満願寺から北に進んだ先の四つ角を左折して西へ進むと、
平安神宮の応天門前に出ます。
平安神宮の旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に列せられ、
神仏霊場の第113番札所となっています。
毎年10月22日に行われる時代祭は、創建を記念して
平安京遷都の日に行われるようになりました。
平安神宮は明治28年(1895)3月15日に平安遷都1100年を記念して創建されました。
当時の京都は幕末の戦乱で市街地は荒廃し、更に東京奠都(てんと)で沈みきった
京都に活力を取り戻すため、同年4月1日から7月31日まで岡崎を会場として
第四回・内国勧業博覧会が開催され、
それに先立って平安神宮が創建されました。
社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、
実物の8分の5の規模で復元されました。
但し、本来の朝堂院では長岡京のように、応天門の前の前の両側には
翔鸞楼(しょうらんろう)と栖鳳楼(せいほうろう)がありました。
平安京や長岡京では、大極殿・朝堂・朝集殿をまとめて朝堂院と呼ばれ、
本来は応天門を入ると左右に朝集殿がありました。
更にその前には会昌門があり、その門を入ると朝堂12堂が左右に並び、
龍尾壇へ至る構成となっていました。
平安京の造営が開始された翌年の延暦14年(795)に、現在の千本丸太町付近で
朝堂院が造営され、貞観18年(876)、康平元年(1058)に焼失し、延久4年(1072)に
再建されて『年中行事絵巻』に描かれていた朝堂院を再現したとされています。
その後、安元3年(1177)に焼失し、戦が頻発して平安京が荒廃したこともあり、
朝堂院の再建は成されませんでした。
応天門は5間3戸、二層の楼門で、創建当初のものであり、
国の重要文化財に指定されています。
応天門の左右の翼廊は昭和15年(1940)に建立され、
国の登録有形文化財となっています。
龍尾壇の手前、右側には昭和15年(1940)に建立された神楽殿があり、
結婚式場として使用されています。
朝堂院の朝集殿を模したものとされ、国の登録有形文化財となっています。
平安時代の朝集殿は応天門を入った左右にあり、
参集した朝廷の臣下が開門の時刻まで待機した場所でした。
当時はこの先に会昌門があり、その門が開かれるまで
身づくろいなどしながら待機していました。
大極殿の手前には「龍尾壇( りゅうびだん )」と称される段差があります。
現在は龍尾壇の東西に石段が設置されていますが、
朝堂院では中央の一ヵ所にしかなく、その石段を登れるのは高い位階を任じられた
一部の貴族のみでした。
釣燈籠は明治38年(1905)の日露戦争の戦勝を記念して奉納されました。
大極殿から応天門に至る各回廊と神楽殿・楽殿に145基が吊り下げられ、
火袋の窓に蒼龍・朱雀・白虎・ 玄武の四神があしらわれています。
この奥に内拝殿と更にその奥に本殿がありますが、昭和51年(1976)に放火によって
焼失し、全国からの募金により、昭和54年(1979)に再建されました。
祭神は、平城京から都を平安京へ遷した第50代・桓武天皇が祀られていましたが、
昭和15年(1940)に京都での最後の天皇である
第121代・孝明天皇も祀られるようになりました。
その際に本殿・祝詞殿・内拝殿・翼舎・神楽殿(儀式殿)・額殿・
内外歩廊斎館(祭典の為参篭する館)・社務所などが増改築され、
本殿は東西に2棟並ぶ形となりました。
昭和51年(1976)1月6日の放火によって本殿や内拝殿、翼舎など9棟が焼失しましたが、
東西の両本殿から御神体は運び出されて難を逃れました。
昭和54年(1979)に再建されましたが、本殿は1棟となりました。
大極殿に神苑拝観の受付があります。
拝観料は600円で、神苑の入口は大極殿西の南北の回廊の中間辺りにあり、
大極殿から回廊を通って入口へ向かいます。
門を入った所に八重紅枝垂桜が植栽されています。
平安神宮が創建された明治28年(1895)に
初代仙台市長・遠藤庸治(えんどう ようじ:1849~1918)から寄進されました。
元は近衛家に伝承した「糸桜」を津軽藩主が持ち帰り、育てられたものが
京都へ戻ったことから「里帰りの桜」とも呼ばれています。
谷崎潤一郎は小説『細雪』で、姉妹が桜見物に訪れ、この神苑の桜が
京都で最も見事で美しいと記しています。
平安神宮の神苑は、総面積約33,000㎡(約10,000坪)の広大な池泉回遊式庭園で、
7代目・小川治兵衛らにより20年以上かけて作庭されました。
社殿を取り囲むように東・中・西・南の四つの庭からなり、
国の名勝に指定されています。
最初に拝観するのが南神苑で、昭和44年(1969)の孝明天皇百年祭の記念事業として
平安時代の特色である野筋(のすじ=平安時代からの庭園用語で、
低い盛土でゆるやかな起伏をつけた小丘)と遣水(やりみず)が設けられました。
庭園の南側に日本最古の電車が保存されています。
明治28年(1895)1月31日に京都電気鉄道が、日本初となる一般営業用電車での路線を
伏見から京都駅前付近まで開業し、同年開催の第四回・内国勧業博覧会の
交通手段として鴨東線(おうとうせん)が敷設され、岡崎まで延伸されました。
狭軌1形の2号車で、路面電車として初の重要文化財に指定されました。
昭和36年(1961)7月に最後まで狭軌のまま残されていた北野線が廃され、
その当時の姿で保存されています。
2軸で開業当初の最高速度は12.9km/hとされ、市街地などの危険な区間では
電車の前を先行して人が走り、電車の接近を知らせました。
また、開業当初は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で
乗降扱いを行っていたそうです。
池の西側の尚美館(しょうびかん)は、京都御苑内で開催された京都博覧会の中堂が
大正2年(1913)に移築されたものです。
京都では明治4年(1871)に日本最初の博覧会が西本願寺で行われました。
これを機に京都府と民間によって京都博覧会社が創設され、翌明治5年(1872)に
西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会が開催されました。
京都博覧会社(後に京都博覧協会と改称)主催の京都博覧会は昭和3年(1928)まで
ほぼ毎年開催され、第二回~第九回まで
京都御苑内の仙洞御所などが会場となりました。
明治14年(1881)の第十回から京都御苑内の東南の一画に博覧会会場が常設されました。
しかし、明治30年(1897)に岡崎で博覧会会場が建設されたため、
しかし、明治30年(1897)に岡崎で博覧会会場が建設されたため、
大正元年(1912)に修理し、翌年移築されました。
にほんブログ村