仁王門
京都は連日35度を超える猛暑が続いていますが、早朝のこともあり、
国道162号線は山の中を縫うように走るため、空気は冷ややかで、バイクで走ると爽快です。
かっては、曲がりくねった峠を超えていた所も、今はトンネルで快調に走れます。
以前は名田庄まで国道162号線を走っていたのですが、スマホのナビから
弓削(ゆげ)から府道78号線へ入るように指示され、その後、19号線から368号線、
12号線を経て国道162号線に合流しました。
道の駅・名田庄の先から県道16号線(坂本高浜線)に入り国道27号線に合流しましたが、
国道では渋滞が発生していました。
しばらく渋滞とお付き合いし、「関屋」の信号を右折して山手へ入って行くと、
松尾寺の横へと続いていました。
自宅を5時に出発し、ほぼ予定通りの8時過ぎに松尾寺に到着しました。
更に車道を下って右折すると仁王門の前に出ます。
仁王門は江戸時代に再建されたもので、京都府の文化財に指定されています。
松尾寺は、天正8年(1580)の織田信長の丹後攻めの命を受けた
細川藤孝の兵火によって堂宇をことごとく焼失しました。
藤孝の嫡男・忠興(ただおき)は信長の薦めにより、天正6年(1578)に明智光秀の
娘・玉(ガラシャ)と婚姻しています。
しかし、丹後攻めでは丹後国守護の一色氏に反撃されて敗退し、
後に光秀の加勢を得て丹後南部を平定しました。
信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められ、宮津城を居城としました。
北半国の中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である
一色氏が領有し、分け合う形となりました。
天正10年(1582)の本能寺の変では、藤孝は親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、
剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗って田辺城に隠居し、
忠興に家督を譲りました。
松尾寺は、細川藤孝や京極家によって復興された後、江戸時代の
享保15年(1730)に牧野英成によって現在の姿に整備されました。
牧野英成は、丹後田辺藩第3代藩主で寺社奉行を経て京都所司代に就任しています。
仁王門-扁額
松尾寺は「若狭富士」と呼ばれている青葉山(693m)の
中腹にあり、山号を青葉山と称します。
仁王門には山号の扁額が掲げられています。
仁王像写真
仁王像は鎌倉時代の作で、京都市の文化財に指定され、
現在は宝物殿に安置されています。
その代役として写真が門番をしています。
霊宝殿
仁王門をくぐった右側に宝物殿があります。
宝物殿は、開創1300年記念事業として、平成20年(2008)建設され、
東京・京都・奈良各博物館に寄託していた国宝や重要文化財を収蔵しています。
中でも仏画「絹本着色普賢延命菩薩像」は、舞鶴市唯一の国宝で、第74代・鳥羽天皇が
行幸の際、寄進されたと伝えられていますが、
美福門院による寄進の方が正しいように思われます。
絹本着色普賢延命菩薩像は、美福門院の念持仏であったと伝わります。
藤原 得子(ふじわら の とくし/なりこ)は長承3年(1134)に鳥羽上皇の寵愛を
受けるようになり、保延5年(1139)5月18日には
躰仁親王(なりひとしんのう=後の近衛天皇)を出産しました。
久安5年(1149)8月3日には美福門院の院号を宣下されています。
弁才天
宝物殿の向かい側には放生池があり、池の中には弁財天を祀ると思われる祠があります。
本坊への門
池の北側には風格のある門があり、門の先は本坊へと続きますが、門は閉じられています。
本堂への石段
仁王門への石段に続き、本堂への石段を上ります。
本堂
石段を上った正面に美しい二重屋根の本堂があります。
松尾寺は、和銅元年(708)に唐の僧・威光上人によって開基されたと伝わります。
青葉山は二つの峰を持ち、それが中国の馬耳山という霊験のある山と
山容が似ていたことから登山され、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、
草庵をを結ばれたのが始まりとされています。
また青葉山北麓の若狭神野浦(こうのうら)の漁師・春日為光が海難に遭遇し、
一浮木で助かり、その木が馬頭観音であったとも伝わります。
元永2年(1119)には、鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を賜り、
寺坊は65を数えて栄えました。
その後、美福門院(1117~1160)の崇敬を受け、伽藍と15宇の坊舎が再建され、
平安時代の末期には観音霊場の一として庶民の信仰を集めるようになりました。
寺蔵の「松尾寺参詣曼荼羅」には、中世末から近世初期にかけて本堂を中心とした
七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、松尾寺の隆盛が偲ばれます。
本堂は天正8年(1580)に焼失後、細川藤孝により再建され、
慶長7年(1602)には初代宮津藩主・京極高知により修復されました。
しかし、寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の火災で本堂などを焼失し、
享保15年(1730)に牧野英成により大修復されたと伝わります。
本尊
書写山圓教寺に祀られている松尾寺の本尊。
本尊は馬頭観音坐像で、西国三十三所観音霊場の第29番札所本尊でもあります。
西国三十三所観音霊場で唯一の観音像ですが秘仏とされ、
最近では草創1300年を記念して平成20年(2008)から1年間開帳されました。
因みにその前の開帳は77年前の昭和6年(1931)です。
御前立
現在の本堂では厨子の扉は閉じられ、御前立が安置されています。
馬の像
本堂の左前には馬の像が奉納されています。
馬頭観世音が農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通 、
更には競馬に因む信仰を集めていることから奉納されたものと思われます。
修行大師像
本堂前の参道の東側に修行大師像が祀られ、その右側には高野槇が植栽されています。
松尾寺は真言宗醍醐派の寺院で、高野槙は高野山では霊木とされています。
子抱き地蔵尊
大師像の南側に子供を抱いた地蔵像が奉納され、その背後には上部の無い灯篭が
石の玉垣で囲われていますが、詳細は不明です。
観音像
境内の南西側には、観音像が祀られています。
経蔵
観音像の右側に江戸時代に建立され、京都府の文化財に指定されている経蔵があります。
六地蔵
経蔵の右側を西へ進んだ先に地蔵堂と思われる建物があります。
縁側には六地蔵が祀られています。
祠
本堂の裏側の左方向に丹塗りの祠があります。
祠内の石碑
閼伽井では?と思われたのですが、中を覗いて見ると石碑が祀られていました。
但し、その石碑の詳細は不明です。
心霊閣
心霊閣の扁額
本堂の右側にある建物には「心霊閣」の扁額が掲げられています。
役行者像
堂内の左端には役行者像が安置されています。
屋根
また、小さなお堂の屋根が置かれていました。
渡り廊下
心霊閣から本堂へは渡り廊下で結ばれています。
登山口
廊下をくぐった先に「京都の自然200選」に選定されている青葉山への登山道があります。
青葉明神
登山道から横に入った所に「青葉大権現」が祀られた祠があります。
石仏
祠の背後には多くの石仏が山積みされています。
両部鳥居
心霊閣の左側を東へ進んだ先に六所神社と思われる社殿があります。
両部鳥居が神仏習合の名残を示しています。
狛犬
苔むした狛犬と石灯籠が歴史を感じさせます。
六所明神
由緒等を示す駒札などがありませんので祭神等、詳細は不明です。
銀杏の木
神社前の参道を西へ進んだ左側にイチョウの大樹が聳えています。
樹齢約870年と推定され、根回りは6mあり、舞鶴市の文化財に指定されています。
元永2年(1119)に鳥羽天皇が行幸の際に手植えされたと伝わります。
鐘楼
イチョウの木に隣接して鐘楼があります。
納経所
本堂前の石段を下って納経所へ向かいましたが、
現在工事中で車道を挟んだ向かい側に臨時の納経所がありました。
方丈
工事中の納経所の奥には方丈と思われる建物があります。

多禰寺(たねじ)へ向かいます。
続く

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