鎌神社-社標
慈尊院から西へ進み、少し山手へ登ったかつらぎ町兄井に鎌八幡宮と諏訪明神社があります。
鎌八幡宮の御神体は、三韓討伐の際に神功皇后が用いた幡と熊手とされています。
当初は、讃岐国の多度津辺りに祀られ、「熊手八幡」と称されていましたが、
弘法大師が高野山を開山した時に大師を慕い追ってきました。
伝承では幡は上空を飛んできて、紀の川べりの松の木に引っ掛かったとされ、松の木があった
兄井の跡地には「幡掛松跡」の石碑が建てられています。
また、白龍が紀の川を遡上してきて、やがて熊手に姿を変え、兄井村の神主によって
引き取られ、神社の木に立てかけられていました。
ある日、農作業をしていた村人が鎌をその木に打ち付けて休憩し、その後、
鎌を抜こうとしたのですが、引き抜くことができなくなりました。
この話を聞きつけた高野山の僧侶はきっと霊験のあるものだと幡と熊手を
高野山に持ち帰りました。
幡と熊手は高野山行人方のお守りとして、幡と熊手を担いで山内の寺を巡る、
「巡寺八幡」と呼ばれる儀式が明治まで行われていました。
行人方は、寺院の管理・法会といった実務を行った集団で、僧兵としての役割も担いました。
明治の神仏分離令による変遷を経て、幡と熊手は兄井の鎌八幡宮に戻されました。
その後、神社と小祠(しょうし)の統廃合が行われ、明治40年(1907)までには兄井、
寺尾の神社が丹生酒殿神社に合祀されました。
諏訪神社
石段を上った所に諏訪明神社があります。
鎌神社
諏訪明神社の左側に鎌八幡宮があります。
鎌神社-御神体
鎌八幡宮の御神体はイチイガシの木で、『紀伊続風土記』によると、イチイガシの木に
鎌を打ち込むことで、これを献じて祈願成就を願います。
成就する場合は鎌がさらに深く食い込んでいき、叶わない場合はそのまま木から
外れ落ちるという不思議なことが起きるとされています。
三谷こども園
鎌八幡宮から三谷の方へと戻る県道沿いに三谷こども園があります。
以前は三谷小学校で、明治時代には「臨降小学校」と呼ばれていました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、丹生酒殿神社の別当護摩院の建物は
臨降小学校の校舎に転用されました。
酒殿神社-鳥居
三谷こども園前を通り過ぎた先で山手に入った所に丹生酒殿神社があります。
神社がある榊山一帯は、原初、先祖霊を祭祀する聖域でした。
第10代・崇神天皇の御代(BC97~BC30)、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)が、
その第一御子・高野明神と120の眷属を従え、七尋滝(ななひろのたき=酒殿神社の裏手)に
降臨されたと伝わります。
丹生都比売大神は、天照大御神の妹神であり、高野御子と共に大和・伊勢地方を巡歴し、
農耕、糸紡ぎ、機織り、煮炊きなどを人々に教えられました。
また、紀の川の水で酒を醸して神に供えられたことが、
丹生酒殿神社の社名の由来となっています。
昭和10年(1935)には丹生都比売神社の摂社として合併されましたが、
戦後、三谷、兄井、寺尾の氏神に復しました。

酒殿神社を実質的な基点とする三谷坂は神社を含め、高野参詣道の一つとして
平成28年(2016)に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産に追加登録されました。
三谷坂は、平安時代には既に開かれており、朝廷からの勅使が高野山へ向かう道として
用いられたことから古くは「勅使道」と呼ばれました。
酒殿神社に参拝した後、社殿の背後にある七尋滝で水垢離による潔斎を行い
三谷坂を登り始めました。
三谷坂は丹生都比売神社に至り、高野山町石道へ合流する平安時代には
高野山参詣の最短の道でした。
沿道には弘法大師の笠が風で吹き飛ばされ、笠が引っ掛かったとされる「笠石」があります。
酒殿神社-銀杏の木
境内に入った右側には大銀杏の木が聳えています。
酒殿神社-拝殿-1
酒殿神社-拝殿-2
鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
酒殿神社-本殿
本殿は右から小社、右座、中座、左座の四殿から成ります。
小社には諏訪明神と八王子神、右座には丹生都比売大神(丹生明神)、
中座には高野御子大神(狩場明神)、左座には誉田別大神(熊手八幡)と
市杵島比売大神(厳島明神)が祀られています。
また、若力大神社(わかりきおおかみしゃ)は、榊山山頂の若力大神が祀られています。
榊山神社
本殿の左側には榊山神社があり、第二次世界大戦で亡くなられた
56柱の英霊が祀られています。
酒殿神社-鎌神社石碑
拝殿前の左側には「鎌八幡」の石碑が建っています。
酒殿神社-鎌神社鳥居
本殿の右側を進むと鎌八幡宮の鳥居が建っています。
酒殿神社-鎌神社
酒殿神社-鎌神社御神体
本殿の裏側に当る山の斜面にイチイガシの大樹を御神体として鎌八幡が祀られています。

丹生都比売神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村