石垣
銀閣寺の総門を出た直ぐ前を南へ5分余り歩くと法然院の石垣に突き当たります。
寺号標
石垣沿いに西から南へと進んだ先に法然院への参道があります。
金毛院
参道を登ると塔頭・金毛院の門がありますが、非公開です。
金毛院は法然院を再興した忍澂和尚(にんちょう)の住坊で、「金毛老人」と
呼ばれた忍澂和尚から名付けられたと思われます。
つながる-1
山門前に平成31年(2019)にガラス造形作家・西中千人(にしなか ゆきと:1964~)に
よって作庭されたガラスアートによる枯山水の庭があり、
「つながる」と称されています。
つながる-2
「循環する命とつながっていく宇宙」が題材とされています。
つながる-3
使用済みのガラス瓶がリサイクルされ、大小20ほどが
オブジェとして配置されています。
山門
山門は市内で唯一の茅葺・数寄屋造りで、昭和(1928~1989)の初期に倒壊し、
その後復元されました。

法然院は正式には「善気山・法然院・萬無教寺」と号し、
建永元年(1206)に法然上人が弟子たちと共に六時礼讃行を修した
草庵に由来するとされています。
法然上人は天養2年(1145)に比叡山に登り、久安3年(1147)に皇円の下で得度し、
第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
比叡山で修行を行っていた法然上人は、承安5年(1175)に浄土宗を開こうと考え、
比叡山を下って岡崎に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を開きました。
建永元年(1206)に六時礼讃行を修した際、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に
院の女房たちが参加したため、後鳥羽上皇の怒りを買い、
上皇は念仏停止の断を下しました。
弟子の遵西(じゅんさい=安楽)と住蓮は女房を感化し、
出奔同然で出家させたことにより処刑されました。
法然上人は還俗して「藤井元彦」と名乗らさせられ、土佐国に流される
予定でしたが、配流途中に九条兼実の庇護により配流先は讃岐国へと変更されました。

その後、草庵は荒廃し、江戸時代になった寛永年間(1624~1643)に京極・浄教寺
住持・導念(道念)が、この地で草庵を結び、「法然院」と名付けました。
延宝8年(1680)に知恩院第38世・萬無和尚(ばんぷ/まんむ:1607~1681)により、
法然上人ゆかりのこの地に念佛道場を建立することが発願され、
弟子の忍澂和尚(にんちょう:1645~1711)によって、
現在の伽藍の基礎が築かれました。
浄土宗内の独立した一本山でしたが、昭和48年(1953)に浄土宗から独立し、
単立宗教法人となりました。
白砂壇
山門をくぐると参道の両側に白砂壇(びゃくさだん)が設けられています。
水が表され、その間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味しています。
蛇行する砂紋の中に花びらの模様が見えますが、季節によってこの模様は変化します。
鐘楼への石段
右側に鐘楼への石段がありますが、登るのは禁じられています。
鐘楼
門の外から見上げた鐘楼です。
講堂
石段の右側に講堂があります。
元は元禄7年(1694)に建立された浴室でしたが、昭和52年(1977)に内部が改装され、
現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
放生池
参道の先に放生池があり、橋を渡ると丁字路となります。
橋を渡って山門の方を振り返りました。
丁字路
丁字路の角
十万霊塔
丁字路を右(東側)へ進むと十万霊塔が建っています。
本堂-1
塔から左に折れた左側に本堂があります。
本堂-2
延宝9年(1681)5月に客殿として建立され、
貞亨5年(1688)に佛殿と拝殿が別設されました。
本尊は阿弥陀如来坐像で、観世音菩薩と勢至菩薩を両脇侍としています。
本尊前の須弥壇上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花が散華されています。
地蔵菩薩像-1
本堂正面の石段上に地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像-2
元禄3年(1690)、忍澂和尚(にんちょう)が46歳の時に、自身と等身大の
地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されました。
方丈への門
本堂の北側に方丈がありますが、門は閉じられ、カメムシが描かれています。
強烈な臭いを発するカメムシが、なぜ描かれているのかは不明です。
方丈は、元は延宝3年(1675)に建立された第111代・後西天皇皇女・
誠子内親王 (ともこないしんのう:1654~1686)の御殿でした。
内親王が薨去後の貞亨4年(1687)に移築されました。
上の間の襖絵「桐ニ竹図」は国の重要文化財に指定され、法然院の公式HPでは
狩野光信(1565~1608)の筆とされていますが、異説もあり狩野永徳の次男・孝信
(1571~1618)や光信と同じ「右京」と号した狩野時信(1642~1678)との説があります。
また、堂本印象(1891~1975)が昭和46年(1971)に描いた「新襖絵」があり、
抽象画による障壁画の数少ない例とされています。

方丈前には貞享4年(1687)頃に作庭されたと推定されている浄土庭園があり、
中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置されています。
心字池があり、池中の「善気水」と呼ばれる湧水が水源になっています。
善気水は忍澂和尚が錫杖(しゃくじょう)で突いたことにより湧き出たと伝わり、
茶の湯にも用いられ、名水の一つに数えられています。
玄関
丁字路まで戻り、左(西側)へ進むと玄関があります。
法然院は毎年4/1~4/7と11/1~11/7に特別公開が行われています。
参拝したのは3/23で、方丈庭園などの画像を収めることが出来ませんでした。
庫裡
左側には庫裡があります。
経蔵
庫裡から南へ進むと経蔵があります。
元文2年(1737)に建立され、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像が
安置され、多数の経典の版木が所蔵されています。
多重石塔
経蔵の南西側に多重石塔が建っています。
十三重石塔と二重石塔が組み合わされ、大正10年(1921)に建立されました
墓地への石段
山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。
墓地の入口には江戸時代に建立された阿育王(アショーカオウ)の塔があります。
滋賀県東近江市にある石塔寺(いしどうじ)に伝わる阿育王塔を、
江戸時代に模造したものとされています。
阿育王塔
石塔寺の伝承では、「インドのアショーカ王が仏教隆盛を願って三千世界に建立した
8万4千基の仏舎利塔のうち2基が日本に飛来し、1基は琵琶湖の湖中に沈み、
1基は近江国渡来山(わたらいやま)の山中に埋もれ、それを掘り出したもの」と
されています。
実際には奈良時代(710~794)前期頃に朝鮮半島系の渡来人によって建立されたと
みられています。
石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、
国の重要文化財に指定されています。
河上肇の墓
阿育王塔の北側に河上肇夫妻の墓があります。
河上肇(1879~1946)は京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行い、
後に共産党員となって獄中生活を送りました。
有名な『貧乏物語』の他に多数の著作があり、学生時代に副読本として使用した
記憶もあります。
経塚
背後には経塚があります。
金毛塔
墓地を南へ進むと「金毛塔」と称される忍澂和尚(にんちょう)の墓があります。
忍澂は正保2年(1645)に武蔵国で生まれ、早くに両親を亡くし、9歳で出家を志して
増上寺の直伝(じきでん)のもとで修学しました。
後に萬無を師とし、師命により増上寺の林冏(りんげい)のもとで修学しました。
江ノ島の弁才天、近江浄信寺の地蔵尊、竹生島の弁才天等に参籠するなどして
修行を重ね、延宝8年(1680)に萬無の命を受けて法然院の再建を始めました。
宝永3年(1706)に建仁寺蔵『高麗版大蔵経』と『黄檗版大蔵経』との対校を
始めましたが、病を発症し正徳元年(1711)11月10日に入寂されました。
福田平八郎の墓
その手前に福田家の墓があり、左側に福田平八郎夫妻の墓があります。
福田平八郎(1892~1974)は日本画家で、大正7年(1918)に京都市立絵画専門学校
(現:京都市立芸術大学)を卒業し、後に同校の教授となりました。
谷崎潤一郎の墓‐空
その手前に谷崎潤一郎の墓があり、潤一郎の筆による
「空」と「寂」が刻まれています。
谷崎潤一郎の墓‐寂
「寂」の方にだけ塔婆が立てられていますので、こちらが潤一郎の墓かもしれません。
青春時代に好きな作家の一人でした。
今、改めて読み直すと新たな発見があるのかもしれません。

法然院には哲学者・九鬼周造(1888~1941)や昭和56年(1981)にアジアで初めて
ノーベル化学賞を受賞した福井謙一(1918~1998)などの著名人の墓があります。
総門
墓地から下ると総門があります。
圓光大師
圓光大師(法然上人)御舊(旧)跡の碑
安楽寺-山門
法然院の総門を出て南へ数分の東側に安楽寺があります。
山号を「住蓮山」と号する浄土宗の単立寺院で鎌倉時代に現在地より
東へ約1kmの山中に創建されました。
法然上人の弟子・住蓮と安楽が当地辺りを散策していた際に白鹿が現れ、
鹿に導かれて山に分け入り、
その鹿が消えた所に霊告を感じて草庵を結んだとされています。
安楽寺-浄土礼讃根元地の碑
門前には「浄土礼讃根元地」の碑が建っています。
住蓮と安楽は唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山
礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。
二人は音楽的才能に恵まれ、指導する浄土礼讃は大衆の多くの支持を得ました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に上皇の女官・松虫と鈴虫が
夜中秘かに小御所を抜け出し、住蓮と安楽のもとで剃髪・出家しました。
この事は上皇の逆鱗に触れ、住蓮と安楽は斬首刑、法然上人は流罪となり、
以後草庵は荒廃しました。(承元の法難
承元元年(1207)に法然上人は赦免され、箕面の勝尾寺に滞在した後、
建暦元年(1211)に京都へ戻り、二人の菩提を弔うため草庵の復興を命じられ、
「住蓮山安楽寺」と名付けられました。
法然上人はその翌年の1月25日に78歳で入寂されました。
その後、天文年間(1532~1555)に現在地で本堂が再建され、復興されました。
安楽寺-拝観謝絶
山門には「拝観謝絶」と記されています。
春は4月上旬の土日(さくら)、5月上旬の土日・祝日(つつじ)、
5月下旬~6月上旬の土日(さつき)と開花に合わせて公開されています。
秋は11月全土日・祝日及び12月上旬の土日に紅葉に合わせて公開されています。
また、7月25日に「鹿ケ谷カボチャ供養」が修せられ、この日も公開されます。
江戸時代の末期、当時の住職・真空益隋(しんくう やくずい)が、
人々を病苦から救済するため、本堂で100日間の修行を行いました。
すると本尊の阿弥陀如来から「夏の土用のころに、鹿ケ谷カボチャを食べれば中風に
ならない」との霊告を受け、カボチャをふるまったのが
「鹿ケ谷カボチャ供養」始まりとされています。
江戸時代に粟田村の百姓が津軽への旅の途中で種を譲り受け、
栽培が始められて昭和30年(1955)までは盛んに収穫されていました。
その後、新品種の登場で栽培農家が減少しましたが、栄養価の高さから
見直されているようです。

本尊は像高85cmの阿弥陀如来坐像で、脇侍として左に勢至菩薩立像、
右に観音菩薩立像が安置されています。
右端に地蔵菩薩立像、左端には龍樹菩薩立像が安置されています。
龍樹(りゅうじゅ)は2世紀頃にインドに実在した僧で、サンスクリットの
「ナーガールジュナ」の漢訳名です。
大乗仏教を体系化した人物で、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を
著し、その巻第五「易行品第九」で浄土往生の思想が強調されて
浄土教の祖ともされています。

本堂西側に安置されている「法然上人張り子像」は、上人の74歳の姿と伝わり、
上人の書簡、名号などの反古紙(ほごし)が張り合わせられています。
その左側の「親鸞聖人旅姿像」は、承元の法難で越後国国府(現、新潟県上越市)
への流罪となり、その旅での35歳の姿とされています。
住蓮坐像は合掌し、安楽坐像は右手に剃刀、左手に宝珠を載せ、
その下に松虫坐像と鈴虫坐像が安置されています。

地蔵堂に安置されている「くさの地蔵」は、平成3年(1991)の解体修理で墨蹟が
発見され、正嘉2年(1258)に慶派仏師により造立されたことが判明しました。
皮膚病の瘡(くさ=湿疹)の平癒に御利益があるとされています。

また、境内の南東側に松虫・鈴虫の、南側に住蓮と安楽の供養塔があります。

霊鑑寺へ向かいます。
続く
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