竹生島に上陸すると「琵琶湖周航の歌」の歌碑が出迎えてくれます。
この曲は大正6年(1917)6月28日、第三高等学校(現在の京都大学)ボート部の部員による
恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」
(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われました。
歌詞にある「古い伝えの竹生島」のとおり、古来、信仰の対象となった島で
神の棲む島とも伝えられています。
背後には「琵琶湖八景 深緑 竹生島の沈影」の碑が建立されています。
竹生島では平成16年(2004)以降、カワウが急速に増加して、
多くの樹木を枯らせたとニュースで報じられていました。
現在ではカワウの姿も見られず、植林もされて深緑が取り戻されています。
上部に見える細長い建物は宝厳寺の本坊です。
また、竹生島の水際八町は殺生を禁止する旨の碑も建っています。
自販機で400円の入島券を購入して境内に入りますが、下船したほぼ全員の方々は
宝厳寺へ向かいますので、参拝図にあるようにまず、都久夫須麻神社の方へ向かいました。
始発の船なら宝厳寺の方から下ってくる人とも出会わず、ほぼ独占して
都久夫須麻神社に参拝することができると思います。
橋の上からは竹生島港が一望できます。
手前には都久夫須麻神社の船も停泊しています。
橋を渡った所に黒龍堂があります。
昭和45年(1970)に大阪の岡橋氏によって建立された後、
平成7年(1995)に修復が行われ、鳥居が再建されました。
黒龍が祀られ、背後の大木が黒龍が湖から昇ってくると伝わる御神木とされています。
黒龍堂は大阪の黒龍大神が勧請されたのでしょうか?
参道は「舟廊下」の懸け造りの横を通ります。
先にある石段を上った右側に招福弁財天が祀られています。
白巳大神を祀る社殿。
白巳大神の詳細はこちらをご覧ください。
琵琶湖を望む断崖上に龍神拝所があります。
ここから土器(かわらけ)に願い事を書き、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げ、
鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。
本殿への石段の右側に江の島の江島神社と宮島の厳島神社があります。
この二社を含め「日本三大弁才天」と称されています。
石段の左側には左側には天忍穂耳神社(あめのおしほみみじんじゃ)と
大己貴神社(おおなむちじんじゃ)があります。
天平3年(731)に第45代・聖武天皇が都久夫須麻神社に参拝した際に創建されたと伝わります。
天忍穂耳神社の祭神・天忍穂耳命は『古事記』では、天照大神の勾玉から生まれたとされています。
天照大神から葦原中国(あしはらのなかつくに)を天降って平定するように命じられますが、
下界は物騒だとして途中で引き返しました。
葦原中国とは、天にある高天原と地下にあり、死者の世界である黄泉(よみ)の国の中間にある、
日本の地上世界を指します。
大己貴神社の祭神・大己貴命は大国主命とも呼ばれ、粗暴のため高天原を追放された
須佐之男命(すさのおのみこと)の息子とも六世または、七世の孫ともされています。
大己貴命は少名毘古那命(すくなびこなのみこと)の協力を得て、
人々に農業や医術を教え葦原中国の国造りを完成させました。
その後、建御雷神(たけみかづちのかみ)らによって大己貴命から国譲りがなされ、
再び天忍穂耳に降臨の命が下りました。
しかし、天忍穂耳はその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に
行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天下ることになりました。
天忍穂耳命の「おしほみみ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神を意味し、
稲穂の神、農業神として信仰されています。
大国主命は出雲神社の祭神であり、病を封じる神(医療神)として信仰されています。
本殿は永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。
これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。
慶長7年(1602)には豊臣秀頼により、片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として改造されました。
建物中心部の身舎(もや)は、伏見城の勅使殿が移築され、
元の本殿の外回りにの中に組み込まれました。
身舎の正面中央間は黒漆塗の桟唐戸を立て、菊文様の装飾彫刻で飾られています。
現在、内陣の拝観は中止されていますが、折上格子天井には
菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地・著色画が施されています。
襖には草花図が描かれ、天井画と共に狩野永徳、光信親子の筆によるものと伝わります。
庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。
建立年代の異なる2つの建物を合体して1棟としたもので、国宝に指定されています。
社伝では、雄略天皇3年(459)に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが、
都久夫須麻神社の始まりと伝わります。
『近江国風土記』には夷服岳(いぶきのたけ=伊吹山)の多多美比古命
(たたみひこのみこと)、久恵(くえ)の峰に姉の比佐志姫命(ひさしひめみこと)、
浅井の峰に姪の浅井姫命がいました。
ある時、夷服岳と浅井の峰(金糞岳)が高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って
浅井の峰の頭頂部を斬ったところ、湖に落ちて竹生島になったと記されています。
湖に落ちる時、「都布都布(つぶつぶ)」という音がしたので「都布失島(つぶくしま)」という
名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから
「竹生島」という名前になったとも伝わります。
天智天皇6年3月19日(667年4月17日)、近江大津宮へ遷都した第38代・天智天皇は、
宮中の守護神とし、第45代・聖武天皇は竹生島に宝厳寺を創建しました。
聖武天皇は天平3年(731)に参拝し、社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったと伝わります。
天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられ、
平安時代中期の『延喜式神名帳』で式内小社に列っせられました。
平安時代末期から弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として
「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになりました。
木曽義仲を討つべく平家の軍勢10万余騎は、北陸へ向けて琵琶湖西岸を北上しました。
その途中、琵琶の名手として名高い平経正(たいら の つねまさ)は竹生島に渡り、
この地で「上弦(しょうげん)、・石上(せき しょう)」の秘曲を奏でました。
そのあまりにも美しい調べに、弁才天の化身と思われる白龍が龍神となって現れたと伝わります。
寿永2年(1183)、平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠の戦いで、木曾義仲に撃破され
大半の軍勢を失い、平家滅亡への道を辿ることとなりました。
また、平経正は寿永3年(1184)、一ノ谷の戦いで命を落としました。
明治の神仏分離令により都久夫須麻神社と宝厳寺が分離、併存するようになりました。
祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと=弁財天)、宇賀福神、
浅井比売命(あざいひめのみこと)、龍神の四柱が祀られています。
地上から高天原に登ってきた須佐之男命と、「高天原を奪う等という邪心のないこと」を
天照大神に示すために誓約(うけい)が行われた際、天照大神が須佐之男命が
剣を噛んで吹き出した霧から生まれた五男三女神の三女神が宗像三女神とされています。
市杵島比売命は宗像三女神の三女(諸説あり)で「市杵(斎き)」には、
「神霊を斎き祭る」という意味があるとされています。
宗像三女神は、邇邇芸命を見守り助けるために玄界灘に浮かぶ
筑紫宗像の島々に降り立ったとされています。
後の神仏習合においては弁財天と同神とされるようになりました。
宇賀福神は、宝厳寺の弁財天像の頭頂部に小さく乗っています。
神名の「宇賀」は、伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂神(うかのみたま)に
由来するもの、または仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に
由来するという説もあります。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、延暦寺(天台宗)の教学に
取り入れられて、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体したとされ、
この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれます。
宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もあります。
宝厳寺へ向かいます。
続く
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