縣神社(あがたじんじゃ)から東へ約1分歩いた所に平等院の南受付所があります。
画像はありませんが、南受付所の向かいに有料駐車場があり、かっては経堂がありました。
経蔵は平安時代の永久元年(1113)に建立され、
一切経と共に藤原氏の家宝も納められていました。
「宇治の経蔵」として摂関家の権威の象徴とされていましたが、
南北朝時代に焼失し、その後再建されること無く、現在は駐車場と化しています。
旧南門
受付所で拝観料600円を納め、進んだ先に豊臣秀吉が築城した伏見城から
移築された「旧南門」があります。
主要な部材の殆どがアカガシの巨木で造られています。
アカガシは固く火に強い反面、ねじれが起きやすいため、樫材による建築物はこれまで
日本で確認されたことはありませんでした。
城造りの天才として知られた秀吉による城門「薬医門」の現存する最古のものです。
門の右側には平成13年(2001)にオープンした「平等院ミュージアム鳳翔館」があります。
養林庵書院
門を入った先に慶長6年(1601)に伏見城から移築したと伝わる「養林庵書院」があり、
国の重要文化財に指定されています。
内部は非公開ですが、広縁中央には寛永の三筆の一人、
松花堂昭乗による扁額「養林庵」が掲げられています。
襖絵「籬(まがき)に梅図」は狩野山雪工房、床壁絵「雪景楼閣山水図」は
山楽により描かれています。
浄土院-本堂
浄土院-本堂
 「養林庵書院」の先に平等院塔頭の浄土院があります。
浄土宗の栄久上人(えいくしょうにん)が明応年間(1492~1501年)に
平等院修復のために開創した寺と伝わり、以後平等院の管理を担いました。
本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代後期~南北朝時代の作とされ、
京都府の文化財に指定されています。
帝釈天立像は仏師・康尚(こうじょう/こうしょう)の作とされ、
宇治市の文化財に指定されています。
康尚は定朝の父で、「仏師職の祖」と称されています。
浄土院-弁財天
また、本堂には救世船乗観音像が安置されています。
救世船乗観音は江戸時代以来、鳳翔館の南西角辺りに建立されていた
浄土院支院の観音堂の本尊でした。
平等院の地は交通の要衝であったことから、旅の安全と無事を祈願されていましたが、
戦後間もなく盗難に遭い、平等院開創950年祈念事業の一環として復元、安置されました。

非公開ですが平等院山内で最も古い書院の大書院があり、後醍醐天皇が三種の神器を納め、
平等院に逗留したと伝わる御座所が残されています。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇による鎌倉倒幕計画が密告によって露見し、
後醍醐天皇は三種の神器を持って比叡山に頼ろうとしましたが失敗し、笠置山に籠城しました。
その途中、天皇が逗留されたのだと思われます。
その後、笠置山は落城して後醍醐天皇は捕えられ、翌年隠岐島に配流されました。(元弘の乱
浄土院-庫裡
浄土院-庫裡
羅漢堂
浄土院境内の北側には羅漢堂があります。
江戸時代の寛永17年(1640)に禅宗様で建立されました。
羅漢堂-堂内
堂内には十六羅漢像などが安置され、鏡天井には龍の彩色画が描かれています。
上村竹庵の碑誌
羅漢堂の西側に「宇治茶祖・上村竹庵の碑誌」が建ち、元禄12年(1699)と記されています。
宇治茶は鎌倉時代の初期に栄西が宋から持ち帰った茶種を明恵に送り、
明恵はその茶種を京都の北、栂尾の高山寺付近に植えました。
明恵はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、
茶の木を移植したのが宇治茶の始まりです。
萬福寺の山門前に明恵の『栂山の尾の上の茶の木分け植えて跡ぞ生うべし
駒の足影』と詠んだ歌碑が建っています。
明恵が馬にのり、その馬の足影(足跡)に茶の種を植えることを、
宇治の里人に教えた様子が詠まれています。
13世紀半ば、第88代・後嵯峨天皇(在位:1242~1246年)が宇治を訪れたのを機に、
平等院に小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、

この地で本格的な茶の栽培が始まったとされています。

上村竹庵の詳細は不明ですが、以下のような逸話が残されています。
『竹庵は千利休を茶会に招いたのですが、緊張のあまり、茶杓や茶筅を落したり、
湯をこぼしたりと粗相をしてしまいました。
これを見た利休の弟子たちは心の中で笑っていましたが、お茶会が終ると利休は
「ご亭主のお点前は、天下一でございます」と称賛しました。
弟子たちは、それを不思議に思い利休に訪ねると、利休は「竹庵は、
私達に最もおいしいお茶をふるまおうと一生懸命だったのです。
ですから、あのような失敗も気にかけず、ただ一心にお茶を点てたのです。
その気持ちが一番大事なのです。」と答え、弟子たちを戒めたと伝わります。
通円の墓-1
境内の東側に通圓家初代・太敬庵通圓政久(たいけいあんつうえんまさひさ)の墓があります。
通圓家の初代は源頼政の家臣で、古川右内という武士でした。
晩年隠居をして頼政の政の一字を賜って太敬庵通圓政久と名乗り、
平治の乱直後に宇治橋東詰に庵を結びました。
治承4年(1180)に頼政が以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒の兵を挙げると、
頼政の元へ馳せ参じ、宇治橋の合戦で平家軍と戦ったのですが、討ち死にしました。
太敬庵通圓政久の子孫は、代々、通圓の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を仰せつかり、
道往く人々に茶を差し上げて橋の長久祈願と旅人の無病息災を願いました。
宇治橋東詰にある「お茶の老舗・通圓」は平安時代後期の永暦元年(1160)に創業され、
その子孫により現在も引き継がれています。

最勝院-門
最勝院-山門
最勝院
浄土院の北側に塔頭の最勝院があります。
平等院は創建当初、天台宗寺門派に属し、園城寺(三井寺)の下に置かれました。
室町時代以降は天台宗寺門派の、大津市にある円満院の門主が
平等院の住職を兼任しました。
安土・桃山時代の明応年間(1492~1501年)に浄土宗の浄土院が創建され、
平等院が修復されるようになると、天正10年(1582)に円満院の門主による兼務が断絶し、
慶長15年(1610)以降、天台宗は平等院を放棄しました。
江戸時代の承応3年(1654)に天台宗系の最勝院が創建され、
寛文2年(1662)には円満院の兼帯所となりました。
江戸時代の天和元年(1681)に寺社奉行の裁定により、平等院は浄土宗の浄土院と
天台宗系の最勝院の共同管理となりました。

現在の平等院は山号を「朝日山」と号する特定の宗派に属さない単立の寺院です。
平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録され、
神仏霊場の第125番札所にもなっています。
最勝院開祖の碑
境内には「最勝院開祖 澄栄師之碑」が建立されています。
澄栄師は六角堂付近にあった勝仙院の僧でしたが、平等院に移り、
住庵を「最勝院」と称しました。
不動堂-1
境内の南側に不動堂があります。
不動堂-2
堂内には「災難除け不動明王」が祀られています。
源頼政の墓所
境内には源頼政の墓所があります。
源頼政は保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で
源氏の長老として中央政界に留まって平清盛から信頼され、
晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列しました。
しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である
以仁王(もちひとおう)と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えました。
治承4年(1180)に計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、
そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ平等院の
「扉の芝」で自害しました(以仁王の挙兵)。
地蔵堂-堂内
建物の画像はありませんが地蔵堂には「池殿地蔵尊」が祀られています。
観音堂
最勝院から北へ進んだ所に鳳凰堂の内部拝観の受付が行われています。
1回の拝観できる人数が限定されていますので、予約の受付となります。

予約を済ませ、北側の観音堂へ向かいます。
観音堂は鎌倉時代に本堂跡に創建され、重要文化財に指定されていますが、
内部は非公開です。
本尊は重要文化財に指定されている平安時代作で、像高167.2cmの
十一面観音菩薩立像ですが、現在は鳳翔館に安置されています。
扉の芝
観音堂の北側に「扉の芝」があり、源頼政が自害した場所とされています。
表門
「扉の芝」の先にJRや京阪宇治駅からの表参道の表門があります。

鳳凰堂の正面へ向かいます。
続く

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