大極殿信号
南真経寺から東へ進むと「大極殿」の信号があります。
大極殿公園
信号を左折し、その先で左折した先に大極殿公園があり、
「史跡・長岡京跡」の碑が建っています。
大極殿公園-図面
公園の図面です。
大極殿跡-宝幢
公園の右側に宝幢(ほうどう)を立てた柱が復元されています。
宝幢とは「宝珠で飾った幢(はた)」の意味で、元旦に朝賀の儀式が行われた際に
大極殿に7本の宝幢が立てられました。
宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ9mの大柱の上に、
青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の絵と、鳥、月、日の飾り物が掲げられました。
大極殿跡-宝幢の図
宝幢は、大極殿の前約百尺(29.6m)の位置に、東西方向に3mごとに並んでいて、
平成9年(1997)の発掘調査では東側3本の柱の掘跡が見つかり、
その内の2基が再現されています。
大極殿跡
北側へ進むと大極殿跡があり、その中心部分を道路が横断しています。
平城宮跡に復元されている大極殿と比べると、
規模がかなり縮小されているように感じます。
東西42.8m、南北21.6mであったと推定される基壇がコンクリートで復元されています。
大極殿跡-模型
向日市文化資料館に展示されている模型の大極殿部分です。
大極殿跡-石碑
大極殿跡の手前右側には石碑が建立されています。
神亀3年(726)、第45代・聖武天皇は難波京の造営に着手されましたが、
天平12年(740)に恭仁京へ遷都しました。
しかし、都として完成しないまま造営は中止され、
天平15年(743)に天皇は紫香楽宮に移りました。
翌天平16年(744)には難波京へ遷都し、
更に天平17年(745)に都は平城京に戻されました。
大極殿跡-石碑-2
第50代・桓武天皇は南都寺院の影響力を排除するため、
延暦3年(784)に長岡京へ遷都しました。
長岡京の造宮使には藤原種継(ふじわら の たねつぐ)が任命され、
当時山背を開拓していた種継の母の実家・秦氏の協力を得て長岡京が造営されました。
大極殿や朝堂院は難波宮が解体され、移築されました。
しかし、翌延暦4年(785)に種継が暗殺され、暗殺に関わったとして皇太弟だった
早良親王(さわらしんのう)が淡路国への流罪に処せられました。
親王は無実を訴えて断食し、配流先へ向かう途中で憤死しました。
その後、皇太子には安殿親王(あてしんのう=後の第51代・平城天皇)が
立てられましたが疫病が発生して発病し、天皇の妃が相次いで病死しました。
早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われましたが
その後も洪水が発生し、延暦13年(794)10月22日に
都は平安京に遷されることになりました。
大極殿跡-石碑-3
平成天皇・皇后の行幸記念碑。
後殿跡の石碑
後殿跡
ここに後殿(こうでん)がありました。
復元された基壇は東西27.9m、南北12.8mの大きさがあり、
大極殿より一段低い場所にあります。
平安京では「小安殿(しょうあんでん)」と呼ばれ、長岡京では内裏が独立して
離れていたため、天皇が大極殿に昇殿される際、控えの間として使用されていたようです。
奥に見える民家の辺りに内裏からの回廊があったと思われます。
十三重石塔
大極殿跡-礎石
西側には十三重石塔が建ち、発掘された礎石だったと推定される一部が保存されています。
大極殿跡-回廊跡
大極殿を囲む回廊跡の一部です。
大極殿跡-東屋
回廊を模したと思われる東屋。
朝堂院公園
「大極殿」の信号を南へ進んだ阪急「西向日」駅の手前に朝堂院公園があり、
朝堂院西第四堂の跡地となっています。
朝堂院会昌門跡碑
公園の向かい、民家の生垣の間に「長岡宮朝堂院会昌(かいしょう)門跡」の
石碑が建っています。
中山修一氏は昭和29年(1954)に長岡京の発掘調査に初めて着手し、
翌年に朝堂院南門(ちょうどういん・なんもん)跡を発見しました。
長岡京跡の発掘調査はここから始まりました。
「会昌門」は平安京での名称で、長岡宮では「朝堂院南門」と称されています。
翔鸞楼跡
公園内には翔鸞楼(しょうらんろう)跡と朝堂院西第四堂跡
及び南門の西橋の礎石部が残されています。
南門及び翔鸞楼などの図面
翔鸞楼は南門の前に建ち、東の栖鳳楼(せいほうろう)と対を成していましたが、
栖鳳楼は阪急の線路からその横の車道上になります。
南門及び翔鸞楼などの模型
公園内の案内書には南大門から翔鸞楼及び栖鳳楼への模型が展示されています。
翔鸞楼への回廊跡
公園内には手前の南門跡から翔鸞楼への回廊跡が残されています。
朝堂院西第四堂跡
朝堂院西第四堂跡
朝堂院配置模型
朝堂院は政務や国儀を司り、閤門(こうもん)から左右に、南北方向に四棟が並び、
他の三堂に対し、四堂のみが東西に長い建物になっています。
大極殿及び朝堂院の模型
向日市文化資料館には朝堂院と大極殿の模型が展示されていますが、
現在はその跡地の多くに住宅が建ち並び、公園として飛び飛びに跡地が残されています。
但し、模型には翔鸞楼と栖鳳楼が省かれています。
朝堂院東第四堂跡
「大極殿」の信号まで戻り、阪急の踏切を渡って線路沿いに南へ進んだ所に
西向日公園があり、朝堂院東第四堂跡とされていますが、
中央を線路が横切っていますので、西第四堂跡のように整備はされていません。
向日社芝斎場
西向日公園から「大極殿」の信号がある番田通を横断して
北上した所に向日社芝斎場があります。
斎場とは、葬儀が行われる所と思っていましたが、辞書で調べてみると
「神仏を祭るために、特別に設けられた清浄な場所。」の意味もありました。

ここは、5月の第二日曜日に行われる、向日神社の例大祭で神輿巡幸の際に、
鶏冠井(かいで)地区の宮座の方が奉献をする所だそうです。
呑龍トンネル石碑

左側に「いろは呑龍(どんりゅう)トンネル記念碑」の石碑が建っています。
長岡京が造営された昔から、桂川右岸地域は、小畑川、小泉川、桂川の
氾濫に苦しめられてきました。
京都府は、京都市、向日市、長岡京市にまたがる1,838haの区域の浸水対策として、
雨水が流入して増水した川から水を取り込んで貯留するための延長8.8km、
容量約250,000立方メートルの地下トンネル(いろは呑龍トンネル)を作る計画を
策定しました。
計画の若干の変更はありましたが、平成13年(2001)6月1日供用開始が行われ、
この記念碑が建てられたと思われます。
内裏公園
向日社芝斎場の北側に内裏公園があり、内裏内郭築地回廊跡があります。
築地回廊(ついじかいろう)とは、中央に土塀を設けて両側に廊下を通したもので、
昭和41年(1966)に宅地開発の際に発掘されました。
かがり火を焚いた跡や、詰め所のような施設も発見され、重要な施設を厳重に
警護するために造られた廊下と考えられました。
地図的にはこの先でこの先で左折すれば、大極殿裏側の後殿へと直結するように思えます。
そして、昭和44年(1969)には、天皇の住居であった内裏正殿の遺構が確認されました。
この地は、大極殿から東へ200m離れた所にあり、これまでの発掘調査から、
長岡京の内裏は、北真経寺の少し南側を中心に160m四方の広さから
なっていたことが推察されています。

北真経寺へ向かいます。
続く

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