鳳凰堂-正面-2
平等院がある地にはかって、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の
源融(みなもと の とおる)が営む別荘がありました。
その後、第57代・陽成天皇の離宮となった後、第59代・宇多天皇に渡り、
天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)に摂政・藤原道長の別荘「宇治殿」となりました。
万寿4年(1027)に道長が亡くなり、子の関白・藤原頼通は
永承7年(1052)に宇治殿を寺院に改めました。
これが平等院の始まりで、頼通が開基で開山(初代執印)は
天台宗寺門派・園城寺長史・明尊としました。
 明尊(みょうそん)は小野道風の孫で、幼いときに園城寺に入り、
余慶から顕教・密教の2教を学び、慶祚(けいそ)からその奥義を伝授されました。
塔頭の円満院を創建して住し、園城寺法務を兼ね僧正にまで至りました。
創建当初の平等院は、北大門が宇治橋の西辺り、西大門がJR宇治駅辺り、
南大門は浄土院南の現在の旧南門辺りにあり、本堂(金堂)は宇治川の岸辺近くに建てられ、
大日如来を本尊とする、藤原氏の氏寺でした。
鳳凰堂-正面-1
現在の鳳凰堂は天喜元年(1053)に阿弥陀堂として建立され、国宝に指定されています。
鳳凰堂は極楽浄土にあるという阿弥陀如来の宮殿をイメージして建てられたと伝わります。
飛鳥時代に伝来した仏教は現世での救済を求めるものでしたが、
平安時代後期になると釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという
末法思想が広く信じられるようになりました。
当時は都の治安が乱れ、疫病の流行や火災が発生するなど、混乱が相次ぎ、
人々の不安は一層深まっていました。
現世での救済を諦め、極楽浄土を願うようになり、貴族は西方極楽浄土の教主とされる
阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営しました。
寛和元年(985)に源信により記された『往生要集』では、地獄の惨状が説かれると共に、
生者が生前に自らの死後、浄土への往生を願う信仰へと変わりました。
鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは
『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、
現世の極楽浄土として造られました。
極楽浄土の現世とは、平等院そのものであり、「極楽いぶかしくば、
宇治のみてらをうやまえ」とまで歌われました。
平等院の平等とは、「生きていく者に与えられた機会の平等」であり、
「最後の救済が平等に約束されている」ことを意味して名付けられました。
南翼廊
南翼廊
北翼廊
北翼廊
阿弥陀如来
阿弥陀如来
鳳凰堂は平安時代は「阿弥陀堂」、「大堂」または「御堂」とも呼ばれ、
「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降と推察されています。
鳳凰堂を正面から見ると、中央に中堂、左右(南北)に北翼廊、南翼廊が接続して建ち、
左右対称の建物全体が鳳凰の形に似ているからとも、
棟飾りの鳳凰に起因するとも言われています。
全体の建物の大きさは、南北41.5m、東西31.8m、高さ13.6mあります。
中堂は一重裳階付(いちじゅうもこしつき)の建物で、裳階中央の屋根は一段高く切り上げられ、
対岸から本尊を拝することができるように設計されています。
裳階の屋根上には周囲を囲む高欄が設けられ、その上の屋根は大きく張り出しています。
創建当初は屋根の重量を軽減するために木瓦葺(こがわらぶき)だったと考えられています。
現在の鳳凰堂には52,049枚の瓦が使用されていますが、
康和3年(1101)の修理で総瓦葺きに改修されたと推定されています。
室町時代には、「藤原頼道が死後、龍神となり平等院を守護している」との伝承から、
中堂には龍頭瓦が飾られていました。
しかし、屋根が重くなり、明治の修理前までは屋根の垂れ下がりを防止するための
突っかえ棒が設置されて、外観を損ねていたそうです。
鳳凰-1
現在の鳳凰は二代目で、初代のものは国宝に指定され、鳳翔館で展示されています。
鳳凰像は南北一対で、雄・雌の区別は無いようですが、左右で大きさは異なります。
鳳凰像は鳳凰堂の建立当時に、定朝によって原型が造られたとされ、
金銅製で北方像は総高235.0cm、像高98.8cm、総幅34.5cm、
南方像は総高228.8cm、像高95.0cm、総幅44.5cmの大きさがあります。
阿字池
鳳凰堂は阿字池の中島に、東を正面として建てられ、
彼岸の中日には太陽は本尊の正面から昇り、背後に沈みます。
庭園は極楽浄土を具現化したものとされ、阿字池は『観無量寿経』の極楽浄土
「宝池(ほうち)」を表しているとされています。
池は亡くなった人々が往生する所とされ、極楽浄土には欠かせないものとされています。
池に注がれる川は無く、池の水は西側で湧き出て、「阿弥陀水」と呼ばれ、
宇治七名水の一つにも数えられています。
平成2年から15年(1990~2003)にかけて行われた発掘調査で、拳大の玉石を敷き詰めた
平安時代の洲浜が出土し、池の面積は現在よりも広く、
左右の翼廊の端は池の中に建っていたことが判明しました。
昭和32年(1957)の鳳凰堂解体修理の際に、木杭の護岸に改修されていましたが、
現在は平安時代より狭くなりましたが洲浜が復元されています。
この浄土式庭園は国の史跡・名勝に指定されています。
また、鳳凰堂前の石灯籠は「平等院形」と呼ばれ、重要美術品に指定されています。
尾廊
阿字池の北側です。
鳳凰堂の西側には尾廊と呼ばれる建物が接続され、鳳凰の形が表されているようです。
尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものと考えられています。
鳳凰堂へと架けられた反橋に平成14年~15年(2002~2003)の復元工事で
手前の平橋が新造されました。

鳳凰堂の内部拝観は別途300円が必要で、1回の定員が50名で拝観時間は20分となり、
先に受付で予約を済ませる必要があります。
堂内の撮影は禁止されていますが、現在でも修復工事が行われ、足場が組まれていました。
(平成30年11月15日現在)
本尊は阿弥陀如来坐像で国宝に指定されています。
像高277.2cm、鳳凰堂建立時に晩年の仏師・定朝の作で、確証のある唯一の遺作となっています。
円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とする定朝の優美で温和な作風は、
「仏の本様」と称されて平安時代の貴族にもてはやされ、
以後の仏像彫刻には定朝様(よう)が流行しました。

像内には木板梵字阿弥陀大小呪月輪(もくはんぼんじあみだだいしょうじゅがちりん)と
木造蓮台が納められ、国宝の附(つけたり)に指定されています。
月輪は満月のように丸い形をしており、梵字で阿弥陀大呪と小呪が記されています。

光背は金箔の二重円相光背で、火炎透し彫りが施され、上に大日如来、
その下に12躯の飛天が配されています。
うち6躯は創建時のものと見られ、当初は十二光仏の化身とも伝わります。

阿弥陀如来像の頭上には木造天蓋が吊られ、国宝に指定されています。
折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾され、
中央部には銅製で大型の八花鏡がはめられ、
堂内に入る光を反射したと考えられています。
方蓋の内側には、夜行貝から切り出した螺鈿が張り付けられ、
宝相華唐草や蝶の文様が表現されています。
方蓋の四隅には宝相華唐草が透かし彫りされた垂板24枚が吊るされています。

長押(なげし)上の小壁には52躯の「雲中供養菩薩像」が掛けられています。
鳳凰堂の創建当時に定朝工房によって制作されたもので、南北それぞれコの字形に
阿弥陀如来を囲んで並んでいます。
当初、何躯あったかは定かで無く、現在残さている52躯の殆どが菩薩形の像で、
僧形の像も5躯あり、現在は半数の26躯が鳳翔館で展示されています。
像は阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したものとみられています。
各像のポーズは変化に富み、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの
楽器を奏する像が27体あり、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、
立って舞う姿のものなどがあります。

本尊を取り囲む壁扉画(へきひが)14面は、現存する最古の大和絵風
九品(くほん)来迎図」、扉画2面に「日想感図」が描かれ、
本尊後壁画1面と共に国宝に指定されています。
生前の行いや信仰により、阿弥陀如来の来迎に9種類の差があるとされ、
本尊が対面する東正面中央の扉には上品上生の図が描かれています。
その扉の左右の扉には上品中生と上品下生、北側側面の扉に中品上生、
その奥の板壁に中品中生、南側側面の扉に下品上生、その奥の板壁には
下品中生の来迎図が描かれています。
本尊後壁画は前面の東側と後面の西側にも描かれ、前面に阿弥陀浄土図(諸説あり)、
後面に下品下生、中品下生が描かれています。
本尊の後ろ、西側の扉に日想感図が描かれていますが、
本尊後壁画と共に拝観ができる所からは見ることができません。
当初は平安時代後期に描かれましたが、北面壁、南面壁、仏後壁は土壁から板壁に
変更されたため、鎌倉時代に描かれました。
但し、仏後壁の前面は調査の結果、平安時代後期に描かれたことが判明しました。
東正面中央の上品上生の図が描かれた扉は、江戸時代の寛文10年(1670)の
修理の際に取り替えられ、国宝の「九品来迎図」から外れ、「附(つけたり)指定」となっています。
また、正面と南北側面のオリジナルの扉は取り外して鳳翔館で展示されています。
中堂の柱や天井にも宝相華唐草文様が極彩色で描かれ、天井には66個の
銅製鏡がはめこまれており、こちらも国宝に指定されています。
鐘楼-1
鳳凰堂を出て、阿字池の前を南へ進んだ所に納経所があり、
平等院は神仏霊場の第125番札所となっています。
納経所から西側の石段を上った所に鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘は鳳凰堂の創建当時に鋳造されたと推定され、国宝に指定されていますが、
この鐘楼のものは模造で、オリジナルは鳳翔館に展示されています。
総高199cm、口径123.6cmあり、宝相華唐草の地文の上に
鳳凰や踊る天人、龍などの模様が入っています。
「天下の三名鐘」の一つとして「姿の平等院」と称されています。
(三名鐘=声の園城寺鐘・勢いの東大寺鐘)

浮島へ向かいます。
続く