされています。
兼好法師の『徒然草』第220段には以下のように記されています。
「西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、
叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。」

鎌倉時代の元仁元年(1224)、この地には藤原公経(西園寺公経)が営む
広大な山荘「北山第(きたやまだい)」が造営されました。
境内に氏寺である西園寺が建立され、その寺名から
「西園寺」と称するようになりました。
南北朝時代の建武2年(1335)、七代目・公宗(きんむね)は、
後醍醐天皇を北山第に招き、暗殺を企てましたが発覚し、処刑されました。

その後、北山第は衰微し、足利義満に譲られました。
足利義満は応永4年(1397)に荒廃していた北山第を、
改築や新築するなどして一新し、「北山殿」と称しました。
その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約され、
応永元年(1394)に子の義持に将軍職を譲った後も北山殿で政務を執っていました。
義満のための北御所、夫人・日野康子のための南御所、後円融天皇の母である
崇賢門院のための御所、金閣と二層の廊下で繋がっていた会所の天鏡閣、
泉殿など数多くの建物が建ち並んでいました。
崇賢門院の姉妹の紀良子は義満の生母になります。
義満は応永11年(1404)から明との間で勘合貿易を開始し、莫大な利益を得ました。
明の使者は度々北山殿に訪れています。
応永15年(1408)に義満が亡くなり、相国寺塔頭の鹿苑院に葬られましたが、
明治の廃仏毀釈で鹿苑院は廃寺となり、
現在では義満の墓所は定かではありません。

第4代将軍・足利義持は父・義満とは不仲で、
北山殿に住んでいた異母弟の義嗣を追放し、北山殿に入りました。
義嗣は義満から偏愛され、義満の後継者になると見られていましたが、
義満の急死により、後継者を遺言されることも無く、
将軍職は義持に引き継がれることになりました。
義嗣は応永23年(1416)に関東で起こった「上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱」に乗じて
神護寺へ出奔しましたが、乱への関与を疑われ、
応永25年(1418)に義持により殺害されました。
義持は応永16年(1409)には北山殿の一部を破却し、
祖父の2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の住んでいた
三条坊門邸(京都市中京区)へ移り、北山殿は日野康子の居所となりました。

応永26年(1419)に日野康子が亡くなると、北山殿には舎利殿(金閣)、
護摩堂、法水院が残され、天鏡閣は南禅寺へ、寝殿は南禅院、
懺悔胴は等持寺、公卿の間は建仁寺へ移築されました。
応永27年(1420)に北山殿は義満の遺言により禅寺とされ、
夢窓疎石を開山とし、義満の法号「鹿苑院殿」から「鹿苑寺」と称されました。
方丈
拝観受付で入山料400円を納め、先へ進みます。
庫裡の東側に本堂に相当する方丈があります。
方丈は安土・桃山時代の慶長7年(1602)に建立され、
江戸時代の延宝6年(1678)に後水尾天皇の寄進により建て替えられました。
平成17年(2005)から平成19年(2007)まで解体修理が行われました。
仏間には本尊の聖観音菩薩坐像が安置されています。
方丈庭園
方丈の南側に縁があり、その前に庭園が築かれています。
陸舟の松-2
方丈の北西側の「陸舟(りくしゅう)の松」は、義満が盆栽として
育てていた松を移植し、帆掛け船の形に仕上げたと伝えられています。
金閣-南-1
金閣は応永5年(1398)に舎利殿として建立されました。
創建当初は池の中にあり、北にあった天鏡閣と空中の廊下で繋がっていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の陣が敷かれ、
焼失は免れましたが、二層の観音像や、三層に安置されていた
阿弥陀如来と二十五菩薩像などが失われました。
また、庭園の樹木の大半が伐採され、池の水量も減っていました。
江戸時代の慶安2年(1649)に金閣の修復が行われ、
以後「金閣寺」と呼ばれるようになりました。
昭和25年(1950)7月2日未明、学僧の放火により金閣は全焼しました。
学僧は寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留め、
事情聴取のために京都に呼ばれた母親は、その帰りに保津峡で投身自殺しました。
現在の金閣は、明治37年~39年(1904~6)の解体修理の際に作成された、
旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、
昭和27年(1952)3月22日から3年を掛けて復元再建されました。
焼失前と再建された金閣には細部に若干の違いがあり、
現在は第二層にも金箔が張られていますが、焼失前には見られず、
創建時に張られていたかも不明です。
焼失前に第二層の東面と西面の中央に窓がありましたが、
再建後は東面と西面は全て壁となりました。
昭和61年(1986)2月から1年8ヶ月かけて行われた「昭和大修復」では、
総工費約7億4千万円を投じて漆の塗り替えや金箔の貼り替え、
天井画の復元等が施されました。
金箔は通常の厚さの5倍ある「五倍箔」が約20万枚使用され、
その総量は約20kgにもなったそうです。
金閣-斜め
屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂には銅製鳳凰が置かれています。
鳳凰及び「究竟頂(くっきょうちょう)」の扁額は、火災以前に
取り外されていたため焼失を免れ、鳳凰は京都市の文化財に指定されています。
現在の鳳凰は2代目で、焼失を免れた鳳凰は別に保存されています。
金閣-初層
初層は「法水院(ほっすいいん」と呼ばれ、
寝殿造りで遊芸や舟遊びができる釣殿でもありました。
金箔は張られず、素木仕上げで白壁造りとなっています。
正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、江戸時代に須弥壇が設けられ、
壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左側に義満坐像が安置されています。
義満は応永元年(1394)に将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居し、
翌年には出家して道義と号しましたが、政治上の実権は握り続けていました。
この坐像は法服をまとっています。
金閣-斜め-2
第二層は仏堂で「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、武家造りの仏間風で、
初層と通し柱が使われ、平面は同じ大きさになり、構造的にも一体化しています。
四方には縁と高欄が巡らされ、外面と高欄には全面に金箔が張られ、
内壁と床は黒漆塗が施されています。
西側に仏間があり、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)、
須弥壇周囲には四天王像が安置されています。
金閣-北
第三層は後小松天皇の宸筆による「究竟頂(くっきょうちょう)」の
扁額が掲げられ、究極の極楽浄土を表しています。
初層、第二層よりも一回り小さく、禅宗様仏堂風の方3間・1室で、
天井や壁を含め内外ともに金箔が張られ、床は黒漆塗で、
内部には仏舎利が安置されています。
漱清
西側には池に張り出して「漱清(そうせい)」が設置されています。
創建時、足利義満はここで手水を使い、金閣へ上がったと伝わります。
鏡湖池-葦原島
鏡湖池(きょうこち)は、その名の通り、金閣を池に映し、
金閣を一段と際立たせています。
池にある最大の葦原島には北側と南側及び島の中に三尊石が組まれています。
鏡湖池-北側からの景色
その他にも入亀島、出亀島、鶴島などの島々や、畠山石、赤松石、細川石など、
諸大名から寄進された奇岩名石が数多く配されています。
鏡湖池-西側
2,000坪の鏡湖池を中心とした庭園全体28,000坪は、
昭和31年(1956)7月19日に国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
かっては、現在の1.5倍の広さがあったのですが、
明治の上地令により縮小されました。
鏡湖池-南側
また、寺領の多くも失われ、経済的基盤が脆弱となったことから
明治27年(1894)から庭園及び金閣を一般公開し、
拝観料を徴収して寺の収入源としました。
銀河泉
金閣の北側から参道を進んだ所に「銀河泉」と呼ばれる清水が湧き出ています。
茶を好んでいた義満はこの湧水を茶の湯に使ったとされています。
巌下水
「銀河泉」の先にある「巌下水(がんかすい)」は
義満が手水に使ったとされています。
虎渓橋
「巌下水」の先にある石段は橋ではありませんが中国の故事
「虎渓三笑」に因んで「虎渓橋」と呼ばれています。
中国・江西省北部の廬山にある東林寺に住した慧遠 (えおん) は、
客を見送る際も寺の前を流れる虎渓に架かる橋を渡りませんでした。
ある日、二人の客が訪れ、見送る時にも話に夢中になって、
気が付いた時には橋を渡っていました。
三人が大笑いしたことから「虎渓三笑」と呼ばれ、三人はそれぞれ、
仏教・儒教・道教を意味し、三教の一致を説いた逸話ともされています。
石段の左右の竹垣は「金閣寺垣」と呼ばれ、左右で組み方が異なっています。
龍門滝
「虎渓橋」の先に西園寺家の遺構である高さ2.3mの龍門滝があります。
滝の下に直立するように配された石は「鯉魚石(りぎょくせき)」と呼ばれ、
滝を登る鯉の姿を表しています。
「鯉は滝を登ると龍になる」という中国の伝説になぞらえて、中国の故事から
「登龍門」のことわざが生まれ、鯉のぼりの風習にもなりました。
「成功へといたる難しい関門を突破した」ことを意味しています。
石仏
龍門滝の先に石仏が祀られていますが、かってこの辺りに天鏡閣がありました。
天鏡閣は二層の会所で、金閣と二層の空中廊下で繋がっていたと伝わります。
また、天鏡閣の北側に泉殿が建てられていました。
安民澤
石仏から東へ坂を登った所に西園寺家の遺構である
「安民澤(あんみんたく)」と呼ばれる池があります。
池中の島には西園寺家の鎮守とされている
「白蛇の塚」と呼ばれる石塔が建っています。
白蛇は弁財天の使いとされ、水の神でもあります。
日照りが続いても池の水は枯れることが無く、雨乞いの場ともされていました。
沢-1
かっては安民澤から水が引かれていたと思われる澤の跡が残されています。
沢-2
西園寺家の時代には高さ45尺(13.6m)の滝が築かれていたと伝わります。
金閣
安民澤の南側から金閣が望めます。
夕佳亭-門
安民澤から南へ進んだ所に茶室「夕佳亭(せっかてい)」があります。
夕佳亭
江戸時代に金閣寺を復興した鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が
後水尾上皇のために、茶道・宗和流の祖である金森宗和に造らせました。
数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳(よ)いという
ことからこの名が付けられました。
明治元年(1868)に焼失し、現在の建物は明治7年(1874)に再建されたものです。
夕佳亭-内部
夕佳亭には「即休」の扁額が掲げられ、南天の床柱が使用されています。
夕佳亭-土間
これは何か?...不明です。
富士形手水鉢
夕佳亭の前には、室町幕府第八代将軍・ 足利義政遺愛の富士形手水鉢があります。
腰掛石
「貴人榻(きじんとう)」は昔、高貴な人が座られた腰掛石で、
室町幕府から寄進されました。
不動堂
夕佳亭から下って行った所に不動堂があります。
鎌倉時代の嘉永元年(1225)に西園寺公経(さいおんじ きんつね)によって
西園寺護摩堂として創建されたと伝わり、堂内に石不動(いわふどう)尊を
まつる石室があり、建物はその礼堂として建立されました。
その後、足利義満の北山殿の時代からは不動堂と呼ばれるようになりましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天正年間(1573~1592)に宇喜多秀家により再建されました。
鹿苑寺に残る最古の建物でもあります。
本尊は弘法大師作と伝わる等身大の不動明王立像の石仏で、
秘仏とされ毎年2月の節分と8月16日に開扉法要(かいひほうよう)が営まれます。
荼枳尼天
不動堂の裏側には荼枳尼天を祀る祠があります。

金閣寺を出て西大路通から北大路通を東へ進み、
「千本北大路」の信号を左折して鷹峯へ向かいます。
続く

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