タグ:題目石塔

山門
石塔寺から五辻まで戻り、五辻から東へ進んだ北側に南真経寺があります。
南真経寺は山号を鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院です。
関西最初の碑
山門前には「日蓮宗関西最初弘教之地」の石碑が建立されています。
徳治2年(1307)頃、日像は乙訓郡山崎付近にとどまり、布教活動をを行っていました。
当時、鶏冠井(かいで)には「真言寺」と称する真言宗の寺院がありました。
住僧・実賢(しっけん)は日像の教化により日蓮宗に改宗し、
寺名を「真経寺」に改めました。
「真」は真言宗から、「経」は日像の幼名「経一丸」によります。
江戸時代の承応3年(1654)、真経寺は二つに分かれ、北真経寺は檀林(仏教の学問所)、
南真経寺は鶏冠井村の村民の信仰の場となりました。
京都府無形民俗文化財に指定されている「鶏冠井題目踊」は真経寺で始まり、
北と南に分かれてからは交互に奉納されるようになりました。
その後、廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
開山堂
山門をくぐった正面にあるのは本堂ではなく開山堂です。
開山堂は京都府指定有形文化財で、寛永11年(1634)に建立されました。
開山堂-扁額
開山堂に掲げられた扁額「真経寺」は本阿弥光悦の筆によるものです。
本堂
本堂は京都府指定有形文化財で、正徳4年(1714)に再建されました。
本尊は十界曼荼羅です。
南真経寺は寛永年間(1624~1644)に、明治8年(1875)に廃寺となった
興隆寺の一角に移転したとされ、南真経寺には本堂がありませんでした。
現在の本堂はかっては「境智堂」と呼ばれていました。
日蓮像
日蓮聖人像
日蓮聖人は文応元年(1260)に『立正安国論』を執筆し、
鎌倉幕府第五代執権・北条時頼に提出しました。
浄土宗など他の宗派は邪宗とし、このまま放置すれば国内で内乱が起こり(自界叛逆難)、
外国からは侵略を受けて滅びる(他国侵逼難)と唱え、正法である法華経を中心
(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)と説きました。
禅宗の信者だった時頼は、日蓮聖人を伊豆国への流罪と処しました。
鐘楼
鐘楼は元禄12年(1699)に再建されました。
庫裏の門
庫裏への門
庫裏
庫裏
西門
西門
西門前の題目石塔には「寛永6年(1629)」と刻まれています。

大極殿公園へ向かいます。
続く

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説法石
向日神社前に説法石があります。
日蓮宗の開祖・日蓮聖人の孫弟子にあたる日像は、
布教のため永仁2年(1294)に京都へ訪れました。
他の宗派からの迫害を受け、度々京都から追放されました。
西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄り、この説法石に腰を下ろして
村人に日蓮聖人の教えを説いたと伝わります。
題目石塔
また、日像はこの地に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔を建てました。
五辻
向日神社から南へ進むと五辻の交差点があります。
平成24年(2012)、五辻に常夜灯が復活されました。
五辻の常夜灯は慶応元年(1865)に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の一つである
京都の千眼講によって建てられた石灯籠です。
江戸時代の終わり頃からは、眼病によく効く水があることで
楊谷寺へ参詣する人が増えていきました。
京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に
一対の大きな石灯籠が建てられました。
当時、この地は、向日神社の境内地でしたので、
その過程が神社の古文書に残されていました。
昭和初期の新道建設時に、南側に有った1基は移設され現在は長岡京市梅が丘に、
北側の1基も昭和44年(1969)頃の歩道工事の時に楊谷寺の表参道にある
大阪府島本町と長岡京市の境付近に移設されました。
山門
五辻から細くはなりますが、直進するのが西国街道で、
南へ進んだ東側に石塔寺があります。
石塔寺は山号を法性山と号する本化日蓮宗本山の単立寺院です。
鎌倉時代末の延慶3年(1310)に、日像は京都の七口に題目石塔の建立を目指し、
向日神社前に題目石塔を建立しました。
室町時代の文明年中(1469~87)に、日成は向日神社にあった題目石塔を現在地に移し、
石塔の傍らに本堂を建立したのが石塔寺の始まりとされています。
現在は山門前に題目石塔が残されています。
江戸時代の寛文年間(1661~72)には独立本山に成長し、
末寺は近畿一円に総数33ヶ寺に達しました。
明治9年(1876)、興隆寺を吸収合併し、翌年に本堂など伽藍の整備が行われました。
付近には石塔寺にちなんだ地名が残されていることから、
伽藍の壮大さをうかがうことができます。
また、この付近は、長岡京の時代に藤原種継が暗殺された場所や、
平安時代に紀貫之が京に入る前に休息した「島坂」など
歴史が偲ばれる場所でもあります。
日像菩薩御石像
寺号標石の裏側に「日像菩薩御石像」と刻まれた石碑が建っています。
日像は文永6年(1269)に下総(現在の千葉県)で生まれ、7歳の時に出家し、
日蓮聖人の六大弟子であった兄・日朗の弟子となりました。
25歳の時、日蓮聖人から「帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)」の
遺命を託され、京都での布教活動を行いました。
しかし、他の宗派からの迫害を受け、三度の追放と赦免という
「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けました。
三度目の京都追放から赦免された後、弘通の勅許を得、妙顕寺を開きました。
建武元年(1334)、妙顕寺は後醍醐天皇の勅願寺となり、足利将軍家の祈祷所にもなりました。
興国3年/康永元年(1342)に入滅され、深草の宝塔寺で荼毘に付され葬られました。
没後、日蓮聖人、日朗上人、日像上人は天皇から菩薩号を賜わりました。

石塔寺では、毎年5月3日に「鶏冠井題目踊」が奉納されます。
日蓮宗に改宗した鶏冠木(かいで)の村人の家に日像が立ち寄った時、炊事場の湯気に
「南無妙法蓮華経」の題目が浮かび、それを見た村人が歓喜のあまり踊りだしたのが
「鶏冠井題目踊」の始まりとされています。
当初は、北真経寺と南真経寺で交互に奉納されていたのですが、
廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
鶏冠井題目踊は京都府無形民俗文化財に指定されています。
松の切り株
本堂前の松の木は伐採されていました。
伐採前の松
伐採前の松。
枯れてしまったのかもしれません。
本堂
本堂は鉄筋コンクリート造りです。
本尊は三宝尊で、仏の第一を釈迦如来、法の第一を法華宗、僧の第一を日蓮聖人とし、
仏・法・僧の三宝の各第一を一つの本尊にまとめたものが三宝尊とされています。
妙見堂
妙見菩薩が祀られた妙見堂だと思われます。
日蓮宗の檀越であった下総の豪族・千葉氏が妙見菩薩を守護神としていたことから、
日蓮宗の寺院妙見菩薩が祀られるようになったとされています。
七面堂と迹殿
手前の七面堂には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が祀られていると思われます。
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ
日蓮宗系において法華経を守護する女神とされています。
その本地は、山梨県の七面山山頂にある敬慎院に祀られている神で、
吉祥天とも弁財天ともいわれています。

身延に隠棲していた日蓮聖人は、説法をしていた時に美しい女性に気付きました。
実はその正体は紅龍で、「私は七面山に住む七面大明神です。
身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。
末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き
心の安らぎと満足を与えます」と述べ、七面山山頂の方へと飛び去りました。
日蓮聖人は、「いつか七面山に登って七面大明神をお祀りしよう」と考えていたのですが、
生きている間に叶わず、弟子の日朗と南部實長(なんぶさねなが)が登山して、
七面大明神を勧請し、身延山久遠寺の守護神としたと伝わります。

奥の迹殿(じゃくでん)の詳細は不明ですが、
石塔寺に合併された興隆寺と関係があるようです。
鐘楼
鐘楼
庫裏
庫裏

南真経寺へ向かいます。
続く

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