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相槌神社
淀屋辰五郎の居宅跡から西へ進むと「安居(あんご)橋」があり、
橋を渡って直進すると石清水八幡宮への参道となりますが、
左折して南へ進むと相槌神社があります。
宝永7年(1710)頃までは石清水八幡宮の管理下にありましたが、
以降は近隣住民によって社殿が維持されてきました。
相槌神社-山ノ井
隣接して山ノ井があり、「髭切(ひげきり)」、「膝丸(ひさまる)」と命名された
名刀の以下のような伝説が残されています。
『平安時代の中頃、多田(源)満仲(912~997)公が筑紫国三笠郡土山に住んでいる
鍛冶職人の男を呼び寄せて「武将にも朝廷にも代々受け継ぐことのできるような、
丁度三種の神器に匹敵するくらいの立派な刀を打ってほしい」と要望され、
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈りました。
やがて「汝の申すこと、よく分かった。良い鉄を使って作るがよい。
最上の剣を二つ与える」との託宣を頂いた。
その刀工は良質の鉄を持って来て山ノ井の水を焼刃の水に使って昼夜を問わず
懸命に刀を打っていると、何処からともなく相槌をしてくれる音がして、
ふと我に返ると向かいに神様がいて一緒になって刀を打っていた。
その刀鍛冶は霊験の厳かさに、神様をこの場所に祀り相槌稲荷社とした。
出来た二振りの刀は、早速、多田満仲公に献上した。
満仲は余りもの素晴らしさに、刀の切れ味を罪人を使って試したところ、
罪人の髭まで切れてしまった。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、その刀を「髭切(ひげきり)」
「膝丸(ひさまる)」と命名した。
満仲の息子の源頼光(948~1021)の時、その二振りの刀の一振りは源頼光の配下の
渡辺綱(953~1025)が持ち、一条戻り橋で突然何者かに兜をつかまれた
渡辺綱が切りかかると、兜をつかんだままの鬼の腕だけ落ちていた。
更にもう一振りは源頼光が持ち、瘧(おこり=マラリヤ)で苦しんでいた時、
怪しい法師が現れ切ったところ、それが土蜘蛛だと分かった。
この様な奇怪な出来事が起こり、名前を「鬼斬(おにきり)」、
「蛛斬(くもきり)」と改名した。
後世、この二振りの刀は北條氏に渡り、一振りを足利尊氏(1305~1358)に、
もう一振りが新田義貞(1301~1338)へ伝わり、
その後新田氏から徳川氏に伝来したという。』
下馬碑
相槌神社から南へ直進すると、相槌神社の裏を登って石清水八幡宮への表参道へ合流し、
その石段下に松花堂昭乗(1582~1639)の筆と伝わる「下馬碑」があります。
松花堂昭乗は堺の出身で、慶長3年(1598)に石清水八幡宮へ入り、
男山四十八坊の一つであった瀧本坊で出家して社僧となり、
後に僧として最高位である阿闍梨となりました。
書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、
近衛信尹(このえ のぶただ:1565~1614)、本阿弥光悦(1558~1637)とともに
「寛永の三筆」と称せられました。
泰勝寺-山門
相槌神社まで戻り、東へ折れた南側に泰勝寺(たいしょうじ)があり、
門前に「松花堂旧跡」の石碑が建っています。
明治の神仏分離令により、松花堂昭乗の墓は男山山麓で荒れ果てていました。
大正7年(1918)に泰勝寺が創建され、昭乗の墓が移されました。
寺名は熊本の細川家菩提寺の名を譲り受け、境内には昭乗の茶室「閑雲軒」を模して
茶室も造られ、宝物館もあり、予約すれば拝観も可能です。
本妙寺-日門上人の碑
泰勝寺から東へ進み、東高野街道へ右折して南へ進んだ西側に本妙寺があり、
その前に「正平役城之内古跡」の碑が建っています。
京都奪還を目指し、当地に行宮を置いた
第97代/南朝第2代・後村上天皇(在任:1339~1368)でしたが、
近江国へ逃れていた足利義詮(あしかが よしあきら:1330~1367)が、
兵を募って京都へ攻め入り、行宮を包囲し当地は戦場となりました。
この争いは「正平役」とも「八幡の戦い」とも呼ばれています。

またその横には「日門上人墓所」の碑が建っています。
本妙寺は、日門上人(生没年不詳)が真言宗の僧で、「南光坊」と称していた時に、
南光坊に帰依した竹内伊予守経孝(生没年不詳)により、創建されました。
本妙寺-日門上人の墓
参道を進むと左側に日門上人の墓があります。
南光坊は、永禄年間(1558~1570)に法華宗真門流の総本山・本隆寺
第六世・證(証)誠院日雄(1509~1571)に説法教化され、
永禄7年(1564)に法華宗へ改宗し、名を「日門」と改め、
山号を「久遠山」、寺号を「本妙寺」として開山しました。
寺は栄え、塔頭二院を擁するようになりますが、法華宗の勢力拡大を望まない
織田信長(1534~1582)は、天正7年(1579)に安土の浄厳院で、
法華宗と浄土宗の論争「安土宗論」を行わせ、法華宗の敗北と判定されて
日門上人は斬首刑に処せられました。
本妙寺-日門上人の墓-横
墓石の横には「天正七年五月二十七日安土法厄殉滅」と刻まれています。
本妙寺-本堂
現在の本堂は、平成8年(1996)11月22日の不審火で焼失後に再建され、
平成12年(2000)に落慶法要が行われました。
金剛律寺の碑
東高野街道へ戻って南下し、次の四つ角を越えた東側への丁字路へ入ると、
突き当たりに「金剛律寺故址(こし) 京都元標四里三十二丁」の碑が建っています。
金剛律寺は、建武年間(1334~37)頃に建立されたのですが、江戸時代末期に
堂坊が大破して廃寺となりました。
大正3年(1914)12月、跡地に町役場が置かれ、
八幡から京都市までの距離の計測基点となりました。
京都まで四里32丁(約18.456km)と記されています。
現在はその跡地が八幡市の図書館となっています。

その左側には「正平役園殿口古戦場 左 本妙寺半丁 右 法園寺二丁」の
碑が建っています。
八幡の戦いは60日に及び、南朝側が敗退して後村上天皇は、北朝の光厳・光明・崇光の
3上皇と皇太子直仁親王を連行して賀名生へ戻りました。

東高野街道へ戻り、南下して善法律寺(ぜんぽうりつじ)へ向かいます。
続く
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寺号標
船岡山の西側に千本通りに面して上品蓮台寺があります。
山号を蓮華金宝山、院号を九品三昧院(くぼんさんまいいん)と号する
真言宗智山派の寺院です。
寺伝によれば、飛鳥時代に聖徳太子が母の菩提寺として創建され、
平安時代に宇多法皇により中興されたと伝わります。
一方で、『日本紀略』の天徳4年(960)9月9日の条に「寛空が北山に一堂を建立し、
亡き父母の供養をした」とあり、
これが実質的な上品蓮台寺の創建と推測されています。
かって、平野神社の西付近に第62代・村上天皇の御願により創建された
香隆寺(こうりゅうじ)があり、寛空が兼帯していたため、
上品蓮台寺は一時「香隆寺」と呼ばれていました。
香隆寺はその後荒廃し、上品蓮台寺に併合されました。

その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文禄年間(1592~1596)に
豊臣秀吉の援助を受けた根来寺の性盛(しょうせい)による復興され、
真言宗智山派に改宗されました。
住所
千本通りを挟んだ東西に12の塔頭が建立されて「十二坊」と呼ばれるようになり、
町名として残されていますが、現在は「北区紫野十二坊町」です。
江戸時代には洛陽四十八願所霊場の一ヵ所となりましたが、江戸幕府或いは明治政府の
上知令(じょうちれい/あげちれい)により、多くの寺領が失われ、
塔頭も3院を残すのみとなりました。
通用門-1
北側に通用の門があります。
かって、京都には五つの葬送地があり、
「五三昧(ごさんまい)」と呼ばれていました。
鳥辺野(とりべの)、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)の三大風葬地の他に
東寺の西側に狐塚(きつねづか)、現在は「さいいん」と呼ばれる
西院(さいん)です。
上品蓮台寺は、蓮台野への葬送菩提の寺として栄えました。
通用門-2
院号の「九品(くほん)」は、浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表し、
人の往生には上品・中品・下品があるとしています。
更にそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、
上品上生(じょうぼんじょうしょう)では、来迎に導かれ、
阿弥陀如来の浄土に往生できるとされています。
また、下品下生は、五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者
とされています。
札
門には歓喜天の修法である「浴油供(よくゆく)」が修されたことなどが
記されています。
一般の寺院では、ほとんど見かけることはありませんが、
かっては、普通にこのように掲げられていたのでしょうか?
書院
上品蓮台寺は、観光寺院ではありませんので、建物の説明を記した駒札などが
ほとんど立っていませんので詳細は不明です。

門をくぐった正面は書院だと思われます。
庫裡
北側には庫裡があります。
井戸
南側に井戸があります。
手水鉢
現在では使用されていませんが、手水鉢が併設されています。
本堂
更に南へ進むと本堂があります。
本尊は延命地蔵菩薩です。
清凉寺の釈迦如来像は、一時期、上品蓮台寺に安置されていました。
清凉寺の釈迦如来像は、インド・コーシャンビー国の国王・優填王(うでんおう)が
栴檀(せんだん)の木で等身大の釈尊の立像を造らせたものです。
その像が中国に伝わり、開元寺に安置されていました。
永観元年(983)に宋に渡った奝然(ちょうねん:932~1016)は、
開元寺に安置されていた像を、現地の仏師に依頼してその像を模刻させ、
日本に持ち帰りました。
永延元年(987)に帰国した奝然は、愛宕山を中国の五台山に見立て、
この地にその像を安置する寺の建立を意図したのですが、延暦寺に反対され、
実現できず、上品蓮台寺に安置されるようになりました。
長和5年(1016)に奝然が入滅し、奝然に随持して入宋した弟子の盛算
(じょうさん)が、奝然の遺志を継ぎ、清涼寺を創建し、
像は清涼寺へ遷されました。
定朝の墓
本堂の裏側に墓地があり、その入口に仏師・定朝の墓があります。
定朝は、平安時代後期に活躍した仏師で、寄木造技法の完成者とされています。
治安2年(1022)に藤原道長が創建した法成寺金堂・五大堂の造仏の功績により、
仏師として初めて法橋(ほっきょう)の僧位が与えられました。
「定朝様」と呼ばれる柔和で優美な造形を確立し、
平安貴族からは「仏の本様」と讃えられました。
後に、息子の覚助からは院派慶派、弟子の長勢からは円派が生まれました。
寶泉院
本堂から南へ下った所に塔頭の寶泉院(ほうせんいん)があります。
鐘楼
寶泉院から戻ると、上品蓮台寺の境内の南東角に鐘楼があります。
大師堂
鐘楼の北側に大師堂があります。
大師堂-扁額
大師堂の扁額。
修行大師像
大師堂の北側には修行大師像が祀られています。
聖天堂-鳥居
庫裡の北側に聖天堂の鳥居が建っています。
聖天堂
鳥居をくぐった正面には聖天堂があり、歓喜天が祀られています。
歓喜天の浴油供は秘法の中でも最上の祈祷法とされています。
歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、
ガネーシャの父はヒンズー教最高神の一柱・シヴァとされています。
ガネーシャは、難羅山に陣取って魔神として暴れ回り、他の神々から憎まれ、
毒物を喰らわされ苦しんでいました。
それを見た十一面観音ががこれを哀れみ、ガネーシャに仏法に帰依する事を
誓わせ、その山中にある油の池に連れて行きました。
十一面観音は、油を加持してガネーシャの頭より灌がれたところ、
ガネーシャの悪い毒物が除かれ、善神となりました。
十一面観音と力を合わせて世の中の苦しんでいる人々を救う誓願を立てられ、
その二人の姿が「歓喜双身天」になったとされています。
このことから、浴油供が最上の祈祷方法となりました。
また、歓喜天が象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」との説があります。
大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、
除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。
祠
聖天堂の手前には小さな祠が並んでいますが詳細は不明です。
参道
参道を北へ進むと門があります。
真言院-門
門には塔頭の真言院と記されていますが、境内に建物は見当たりません。
阿刀氏塔
墓地があります。
五輪塔は「阿刀氏(あとし)塔」と呼ばれています。
空海の母は、阿刀宿禰(あとのすくね)の娘で、その兄か弟に
阿刀大足(あとのおおたり)がいました。
延暦7年(788)に空海は阿刀大足を頼って平城京が置かれた奈良に行き、
大足から論語・孝経・史伝・文章などの個人指導を受けました。
空海は延暦11年(792)に大学寮に入り、延暦23年(804)には大足の援助を得て
第18次遣唐使の学問僧として唐に渡りました。
大足は平安京遷都に伴って京都に移り住み、伊予親王に学問を教授していたとされ、
大同2年(807)に起こった伊予親王の変に連座して失脚したとみられています。
この塔は阿刀氏供養のため建立されたと推察されます。
頼光塚
墓地の北西隅に源頼光朝臣(みなもと の らいこう あそん)塚があります。
『平家物語』「剣巻(つるぎのまき)」を要約すると
以下のようなことが記されています。
『平安時代の中頃、頼光の父・源満仲は、筑紫国三笠郡土山に住んでいる
鍛冶職人の男を呼び寄せ、名刀を造るように命じました。
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈り、二振りの刀を鍛え上げました。
満仲が刀の切れ味を罪人を使って試したところ、罪人の髭まで切れてしまい、
その刀を「髭切(ひげきり)」と命名しました。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、
「膝丸(ひさまる)」と命名しました。
二振りの刀は頼光に与えられ、「膝丸」を頼光が持ち、
「髭切」は頼光に仕えていた四天王の随一・渡辺綱に与えられました。
渡辺綱が馬に乗り、一条堀川の戻り橋を渡ったときに若い美女から自宅まで
送ってほしいと頼まれて馬に乗せましたが、その美女は鬼に姿を変え渡辺綱に
襲い掛かりました。
渡辺綱は鬼の手を「髭切」で切り落として命を長らえ、
以後、「髭切」は「鬼丸」に改名されました。

また、頼光は瘧(おこり=熱病)で苦しんでいた時に怪しい法師が現れ
膝丸で斬りつけました。
しかし、法師は逃げて、頼光が四天王と共に後を追いました。
北野の裏に大きな塚があり、その塚の中に大きな土蜘蛛が逃げ込んでいました。
頼光と四天王は土蜘蛛を捕え、鉄の串に刺して河原に立てて曝しました。
頼光の病は癒え、以後「膝丸」は「蜘蛛切」に改められました。
一説ではその土蜘蛛を埋めた「蜘蛛塚」とも伝わります。

花山天皇陵へ向かいます。
続く

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二の鳥居
頓宮の南門から南へ進むと表参道で、
「頼朝松」から右側(西側)の石段を上ると裏参道となります。
表参道から登り、裏参道へ下りたいと思います。
表参道の入口には二の鳥居が建ち、ここから30分弱で本殿へ参拝することができます。
相槌神社への下り坂
鳥居をくぐり参道を進むと下りの石段があります。
下馬碑
石段を下った所に松花堂昭乗の筆と言われている下馬碑が建っています。
相槌神社
下馬碑の北側に相槌神社があります。
山ノ井-1
山ノ井-2
相槌神社に隣接して山ノ井があります。

相槌神社には髭切(ひげきり)、膝丸(ひさまる)と命名された名刀の
以下のような伝説が残されています。
『平安時代の中頃、多田(源)満仲公が筑紫国三笠郡土山に住んでいる鍛冶職人の男を
呼び寄せて「武将にも朝廷にも代々受け継ぐことのできるような、丁度三種の神器に
匹敵するくらいの立派な刀を打ってほしい」と要望され、
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈りました。
やがて「汝の申すこと、よく分かった。良い鉄を使って作るがよい。
最上の剣を二つ与える」との託宣を頂いた。
その刀工は良質の鉄を持って来て山ノ井の水を焼刃の水に使って昼夜を問わず
懸命に刀を打っていると、何処からともなく相槌をしてくれる音がして、
ふと我に返ると向かいに神様がいて一緒になって刀を打っていた。
その刀鍛冶は霊験の厳かさに、神様をこの場所に祀り相槌稲荷社とした。
出来た二振りの刀は、早速、多田満仲公に献上した。
満仲は余りもの素晴らしさに、刀の切れ味を罪人を使って試したところ、
罪人の髭まで切れてしまった。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、その刀を髭切(ひげきり)
、膝丸(ひさまる)と命名した。
満仲の息子の源頼光の時、その二振りの刀の一振りは源頼光の配下の渡辺綱が持ち、
一条戻り橋で突然何者かに兜をつかまれた渡辺綱が切りかかると、
兜をつかんだままの鬼の腕だけ落ちていた。
更にもう一振りは源頼光が持ち、瘧(おこり、マラリヤ)で苦しんでいた時、
怪しい法師が現れ切ったところ、それが土蜘蛛だと分かった。
この様な奇怪な出来事が起こり、名前を鬼斬(おにきり)、蛛斬(くもきり)と改名した。
後世、この二振りの刀は北條氏に渡り、一振りを足利尊氏に、もう一振りを
新田義貞へ伝わり、その後新田氏から徳川氏に伝来したという。』
七曲り
参道へ戻ると七曲がりの石段が続きます。
大扉稲荷社-1
大扉稲荷社-2
七曲がりの石段を登りきると左側に大扉稲荷社があります。
文政12年(1829)当時、富くじが流行し、御利益を得た信者の寄進で建立されたそうです。
現在でも宝くじに御利益があるかは定かではありません。
かげきよの碑
大扉稲荷社の前に影清塚があり「舊跡(きゅうせき)かげきよ」の石碑が建っています。
駒返し橋の碑
影清塚から奥へ進むと「駒返し橋」の石碑が建っています。
祓谷
この谷は「祓谷(はらいだに)」と呼ばれ、参道沿いに小川が流れ、
曲がった所に駒返し橋が架かっています。
ここから先は登りが急峻となるので、馬がここから引き返したと伝わりますが、
七曲がりの石段下に下馬碑があり、ここまで馬で来れなかったと思われます。
かって、この辺りに祓谷社があり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされる
瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られていました。
参詣の人々はこの小川に自分の影を写し、身繕いを正したことが
「影清」の由来となったと伝わります。
6月30日の夏越大祓と12月31日の年越大祓もここで行われていましたが、
現在は山上の祓所に移されました。
参道の先は松華堂跡や石清水社を経て、裏参道に合流します。
かげきよ塚の先
表参道に戻ります。
ここからは緩やかな登り坂が続きます。
橘本坊跡
緩やかな坂を登った所に東谷・橘本坊(きっぽんぼう)跡があり、石垣が残されています。
石清水八幡宮は宮寺として創建され、江戸時代までは
「男山四十八坊」と呼ばれる宿坊や僧坊が建ち並んでいました。
橘本坊もその一つで、足利氏の祈願所でした。
足利氏は、平安時代後期に石清水八幡宮の社頭で元服し、「八幡太郎」と呼ばれた
源義家の四男・義国が下野国(しもつけのくに)足利荘(栃木県足利市)を領地とし、
義国の次男・義康以降の子孫が「足利」と称したことに始まります。
室町幕府の第三代将軍・足利義光の母・良子は石清水八幡宮寺の長官を務めた
善法寺家の出身であったことから所縁も深く、
足利将軍の多くは何度も参詣し、放生会も執り行いました。
橘本坊には八幡太郎の産衣や甲冑が残されていましたが、
宝暦9年(1759)の大火で失われました。
男山の麓の南約300mの所に善法寺家ゆかりの善法律寺があり、
良子が寄進した紅葉が美しく「もみじ寺」とも呼ばれています。
また、善法律寺には神仏分離令後の廃仏毀釈で、頓宮の極楽寺から
宝冠阿弥陀如来坐像、本宮からは僧形八幡坐像が遷され安置されています。
橘本坊跡先の石段
橘本坊跡からは再び石段が続きます。
石段の曲がり角
石段は右側へカーブしています。
中坊跡
曲がった先に中坊と椿坊の跡があります。
椿坊は現在の社務所辺りにあり、平安時代後期から鎌倉時代にかけての
女流歌人・小侍従(こじじゅう)が住んでいたと伝わります。
小侍従は石清水八幡宮の別当・光清(こうせい)の娘で、異母姉は鳥羽天皇に嫁ぎ、
八幡市の地名・美濃山から美濃局と呼ばれました。
小侍従は女房三十六歌仙の一人に加えられ、私家集である『太皇太后宮小侍従集』、
『小侍従集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に作品を残しています。
また、『平家物語』等に記されたエピソードから
「待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)」と呼ばれました。
小侍従の墓は大阪府三島郡島本町にあります。
四角い切り石が積み上げられた所には中坊の門がありました。
中谷の絵図
この辺りは「中谷」と呼ばれ、現在の社務所周辺まで所狭しと坊が建ち並んでいました。
豊蔵坊跡
中坊跡の石垣の上には豊蔵坊跡があります。
豊蔵坊は徳川家康が早くから祈願所とし、徳川将軍家の坊として最も栄えました。
石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家、正法寺(しょうぼうじ)の志水宗清の
娘・お亀の方は、文禄3年(1594)、22歳の時、家康に見初められ側室に入り、
慶長5年(1600)には尾張徳川家の祖である五郎太(後の徳川義直)を出産しました。
そのような関係からか、豊蔵坊は江戸幕府が直接修理や築造を行い、
客殿や庭園を備え、湯殿が2か所、3棟の蔵がありました。
また、文久3年(1863)には第121代・孝明天皇が攘夷祈願を行いました。
しかし、明治の神仏分離令により建物は全て破却され、
徳川家康の像は等持院へ遷されました。
茶処
石段を上った中間辺りに茶処がありますが、普段は営業されてないようです。
古地図にはこの付近に愛染堂が描かれていますが、
還俗した社僧らによって売却されました。
愛染堂は寛元4年(1246)に建立された隅切り八角形の仏堂だったそうです。
愛染明王像
安置されていた愛染明王像は現在、愛知県蒲郡市の永向寺に遷されています。
開山堂の絵図
愛染堂の向かいには、古絵図では開山堂が描かれていますが、
その後の変遷などの詳細は不明です。
神仏分離令後、石清水八幡宮から凄まじい勢いで仏教色が排除され、
貴重な文化財が換金されて散逸したそうです。
神馬舎
石段を上った左側に神馬舎があります。
昭和34年(1959)に新築され、神馬も奉納されましたが、
平成16年(2004)に死去してからは建物だけが残されています。
神馬舎の辺りには天治3年(1126)に平清盛の孫である平 宗実(たいら の むねざね)が
建立した「駿河三昧堂」と称した多宝塔がありました。
走上り参道
神馬舎の横にも古くからの参道があり、古絵図では小さな門が描かれています。
ナビタイムによると、走上りバス停まで1.1km、約15分、歩数は約1,506歩で、
消費カロリーは約185kcalだそうですが試してはいません。
三の鳥居
神馬舎の正面には三の鳥居があり、参道が南総門まで一直線に伸びています。
三の鳥居周辺には、平安時代に藤原道長の建てた仏塔がありました。
鳩峯寮の庭
鳥居をくぐった左側に、重森三玲氏による「鳩峯寮(きょうほうりょう)の庭」が築庭されています。
昭和36年(1961)9月16日の第二室戸台風で倒壊した三の鳥居の石材を用いて
昭和41年(1966)5月11日に作庭されました。
重森三玲氏は明治29年(1896)8月20日に岡山県で生まれ、昭和4年(1929)に
京都へ移り住み、生涯にわたって石清水八幡宮への月参りを続けられました。
第二室戸台風は最低気圧が882hPaを観測した超大型台風で、9月16日9時過ぎに
中心気圧925hPaで室戸岬西方に上陸し、風速計が振り切れてしまう
(84.5m/s以上)の風を観測しました。
関西に甚大な被害をもたらしたこの台風により、正保2年(1645)に建立された
三の鳥居が倒壊しました。
石灯籠

三の鳥居から南総門までの石畳の参道は100mあり、両側には400基の石灯籠が並び、
その一部にはかっての宿坊の名が残されています。
平成30年(2018)6月18日午前7時58分に発生した大阪北部地震では、境内や参道の
石灯籠約500基の内約40基が倒壊するなどの被害を受けました。
関係者からは「倒れた石灯籠は江戸時代以降のもので、それ以前のものは無傷であった」と
の話もありましたが、現在では全て修復されています。
一ッ石
石畳の参道の三の鳥居前の中央に、自然石が埋め込まれています。
「一ッ石」「勝負石」と呼ばれ、かって南総門の下にあった「五ッ石」まで、
競い馬・走り馬の出発点になっていました。
また、百度参り、千度参りの起点となっていたことから「百度石」とも呼ばれ、
江戸時代には本殿参拝を終えた参詣人が一ッ石の前で再び本殿に向かい
拝礼するという習わしがあったとも伝わります。
御鳳輦舎
参道を進んだ右側(東側)に御鳳輦舎(ごほうれんしゃ)があります。
ここに鳳輦(ほうれん)3基が納められています。
鳳輦とは、屋根に鳳凰の飾りのある天子の輦(くるま)で、神輿の原形と言われています。
石清水祭では、本殿から3座の神霊が鳳輦3基で頓宮殿まで降りられる際に使用されます。
御羽車舎
御鳳輦舎の北側に御羽車舎があります。
淀殿が再興した経蔵でしたが、明治の神仏分離で羽車2基を納め「御羽車舎」と改称されました。
羽車とは、御神体の移動などに用いられる輿(こし)のことです。
書院
御羽車舎の北側に書院があります。
石庭-1
石庭-2
書院石庭は昭和27年(1952)に重森三玲氏によって作庭されました。
南北約8m、東西約6mの方形のなかに白砂が敷き詰められ、
八幡大神の「海神」としての神格に因み、海洋を表しています。
白砂の上にはもともと男山に散在していた石14個を大海原に浮かぶ島に見立てて配し、
三尊石を組んだものもあります。
15個目の石として、石庭の東南の角には配置されている石灯籠には
「永仁3年(1295)未乙三月」の刻銘があり、国の重要文化財に指定されています。
社務所
書院に隣接して北側に社務所があります。
供御所
南総門への石段下の左側に供御所(くごしょ)があり、
現在の建物は慶長2年(1597)に造営されました。
竈神殿
また、末社の竈神殿(そうしんでん)としてかまどが祀られています。
台所守護神を祀り、神殿に供える食物を調理する所としての役割を持っていました。
カゴの木
南総門の右側(東側)に立つカヤの木は、御神木とされています。
樹齢約700年以上で樹高約20mあり、京都府下のカヤのなかでも有数の巨木とされています。
カヤの実からは油が採れますが、現在では石清水祭の神饌として使われ、
また茶道・裏千家の初釜式において「蓬莱山飾り」という新春のお飾りにも用いられています。

本殿へ向かいます。
続く

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