国道24号線を南下し、京滋バイパスとの高架の手前にある信号を左折して進むと
宇治川に架かる隠元(いんげん)橋があります。
橋の東詰北側角に「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の碑が建っています。
隠元禅師は、中国福建省で生まれ、生地の黄檗山萬福寺で得度しました。
江戸時代初期の承応3年(1654)、先に渡日していた
興福寺住持の逸然性融(いつねん しょうゆう)に請われ渡日しました。
万治2年(1659)、4代将軍・徳川家綱より寺領を賜ることになって、その候補地を探しに
宇治川を遡り、東方の妙高峰に中国福建省の黄檗山と風景が
よく似ていることから候補地と定めました。
また、この辺りには、かって「岡屋の津」という港があり、古くから交通の要衝として栄え、
鎌倉時代には近衛兼経(かねつね)が別荘を営み、
やがてこの地域は近衛家の所領となりました。
橋から東進し、京阪・宇治線とJRの踏切を越えて行くと萬福寺・塔頭の宝善院があり、
予約が必要ですが中国風の精進料理・普茶料理がいただけます。
元禄3年(1690)に創建され、明治8年(1875)に陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地として
政府に収接され、現在地に移転しました。
境内には「廣化庭」が築かれ自由に拝観できるようです。
また、境内には干支の守本尊八佛が祀られています。
その内の一体、虚空菩薩像は丑・寅年生まれの守護仏になります。
宝善院の先に同じく塔頭の宝蔵院があります。
寛文9年(1669)、鉄眼(てつげん)禅師が一切経の開版を志し、
隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立されました。
天和元年(1681)に完成した、全6,956巻の一切経には6万枚の版木が使われました。
その版木が日本の原稿用紙形式の起源とされています。
文字には明朝体が使われ、書体としての明朝体はこれから発したものです。
鉄眼一切経は、国の重要文化財に指定されています。
一切経経蔵庫は、300円で拝観することもできます。
宝蔵院の先に塔頭の萬松院(ばんしょういん)があります。
寛文10年(1670)、東巌により師・龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)の
塔所として創建されました。
表門を入った右側の金成不動尊は「宇治十三社寺まいり」財運の十二番願所となっています。
不動堂の左奥には不動明王及び矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子
(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊像の石像が祀られています。
不動堂の奥、山の斜面に天光塔があり、京都府の文化財に指定されています。
龍渓性潜は京都で生まれ、8歳で東寺に入り、
16歳で摂津国の臨済宗・普門寺で出家しました。
その後、普門寺の住持となりましたが、竜安寺の伯蒲慧稜(はくほ えりょう)に参禅し、
伯蒲慧稜が没後は竜安寺の塔頭である皐東庵を自坊とし、
以後、京都妙心寺の首座となりました。
慶安4年(1651)9月には、50歳で妙心寺の住持に就任したのですが、
その後退隠して再び普門寺に戻りました。
承応3年(1654)に中国から隠元禅師が来日するとその弟子となり、
黄檗山萬福寺の建立に助力して日本での黄檗宗の開宗に尽力しました。
寛文8年(1668)4月、後水尾法皇に招かれ、内院にて菩薩戒を授けました。
寛文9年(1669)4月には、正式に隠元禅師の法を嗣ぎ、法皇からは、
大宗正統禅師の師号を賜りました。
寛文10年(1670)8月に大坂の九島院で催行された斎会に赴いた際、
台風に襲われましたが、避難の勧告に応じず自ら洪水中に身を置き、
水が引いた後も禅堂に坐したまま69歳でこの世を去りました。
本堂
萬松院の先に萬福寺の総門がありますが、総門の前に「龍目井(りゅうもくせい)」と
呼ばれる左右二対の井戸があります。
井戸の前に立つ駒札には以下のように説明されています。
『この井戸は寛文元年(1661)冬、隠元禅師が掘らしめられたもので、
萬福寺を龍に譬(たと)え、これを龍目となし、天下は龍衆、善知識が挙(こぞ)って
比庵に集らんことを念願されたもの。
禅師曰く、「山に宗あり、水に源あり、龍に目あり、古に耀(かがや)き今に騰(あが)る」』
井戸と井戸の間には明恵(みょうえ)上人の歌碑があります。
『栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影』
明恵上人は師匠の栄西禅師が中国から持ち帰った茶の種子を、
栂尾深瀬の地に播きました。
上人はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、
茶の木を移植し、それが宇治茶の始まりです。
上人が馬にのり、その馬の足影(足跡)に茶の種を植えることを
宇治の里人に教えた様子が詠まれています。
萬福寺の総門は、元禄6年(1693)に建立されたもので、左右の屋根が低い
「牌楼(ぱいろう)式」と呼ばれる中国風の門です。
屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、
摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えています。
扁額『第一義』は五代・高泉の筆によるもので、総門とともに
国の重要文化財に指定されています。
萬福寺は創建当時の伽藍が残されていて、16棟が国の重要文化財に指定されています。
総門を入った右側に放生池があり、蓮で覆われています。
左側に塔頭の萬寿院があります。
隠元禅師から招かれ、明暦元年(1655)に明より渡日した
木庵性瑫(もくあん しょうとう)の塔所として創建されました。
木庵性瑫は、寛文4年(1664)に隠元の法席を継ぎ、翌寛文5年(1665)に
江戸に下り徳川家綱に謁見し、優遇されました。
表門は京都府の文化財に指定されています。
参道の先、右側に田上菊舎(1753年11月8日~1826年9月24日)の句碑が建っています。
菊舎は長門国豊浦郡田耕(たすき)村(現在の下関市豊北町田耕)で生まれ、
16歳で近くの農家・村田家に嫁ぎましたが、夫と24歳の時に死別し、
子供にも恵まれなかったことから実家に戻り、復籍しました。
そして、俳諧としての道を志し、尼僧となりました。
天明元年(1781)の29歳の時、芭蕉と親鸞の旧跡を訪ねる旅を決意し、
芭蕉の奥の細道を逆コースで巡りました。
寛政2年(1790)3月、38歳の時に萬福寺に訪れ、
「山門を 出れば日本ぞ 茶摘みうた」と詠みました。
参道を進むと延宝6年(1678)に建立され、
国の重要文化財に指定されている三門があります。
三門・天王門・通玄門・舎利殿・寿蔵には清浄域への入口を示す円柱が用いられています。
三門の上部には山号『黄檗山』の扁額が掲げられ、
大屋根の中央には火焔付の宝珠が置かれています。
その下『萬福寺』の扁額は『黄檗山』とともに隠元禅師の筆によるもので、
国の重要文化財に指定されています。
隠元禅師は能書家としても知られ、木庵性瑫(もくあん しょうとう)、
即非如一(そくひ にょいつ)とともに「黄檗の三筆」と称されました。
三門の左右には窟門があります。
三門をくぐり拝観料500円を納め境内に入ります。
参道を進み左に折れると通玄門があります。
寛文5年(1665)に建立された四脚門で、国の重要文化財に指定されています。
通玄門には「奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門」との意味が込められています。
扁額は隠元禅師の筆によるもので、国の重要文化財に指定されています。
門をくぐった左側に寛文3年(1663)に建立され、
国の重要文化財に指定されている松隠堂があります。
寛文13年(1673)、82歳になった隠元禅師は、住持を弟子の
木庵性瑫(もくあん しょうとう)に移譲し、隠居所として松隠堂に居住しました。
禅師没後は開山塔院となりました。
正面に開山堂があり、開山・隠元禅師が祀られています。
寛文3年(1663)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
上層に掛る扁額「瞎驢眼(かつろげん)」は隠元禅師の師・
費隠通容(ひいんつうよう)禅師の筆によるものです。
「瞎驢」とは「目の開かない驢馬(ろば)」のことで、「瞎驢眼」は
「未だ目の開かない驢馬の眼」ということになります。
その下の「開山堂」は隠元禅師の筆によるものです。
「瞎驢眼」の扁額とともに国の重要文化財に指定されています。
堂内には72歳時の等身大とされる像高160cmの隠元禅師像が
安置されていますが、よく見えません。
隠元禅師は、明朝の禅である「明禅」を日本に伝えただけでなく、
明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えました。
日本における煎茶道の開祖ともされ、インゲン豆にその名を残し、西瓜や蓮根、
孟宗竹(タケノコ)などを伝え食文化にも大きな影響を与えました。
後水尾上皇から「大光普照国師」の号を賜りました。
開山堂から回廊を進みますが、萬福寺の伽藍は全て屋根つきの回廊で結ばれています。
回廊は国の重要文化財に指定されています。
その先、左側に寛文3年(1663)に建立され、
国の重要文化財に指定されている寿塔があります。
隠元禅師が、生前に自らの墳墓として築造しました。
扁額「真空塔」は第112代・霊元天皇の筆によるものです。
この付近に舎利殿があるはずなのですが、見つけることができませんでした。
寛文7年(1667)、隠元禅師に帰依した後水尾法皇が、
黄金の仏舎利多宝塔を奉安するため自ら寄進して建立されました。
宝永6年(1709)に法皇の木造が安置されました。
回廊の突き当りに宝永6年(1709)に建立され、
国の重要文化財に指定されている石碑亭があります。
亀趺(きふ)に載せられた石碑には、寛文13年(1673)に後水尾法皇から贈られた
「特賜大光普照国師塔銘」の刻文があります。
回廊は南へと曲がり、曲がった所に「合山鐘(がっさんしょう)」と
呼ばれる梵鐘が吊るされています。
開山堂、寿塔、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ撞かれます。
南へ向かう回廊の西側には「中和園」と名付けられた庭園が築かれています。
かって、この地に後水尾天皇の母・中和院の大和田御殿がありました。
中和門院に仕えた文英尼が隠元禅師に帰依し、
同尼を通じて禅師は天皇はじめ公家の信望を得るようになりました。
中和園に建立されている石碑は、多分「大和田御殿」跡を示すものと思われます。
中和園にある井戸は、中和井(ちゅうわせい)と呼ばれ、
御殿で使われていたものを、昭和47年(1972)に整備されました。
庭園の東南隅には池があります。
回廊は池の横を東へと曲がっています。
進行方向の左側、回廊の北横には禅堂書院・潜修禅への通路があり、
中間に丸い石が配置されています。
禅堂書院・潜修禅は非公開になっています。
続く
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