霊屋への門
南院のすぐ西側に徳川家霊台への受付があります。
拝観料200円を納め、進んだ先に石段があり、その上に門があります。
かって、この地には大徳院があり、大徳院が東照宮を勧請しました。
大徳院は高野三方(学侶方・行人(ぎょうにん)方・聖方)のの一つ、聖方の代表寺院で、
代々徳川家との関係が深く、家康によりそれまで「蓮華院」と
称されていたのを、「大徳院」に改めました。
聖方は、当初は高野山の念仏修行者を指していましたが、平安中期以降、
諸国に勧進を行い、高野山に対する信仰を広め、「高野聖」と呼ばれました。
大徳院は明治になって他の寺院に併合され、徳川家霊台だけが残されました。

構造材に寛永10年(1633)の墨銘書(ぼくめいしょ)があることから、
この頃から造営が着工されたと推定されています。
寛永16年(1639)には、第3代将軍・家光が大壇主となり、寛永20年(1643)に竣工し、
4月17日には落慶法要が行われました。
家光は諸大名へ東照宮の造営を進言し、全国で500社を超える東照宮が造営されましたが、
明治維新以後の廃仏毀釈などで現存するのは約130社とされています。
家康の霊屋-全体
石段を上って門をくぐると、向かって右側に家康の霊屋(たまや)があり、
前には鳥居が建ち、周囲は透塀(すきべい)で囲われています。
家康の霊屋
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に亡くなり、
翌元和3年2月21日(1617年3月28日)には、朝廷から「東照大権現」の神号を宣下されました。
正保2年(1645)に宮号の宣下があり、東照大権現は「東照宮」と称するようになりました。

黒漆塗りに飾り金具や彫刻が施され、周囲には縁と勾欄をめぐらせています。
内部は非公開ですが、絢爛豪華(けんらんごうか)な須弥壇(しゅみだん)と
厨子(づし)を設け、蒔絵などが施されているそうです。
寅の彫刻
向拝の蟇股には寅の彫刻が施されています。
秀忠の霊屋-横
家康の霊屋前から隣の第2代将軍・秀忠の霊屋を望みます。
秀忠の霊屋-全体
向かって左側には秀忠の霊屋があります。
秀忠の霊屋-正面
家康・秀忠の両霊屋はともに方三間宝形造(一辺6.7m)で一間の向拝を有し、
屋根は瓦棒銅板葺で、国の重要文化財に指定されています。
兎の彫刻
向拝には唐破風が付き、秀忠の方は蟇股に兎の彫刻が施され、
生まれ年の干支と思われます。
大徳院絵図
大徳院の古地図には境内の東端に尊牌堂(そんぱいどう)が描かれています。
三代将軍以下および御三家の位牌が祀られていましたが、
明治21年(1888)に焼失し、再建されずにいます。
金輪塔
徳川家霊台を出た車道の向かいに金輪公園があり、
公園内に「金輪塔」と呼ばれる多宝塔が建っています。
金輪塔は検校を務めた明算大徳(1021~1106年)によって創建され、
現在の塔は天保5年(1834)に再建されたもので高さは18mあります。
金輪仏頂尊を本尊としています。
かって、公園内に不動堂がありました。
明治32年(1899)に旧・国宝に指定され、明治41年(1908)に解体修理が行われた際に、
壇上伽藍の現在地に移されました。

女人堂ヘ向かいます。
続く

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