桜-1
月讀神社から北へ約400m進むと松尾大社の無料駐車場があります。
桜-2
3月26日に参拝した時には駐車場のフェンス沿いの桜が満開でした。
駐車場奥の鳥居
駐車場の奥に鳥居が建ち、奥には土俵が見えます。
毎年9月の第一日曜日に、松尾大社では八朔祭が行われ、
当日には「八朔相撲」と称される相撲神事が催されています。
大山咋神(おおやまぐいのかみ)が御子神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
に相撲を見せるために始まったとされています。
松尾大社の社伝では鎌倉時代から続けられているとされ、
現在では国民体育大会の京都府予選を兼ねています。
神饌田
鳥居をくぐった左側に平成18年(2006)に再興された神饌田があり、
毎年6月に「御田植式」が行われています。
7月の「御田祭」では、神饌田で「虫除け行事」が行われ、
10月の「抜穂祭」で稲の刈り取りが行われます。
車のお祓い所
駐車場には車の交通安全を祈願する御祓所があります。
山吹
改めて4月15日に駐車場から境内に入った際には山吹が満開となっていました。
お酒の資料館
参道の右側には「お酒の資料館」があり、無料で見学することができます。
松尾大社は秦氏によって創建され、酒造は秦一族の特技とされてきました。
松尾大社は室町時代末期以降、「日本第一酒造神」として信仰されています。
大樽
お酒の資料館前の大樽。
一の鳥居
府道29号線に面し、一の鳥居が建っています。
29号線の向かい側には阪急嵐山線の「松尾大社」駅があります。
松尾大社の旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
また、京都市最古の神社の一社であり、神仏霊場の第87番札所です。
二の鳥居
二の鳥居には「脇勧請」と呼ばれる榊の小枝を束ねたものが吊り下げられています。
鳥居の原始形式で、上古は参道の両側に二本の木を植えて神を迎え、
柱と柱の間に縄を張り、その年の月数だけの細縄を垂れて、
月々の農作物の出来具合を占ったとされています。
大坂の商人から信仰を集めた神峯山寺(かぶさんじ)では、
社会情勢や物価の高低なども占われたそうです。
駕輿丁船
駕輿丁船(かよちょうふね)は、毎年4月20日以後の第一日曜日に行われる
神幸祭(おいで)の船渡御に使用されます。
松尾祭は平安時代の貞観年間(859~877)から行われ、
古くは「松尾の国祭」と呼ばれていました。
3月中卯(なかのう)に神幸祭、4月上酉(かみのとり)に
還幸祭(おかえり)が行われていました。
昭和36年(1961)から現在の様に、4月20日以後の第一日曜日に出御、
それから21日目の日曜日に還御となり、昭和58年(1983)からは
船渡御が20年振りに復旧されました。
客殿
参道の北側に客殿があります。
蓬莱の庭-右側
客殿の東側に松風苑三庭の一つ「蓬莱の庭」があります。
松風苑三庭は、重森三玲(しげもり みれい:1896年8月20日~1975年3月12日)氏
によって作庭され、1億円の工費と1年の工期を費やし、昭和50年(1975)に完成しました。
蓬莱の庭-滝
池全体は羽を広げた鶴が形どられ、池の中央には滝組があります。
蓬莱の庭-左側
蓬莱の庭はかって、造られた池庭を利用して鎌倉時代の回遊式庭園を取り入れて
作庭され、三玲氏の没後に長男・完途(かんと)氏が完成させました。
楼門
楼門は江戸時代の初期に建立されました。
随身像-右
随身像-左
かっては随神の周囲に張り巡らせた金網には、願い事が記された、
多くのの杓子が差されていました。
杓子
ご飯をすくう杓子に神に救われたいという気持ちが込められたものですが、
現在は門の横に「杓子置き所」が設けられています。
新型コロナの影響で参拝する人も少なく、「杓子置き所」の空きがむなしく感じられます。
一ノ井川
門をくぐると秦氏によって開削された「一ノ井川」の水路があります。
水車
上流には水車がありますが、回転はしていません。
手水舎-1
手水舎
手水舎-亀
亀と鯉は松尾大神の神使いとされています。
撫で亀
撫で亀
健康長寿の御利益あるとか...
授与所
参道の左側には授与所があります。
樽うらない
授与所前の「樽うらない」
拝殿
拝殿
向拝-1
向拝
松尾大社は大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、勅命により
大杉谷の磐座の神霊を勧請し、秦氏の氏神として当地に
社殿を建立したのが始まりと伝わります。
平成26年(2014)3月に本殿背後の樹木を伐採した際に巨大な岩肌が露出し、
大杉谷の磐座で行われた祭祀を遷すに相応しい場所として
当地が定められたとする説があります。
都理の娘・知麻留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、養老2年(718)に
知麻留女の子・都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務め、
以後はその子孫により代々奉斎されてきました。
秦氏は秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283)に百済から民を率いて日本に帰化した
弓月君(ゆづきのきみ=融通王)が祖とされています。
渡来した一族は数千人から1万人とされ、大和国の葛城に定住し、
5世紀後半から末頃に山背国へ本拠を移したと考えられています。
第38代・天智天皇(在位:668~672)は山背国への遷都を考え、
秦氏による山背国の開拓を薦めていたとされています。

松尾大社は天平2年(720)に「大社」の称号が許され、延暦3年(784)に
第50代・桓武天皇により長岡京へ遷都された際には従五位下の神階が叙せられ、
延暦5年(786)には従四位下に昇叙されました。
平安京へ遷都後の貞観8年(866)に正一位の神階に達し、延長5年(927)成立の
『延喜式』神名帳では名神大社に列せられ、月次祭・相嘗祭・新嘗祭で
幣帛に預かった旨が記載されています。

明治維新後は、明治4年(1871)5月14日に近代社格制度において「松尾神社」として
官幣大社に列し、戦後は神社本庁の別表神社に列せられ、
昭和25年(1950)8月30日に「松尾大社」に改称されました。
向拝-2
本殿は弘安8年(1285)の焼失後に室町時代初期の応永4年(1397)に再建され、
天文11年(1542)に大改修が成されました。
桁行三間・梁間四間、一重、檜皮葺で、屋根は側面から見ると前後同じ長さに
流れており、この形式は「両流造」とも「松尾造」とも称される独特のものであり、
国の重要文化財に指定されています。
現在は新型コロナの影響で、鈴緒を触れないように横に振られています。

主祭神として大山咋神(おおやまぐいのかみ)と
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
『古事記』では大山咋神は松尾山と日枝山(ひえのやま=比叡山)に鎮座すると記され、
松尾大社と日吉大社の東本宮で祀られています。
日吉大社・東本宮の八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、
古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、
共通点が多いことが指摘されています。

大山咋神と鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)は夫婦神とされ、
鴨玉依姫神が川上から流れてきた丹塗矢で懐妊し、上賀茂神社
祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を生んだとの伝承で、
丹塗矢は角宮神社(すみのみやじんじゃ)の火雷神(ほのいかづちのかみ)ではなく、
松尾明神としています。

賀茂氏は秦氏が山背へ進出する前から土着していたとされ、秦氏が賀茂氏と
融合するために松尾明神と賀茂別雷命を親子関係として「葵祭」と称した
松尾祭と賀茂祭の似たような祭祀が行われたとの説があります。

市杵島姫命は、松尾大社の伝承では天智天皇7年(668)に松尾山の磐座に降臨された
としていますが、降臨したのは松ヶ崎との説もあります。
また、市杵島姫命が航海守護の性格を持つことから、大陸出身の秦氏にとって
必要な神であり、巫女が松尾大社の祭祀主体であったことに由来するとの説もあります。
幸運の双鯉
向拝の右側には「幸運の双鯉」が祀られています。
幸運の撫で亀
左側には「幸運の撫で亀」が祀られています。
松尾明神は大堰川を遡って丹波地方を開拓する際に、急流では鯉に、
緩流では亀に乗ったとの伝承から、鯉と亀は神使いとされています。
重軽の石
重軽の石は、「まず石を持ち上げ、次に願いを込めてもう一度持ち上げ、
最初より軽く感じれば願いが叶い、重く感じれば叶い難し」と記されています。
相生の松-1
相生の松
相生の松-2
雌雄根を同じくする樹齢350年の大樹でしたが、昭和31~32年(1956~7)に相次いで
枯死し、昭和47年(1972)4月に切り株が残され、覆屋が設けられて祀られるようになりました。
相生の松-写真
枯死する前の写真
椋の霊樹
「椋の霊樹」は平成5年(1993)7月に枯死した、かっては蓬莱の庭入口に聳えていた
樹齢800年の椋の木でした。
神輿庫
境内の南側に神輿庫があります。
松尾祭では前の菰樽(こもだる)は回廊前に移され、6基の神輿が組み立てられます。
松尾祭では松尾七社の神輿が巡幸されますが、月読社の神輿は
桂川の氾濫で神輿が流出したため、唐櫃(からびつ)が用いられます。
本殿南側の境内社
本殿の南側には、手前から祖霊社、金刀比羅社、一挙社、衣手社の社殿が並んでいます。
境外末社の衣手神社は右京区西京極東衣手町にあり、
松尾七社の一社に数えられ、松尾祭では神輿が二番目に巡幸されます。
衣手社の祭神は羽山戸神(はやまとのかみ)で、「羽山」は山の麓の意味で、
山の麓の神とされています。
穀物の神である大年神と、生命力に満ちた太陽の女神とされる
天知迦流美豆比売( あまちかるみづひめ)との間に生まれた神とされ、
松尾大社の祭神・大山咋神と兄弟神となります。
各種御神体
各種御神体
伊勢神宮揺拝所
伊勢神宮揺拝所
本殿背後の岩
本殿背後の巨大な岩肌
本殿背後の社叢(しゃそう)は、京都市内周辺の極相林と考えられる照葉樹林で、
社叢内の沢筋を中心として、カギカズラが野生しています。
この種が分布するのは、亜熱帯から暖温帯にかけてであり、代表的な南方系植物です。
葉のわきに「かぎ」があり、その「かぎ」を他の木に引っ掛けて
上方に伸身する特徴を持っています。
日本では九州、四国、中国南部、近畿南部のほか千葉県下にも分布が見られますが、
気象条件から、この植生が分布の北限と考えられ、植物地理学上、価値が高いため
「松尾大社のカギカズラ野生地」として京都市の天然記念物に指定されています。
カギカズラは鎮痙剤(ちんけいざい)や鎮痛剤など、薬用としても利用されています。
北清門
回廊の北側には「北清門」があります。
社務所
境内の北側には社務所があります。
神使の庭
社務所前には「神使の庭 亀と鯉」が築かれています。
祓戸社
祓戸社
回廊をくぐる
回廊をくぐって進みます。
本殿の屋根
回廊をくぐった参道からは、特色のある本殿の屋根が見えます。
三宮社・四大神社
左・三宮社(さんのみやしゃ)、右・四大神社(しのおおかみのやしろ)
共に松尾七社で四大神社の神輿は一番目に、三宮社は三番目に巡幸されます。
四大神社の祭神は春若年神(はるわかとしのかみ)、夏高津日神(なつたかつひのかみ)、
秋比売神(あきひめのかみ)、冬年神(ふゆとしのかみ)で、四季折々、
年中平安を護る神とされています。
秦氏の遠祖を祀ったものと考えられ、境外の社はありません。

三宮社の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、境外の三宮神社は
右京区西京極川勝寺北裏町14に鎮座しています。
地名の「川勝寺(せんしょうじ)」は、秦氏の族長的な人物であり、
聖徳太子に強く影響を与えた秦 河勝(はた の かわかつ)に由来しています。
滝御前社
三宮社から左上方へ進んだ所に滝御前社があり、
罔象女神(みつはのめのかみ)が祀られています。
天狗岩-写真
背後の岩肌に天狗岩があります。
天狗岩
撮影する角度により、滝御前社前ではこのように写ります。
滝は「霊亀(れいき)の滝」と称されています。
霊亀元年(715)、この谷から首に3つ、甲羅に7つの星があり、黄金色をした
亀が見つかり、朝廷に献上されました。
吉兆の徴として年号が「霊亀」に改められたと伝わります。
亀の井-1
神泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないと伝えられ、
醸造家がこれを持ち帰って混ぜるという風習が現在も残っています。
亀の井-2
松尾大社が酒の神として信仰されるのはこの亀の井に由来するもので、
その信仰により全国に創立された松尾神の分社は1,280社にも及びます。
また、古来から「延命長寿の水」とも「「よみがえりの水」とも呼ばれ、
諸病の治癒に霊験ありと伝わり、現在も水を汲みに来られます。
葵殿
「亀の井」の右側に結婚式場の葵殿があります。

画像を撮り忘れましたが、葵殿の北側に神像館があります。
神像館と松風苑三庭の拝観はセットになって500円で、
神像館の館内撮影は禁止されています。
神像館には平安時代から鎌倉時代作の御神像21躯が展示されています。
平安時代初期作で一木造りの等身大坐像3躯は、主祭神の
大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と
その御子神とされ、我が国の神像彫刻中、最古最優品として
重要文化財に指定されています。
また、摂・末社に安置されていた御神像18躯が収蔵され、その中には
康治2年(1143)の銘があるものや、僧形の像、能面・翁のルーツといわれる
笑相の像などがあります。
但し、御神像の保存状態は良いとは言えず、亀裂が目立つものもあり、
補修が可能か不安になります。
即興の庭
神像館と葵殿の間に即興の庭が作庭されています。
当初の計画に無く、即興的に造られたことから名付けられました。
手前は白川砂、奥の方には赤い錆砂利が使われています。
曲水の庭-1
神像館と葵殿の前方に曲水の庭が作庭されています。
背後の建物は神像館
曲水の庭-2
背後の建物は葵殿
平安時代の曲水式庭園を範とし、石が張られた州浜の清流と、
サツキの刈込に配された立石で構成されています。
上古の庭
神像館の右側には上古の庭が作庭されています。
山中にある神蹟の磐座に呼応して山下に新たに造られました。
上部の巨石は大山咋神と市杵島姫命が表され、それを取り巻く多数の岩は
随従する神々が表されています。
また、ミヤコザサが植えられ、人が入れない高山の趣が表されています。
上古の庭-上部
上部の巨石
登拝道-入口
神像館の裏側に、山中にある神蹟の磐座への登拝道がありますが、
平成30年(2018)9月の台風21号により倒木や山崩れが発生し、
登拝道の修復は困難として磐座への登拝は廃止となりました。
登拝道
標高233mの松尾山には七つの谷があり、その一つである大杉谷の
頂上付近に巨大な岩石があり、上古から祭祀が行われていました。
松尾大社はこの磐座で祀られていた神霊を勧請して創建されたと伝わり、
磐座は「ご神蹟」と称されていました。
台風で被災する以前は一般にも登拝が許可されていました。

梅宮大社へ向かいます。
続く

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