タグ:馬頭観音峠

寺号標
馬頭観音峠を超えると、北区上賀茂から左京区岩倉となります。
峠から下った右側に圓通寺があります。
街道に面して寺号標が建っていますが、こちらから入ることは出来ません。
横には「切通石碑」が建ち、馬頭観音峠の開削工事に関する
事柄が記されているようですが、判読は困難です。
門柱
街道を進み、その先で右折した所に圓通寺の門柱が建ち、
左側には「幡枝離宮(はたえだりきゅう)」と刻まれています。

圓通寺は、正式には「大悲山勅願所御幸御殿圓通寺」と号する
臨済宗妙心寺派の寺院です。
霊泉庵
門柱から入ると右側に駐車場があり、突き当りには霊泉庵の門がありますが、
閉じられており、公開はされていません。
五輪塔
その石垣には五輪塔が祀られていますが、詳細は不明です。
山門
駐車場から東へ進んだ左側に山門があります。
拝観受付
その先に拝観受付があり、拝観料は500円です。
弁財天社
受付から入った左側に弁財天社があります。
玄関への石段
右側は庫裡で、石段を登った先に玄関があります。
高浜虚子句碑
玄関の手前から山門の方へ進むと高浜虚子の句碑があります。
「柿落ち葉 踏みてたづねぬ 圓通寺」
圓通寺は借景の庭、柿、ツツジの寺として親しまれています。
鐘楼
その参道の北側に鐘楼があります。
第112代・霊元天皇(在位:1663~1687)は勅願寺と定め、
梵鐘を寄進して度々行幸されました。
潮音堂
更に北側に潮音堂があり、西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られています。

玄関から入り、方丈へと向かいます。
建物内の撮影は禁止され、画像はありませんが、北側に仏間があり、
本尊の聖観世音菩薩像が安置されていますが、秘仏とされ
正月三が日のみ開帳されるそうです。
清涼寺式釈迦如来立像は、かっては秘仏だったそうですが、
現在は常時開帳されています。

圓通寺は後水尾上皇が造営された幡枝離宮の跡です。
第108代・後水尾天皇は慶長16年(1611)に即位しましたが、
江戸幕府は慶長20年(1615)に「禁中並公家諸法度」を公布し、
朝廷の行動全般が幕府の管理下に置かれました。
徳川家康は、天皇家を押さえつけようとする一方で、天皇の外戚となることを計り、
孫娘の和子を入内させました。
しかし、天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかね、
寛永6年(1629)に幕府への通告なしに譲位しました。
以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行いますが、
上皇と幕府との確執は続きました。
そのような最中の寛永16年(1639)に造営されたのが幡枝離宮です。
庭園
比叡山が最も美しく見える地を、12年間も探し求めていた上皇が、
ようやくこの地にたどり着き、離宮を造営しました。
杉と檜の巨木を通して、築山に比叡山を見立てた借景庭園を築き、
40数個の巨石は遠く紀州からも運び込まれました。
その石の配置には上皇自らも手を加えたと伝わります。
庭園-北東側
400坪の苔庭の北東寄りに石が配され、中には2/3が土中に
埋まっているものもあります。
庭園-亀石
立体的な石だけで無く、細長い石もあり、亀に似た石組みもあります。
現在、この庭園は国の名勝に指定されています。
また、京都市はこの景観を保護するために「眺望景観創生条例」を定め、
建物の高さだけでなく、屋根の形式なども制限しました。

しかし、この地は水に乏しく、池泉回遊式の庭園を求め、
新たに修学院の方で離宮を造営することとなりました。
幡枝離宮は近衛家に譲渡され、延宝6年(1678)に圓光院文英尼が
景川宗隆(けいせんそうりゅう)を勧請し、開山として寺に改めました。

文英尼(ぶんえいに:1609~1680)は、後水尾天皇の生母・
近衛前子(このえ さきこ:1575~1630)に仕え、
寛永14年(1637)に出家して文英尼と号しました。
姉の園光子(その みつこ:1602~1656)は、後水尾天皇の後宮となり、
素鵞宮(すがのみや=後の第110代・後光明天皇)を出産しました。
また、光子の兄の娘・園国子(その くにこ:1624~1677)も
後水尾天皇の後宮となり、第112代・霊元天皇を出産し、
文英尼は霊元天皇の乳母となりました。

景川宗隆(1425~1500)は、雪江宗深(せっこうそうしん)禅師の後を継ぎ、
妙心寺の再興に尽力した一人です。
土蔵
境内の北側に土蔵があり、その手前の土塀は台風で被災し、
下側が剥がれ落ちています。
基金が募られ、一刻も早い修復が望まれます。

幡枝八幡宮へ向かいます。
続く

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深泥池
大田神社から東へ進んだ所に深泥池(みどろがいけ)があります。
太古、京都盆地は巨大な湖でした。
徐々に水が引き、三方を山で囲まれたこの地で、唯一水が流れ出る所に
約1万年に賀茂川からの堆積物により塞がれて池になったと考えられています。
従って池に流入する河川は無く、昭和2年(1927)に松ケ崎浄水場が建設されてからは
その配水池より若干の漏水が流入しています。
南側にできた自然堤防は、飛鳥時代(592~710)半ばに人の手が加えられ、
自然堤防に人工堤防が増築されました。

深泥池が形成されたのは最終氷期(7万年前~1万年前)の末期と考えられ、
その時代からの生き残りとされる生物と、温暖地に生息する生物が共存しています。
窒素やリンなどの無機塩類がほとんど含まれない貧栄養性の湿原のため、
有機物の分解が進まず、枯死した植物が堆積していくために、
コケ類を始め多様な植物が生育する絶好の場となっています。
「深泥池生物群集」として国の天然記念物に指定されています。
深泥池-浮島
周囲1.5km、面積9haの池の中央部分には池全体の1/3を占める浮島がありますが、
冬になると沈んで冠水します。
やや高い部分は冠水しないので、アカマツ・ネジキ等の樹木が成育しています。

歴史的には菅原道真の編纂により、寛平4年(892)に完成した
類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし)』に第53代・淳和天皇が
天長6年(829)の冬10月10日に「泥濘池」なる所に行幸して
鳥網(とりあみ、とあみ)を使って水鳥の猟を行ったという記述があり、
これが文献での初見とされています。
泥濘(ぬかるみ)とあるように、現在でも水深は深い所でも2m余りで、
池底には土砂や枯死した植物が厚く堆積しています。

平安時代中期の歌人・和泉式部は
「名を聞けば 影だにみえじ みどろ池に すむ水鳥の あるぞあやしき」
と詠み、公卿・藤原実資(ふじわら の さねすけ:957~1046)は、
日記『小右記』に「美度呂池」と記しています。
室町時代になると、「美曽路池(みぞろいけ)」や「美曽呂池」と
表記されるようになり、江戸時代には
「御菩薩池(みぞろいけ)」と記されています。
「美曽呂池」や「御泥池」の表記も見られますが、江戸時代には「御菩薩池」が
一般的な名称であったと考えられ、明治の神仏分離令で、
当地で祀られていた地蔵菩薩が上善寺へ遷されたことにより
「深泥池」と記されるようになりました。
「深泥池」の読みは、「みどろ(が)いけ」「みぞろ(が)いけ」の
二通りが存在し、統一はされていません。
市道
池の西側の市道「岩倉上賀茂線」を進みます。
かっては、この車道も池の一部であったと思われます。
この付近で、雨が降る深夜にタクシーが、雨に濡れた女性客を乗せたところ、
その女性客が姿を消し、後部座席のシートが濡れていたという
怪事件が発生したと伝わります。
深泥池は「底なし沼」などと噂され、心霊スポットともなっているようです。
大日如来堂
市道を北上した先で左折すると旧鞍馬街道に突き当たり、
その角に大日如来を祀る祠がありますが、詳細は不明です。
深泥池貴船神社-入口
その対面、旧鞍馬街道に面した西側に深泥池貴船神社があります。
江戸時代の寛文年間(1660~1670)に、当地の農民が貴船神社から分霊を勧請し、
祀られるようになりました。
当地から貴船神社までは徒歩で2時間弱の距離ですが、貴船川及び鞍馬川の洪水や
冬季の積雪などから本宮への参拝が困難となるため、勧請されたと思われます。
池大雅の碑
一の鳥居の脇に、江戸時代の文人画家 (南画家)で書家の池大雅(いけの たいが)
「生誕地 ゆかり之地」の碑が建っています。
池大雅は 享保8年5月4日(1723年6月6日)に深泥池の農家に生まれましたが、
父は京都銀座役人の手代を務めていました。
4歳の時に父を亡くし、7歳で本格的に唐様の書を学び始め、
それを萬福寺で披露したところ、その出来栄えに僧たちから
「神童」と絶賛されました。
15歳で扇屋を開き、扇子に絵を描いて生計を立てる一方、
柳沢淇園(やなぎさわ きえん:1703~1758)から文人画を学び、
独自の画風を確立しました。
深泥池に因み、「池大雅」と名乗ったと伝わります。
深泥池貴船神社-二の鳥居
石段を登った途中の北側に二の鳥居が建ち、その先は割り拝殿となっています。
深泥池貴船神社-本殿-1
本殿
祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、水や雨を司る神ですが、
当地では農耕をはじめ、住民の安寧、除災招福の守護神として信仰されています。
深泥池貴船神社-弁財天社
本殿の背後に弁財天社があります。
深泥池貴船神社-石仏-1
山側には二躯の石像が祀られています。
深泥池貴船神社-石仏-2
どちらも役行者と思われますが、詳細は不明です。
秋葉神社
二の鳥居前まで戻り、山側への石段を登った所に秋葉神社が再建されています。
かつて、深泥池は七つ森七軒村といわれ、その一番森を「消し山」と称し、
火伏の神である秋葉神社が1200年前から祀られていました。
また、この地は上賀茂神社の社領であったため、神仏混交の社であった
秋葉神社は、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、社家により破却されました。
その祟りか、翌年の春に大火が起こり、村民らは家財農具の一切を焼失しました。
失意した人々が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも
漬け物桶だけが焼け残っていました。
疲労と空腹に耐えていた人々が漬け物桶をあけると、中の漬物は火が通り、
良い匂いがしたので、村の長が漬物の茎を一本試食しました。
「酸い茎や」と言ったのが、すぐき発祥の歴史とされています。
秋葉神社は「すぐきの神」として平成4年(1992)に再建されました。
地蔵堂
街道を少し南へ進むと地蔵堂があります。
安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には深泥池が記され、
「御菩薩池(みそろかいけ)」と記されています。
池の畔に地蔵堂も描かれ、「六地蔵廻りの其一なり」と記されています。
往古、深泥池の水面に地蔵菩薩が顕れたと伝わり、江戸時代には既にこの地で
地蔵菩薩が祀られ、六地蔵巡りの霊地として栄えていたようです。

六地蔵巡りは、小野篁(おののたかむら:802~853)が嘉祥2年(849)、48歳の時に
重病に陥り、危篤状態となって冥土の世界を彷徨うようになりました。
その時、地蔵菩薩が顕れ、人間界に戻って人々を救済するよう託され、
現世に蘇ったと伝わります。
仁寿2年(852)に篁は、木幡山から桜の大樹を切り出し、六躯の地蔵菩薩像を刻んで
大善寺に安置しました。
保元2年(1156)に都で疫病が発生したため、後白河上皇の勅命により
平清盛が西光法師に命じて京都の街道の入り口、六ヶ所に六角堂を建て一躯づつ、
地蔵菩薩像を安置しました。
最初に刻まれた一躯は、伏見街道から奈良街道の入口に当たる大善寺に残され、
都への疫病の侵入を防ぎ、街道を行き交う人々の安全が祈願されました。
その後、今から約800年前に、8月22日23日の両日にこれらの六地蔵を巡り、
1年の家内安全や無病息災、疫病退散が祈願されるようになりました。

当地は鞍馬口のの地蔵堂として、六地蔵巡りの霊地となっていましたが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、上賀茂神社は地蔵菩薩像を
上京区の上善寺へ遷しました。
「御菩薩池」という地名は実を失い、換わって「深泥池」という地名が
用いられるようになったとされています。
その後、当地で疫病が流行り、現在の2代目の地蔵菩薩像が安置されました。
地蔵堂-石仏
境内には石仏が祀られ「和尚」と記されていますが、詳細は不明です。
また、地蔵堂は深泥池貴船神社の境内地なのか、地蔵堂の背後の建物は
深泥池貴船神社の社務所です。
馬頭観音峠
再び街道を北上すると馬頭観音峠があります。
移動や荷運びの手段として馬が使われるようになりましたが、
そのような馬を供養するため街道や峠などで馬頭観音が祀られるようになりました。
この峠にも馬頭観音が祀られていましたが、近年、持ち去られたそうです。

圓通寺へ向かいます。
続く

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